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29話
しおりを挟むイルネギィアが大きく窓を開け放った。
太陽が落ちる一歩手前の黄昏が現れた。
波の音が岬に叩きつけるようにうねる。
先に連絡をしておいたので、マキュスの館からヴァレルへ向かう馬車がたどり着いた。それにはバレリーの荷物を載せるよう指示していたので、彼女とはここで別れることになる。
バレリーは扉の外へと促すキースに従って外に出た。
可愛らしい、小さな家。夕日がその家を金に染めていた。
――ああ、綺麗だ、とバレリーは思う。
イルネギィアがそっと近づき、階段の下まで彼女がつまづかないよう手を取った。マキュスからの馬車から従僕が現れ、彼がイルネギィアからバレリーの手を引き継ぐ。
振り向くといつの間にか戸口に立つキースが扉に寄りかかり、こちらを見ていた。
お別れだ、とバレリーは思った。
「…貴方は親友だったわ」
「僕もそう思っていたよ。きみのことは とても好きだったね」
けれど。
「二度と僕らに関わらないでくれ」
そうキースは言い捨てた。
「それが、きみのため、だ」
バレリーは御伽噺を夢見てた。
彼女が心を捧げた王子が彼女のその献身に気がつくことを。そのあり得ない夢を大人になっても追い求め、そして、最後は王子の傍らの姫君たちを呪ったのだ。
そんな彼女に魔法使いは言い放った。
目覚めよ――と。
夢見る頃を続けていたい。しかし、それはもう不可能だった。
バレリーが馬車に乗り込み去って行った。彼女の髪の色は輝かしい夕日の色。イルネギィアはそれを見つめていた。彼女が視界から消えるまで。
きっと、もう会うことはないのだろう…。
とても優しくしてくれた人。魔法を失くしたイルネギィアの、最初の自由な心のお友達。
イルネギィアは悲しいのか苦しいのか自分の気持ちがわからなかった。
泣いてしまいたい、と思う反面、なぜか涙がこぼれなかった。
――これが、魔法に携わるということなのだろうか。人の心の深遠を覗き、操る者は、こうして大切な美しいものを失うこともあるということなのだろうか。だからと言って、知らぬふりは――出来ない。
イネルギィアはきっとキースはずっと長い間、こうした哀しみを抱えているのだろう、と思った。
だから、イルネギィアを助けてくれるのだ――と。
いつまでも草原に立ち尽くすイルネギィアに、キースが声をかける。
「イリー…。僕らも一度マキュスへ戻ろう…。テオドールや母上がきっと説明を待っている」
それに、こくりとイルネギィアは頷いた。
マキュスの館に着くとまずは空腹を満たし、イルネギィアとキースは彼らの待つ居間へと向かった。
そこには公爵夫人とテオドール、そして巻き込まれてしまったベティ・アンとその侍女が待っていた。
ヴィクトリアとギルバートの姉弟には聞かせるべきではないと判断して、彼らはテオドールが先にヴァレルに送り届けるよう手配した。既に館の客人は彼らだけだった。
イルネギィアは眼前にいる、ふっくらとした女性を見る。一昨日までクレアと名乗っていた人物だ。
彼女は今日は染めていた髪を洗い流し、本物の色を見せている。
そう、あのヴィクトリアのように。
銀色の毛先を踊るように跳ねさせている彼女が、イルネギィアに全てを打ち明けてくれたのだ。
――自分が、本物のベティ・アンだと。
夕べ、キースが屋敷に張っていた罠がここに危険があると振動した――。
それを察知してキースはその罠の示す先にその身を翻し駆けつけた。
着いた先は兄、テオドールの書斎だった。
躊躇せず扉を開ける。
机から離れ、一服しようとポットを傾ける兄が突然現れたキースを凝視する。キースは息を切らして彼に近づいた。
「口をつけないで。テオ」
ポットを奪い、カップの中を確認する。まだ注いではいなかったようだ。ポットの蓋を開け、くん、と匂いを嗅ぐと彼は嫌な顔をした。
何のつもりだと聞こうとしたが、テオドールもキースのそれらの行動でなにが起きようとしたのか察知した。
「――毒…か?」
眉根を寄せる。
「多分…。これを持ってきたのは?」
「…伯爵令嬢だ。差し入れだと。アジェラ産の茶葉が手に入ったからと持ってきた」
ベティ・アンか、と呟くと彼は彼女の私室に急ぐ。
早く彼女らの生死を確認しなければ。テオドールに害はなかった。間に合ったはずだ…。
しかし、キースは安心できない。
こんな くだらないことで、彼女のその若い命を散らすことなどあってはならないのだ。
足早に彼女の客室に入るとそこにはベティ・アンと侍女がいない。
どういうことだ、とキースは魔力を辿る。彼女たちは魔力もちだ、そして、そのうちの一人は――。
――いた。
その場所にキースは驚愕する。
それは、自分の部屋の続き部屋、イルネギィアの部屋だったから。
そして、彼は焦りを隠せぬまま部屋に戻り、そこにはベッドを整えているイルネギィアがいた。
その危機感を持たぬ風情に思わず当り散らした。
彼女をそのまま体ごとベッドに押し付け自由を奪った。あんなに激昂した理由が、自分でも理解できなかった。
ただ、彼女があまりに隙だらけなのが腹が立ったのだ。
他人の悪意に無関心にも程があると。
そして、隣室にいる『客人』らに向かって言った。
「…きみは本当に隠しごとが上手だ。初めて会った時の銀の髪、僕を釣るためだったかと思ったけれど、もっと狡猾だったね。きみは魔法の使い方を知っていた。だが、もう――全て表に出そう…!――きみが、〝魔法使い〟――だ」
イルネギィアは瞠目する。そして、キースは彼女の肩から手を離し二人はベッドから起き上がる。
イルネギィアの部屋の扉が開いた。
そこには先に訪れた客人の一人が毅然として立っている。
キースは隣室から出てきた女性に手を添え、そのふっくらと えくぼのある手の甲に恭しくキスを落とした。
「侍女と入れ替わっていたのはなぜか教えて欲しい。――ベティ・アン」
ああ! と侍女クレアは、いや、伯爵令嬢ベティ・アンは声をあげた。それを聞いてイルネギィアも驚いて見ている。
「違うんです、公爵家に害なすためにしたことではないの…。クレアは私の身を守るため、父がギルドに頼んだボディガードだったんです…!」
そして、彼女の背中から、己の存在が暴露されたことを知って慄いている〝魔法使い〟クレアが現れた。
「いったい、どうして?」
しんと静まり返った居間で、まず疑問を響かせたのは公爵夫人だった。
それに答えるようキースが銀の髪の娘、ベティ・アンに促した。
「先に申し上げます。――私には結婚を望んでいる相手がいるのです…。テオドール様とは別に」
イルネギィアは彼女が幸せそうに読んでいた手紙を思い出す。
「ですが、公爵家とお近づきになりたいという両親はこのお話をお受けしました。この――マキュスでの夏の社交を。ただ、両親も心配していたのです。…その」
彼女は言いづらそうにキースを見た。彼はかまわないと彼女に相槌を打つ。
「…〝魔法使い〟たるキース様に近づくと恐ろしい目にあうのだ、と。他愛ない噂です。ですが、両親は私の身を案じて侍女にギルドからのボディガードのクレアをつけてくれたのです」
昨日までベティ・アンを名乗っていた若い少女は居づらそうに身を縮ませる。だが、〝魔法使い〟を名乗れるのだ。その魔力の量は少なくとも本物のベティ・アンより上だろう。
「――刺青は?」
テオドールがきつく聞く。
ベティ・アンはいつも身に着けている長手袋をそっと脱いだ。確かに手首に青いふくろうの刺青がある。
「軍にいたのか。なぜ、ギルドに?」
「…仕事が実行できなくて…。ボディガードの方が性にあっていたのです」
彼女はテオドールの尋問に身をすくませる。涙目になっているのを彼は忌々しげに見る。それを主たる本物のベティ・アンが助け舟を出す。
「彼女は優しい女性です。それで私の提案に乗ってくれたのです。この社交の間、私の身代わりを務めてくれると。両親と違って、私自身は実際に結婚に至るつもりはなかったので」
ただ、と彼女は続ける。
「偽者でも、ベティ・アンは―クレアは―貴方を崇拝していました。立派な方だと。だから、バレリー様から貴方がアジェラの茶葉を好んでおられると聞いて ただ、差し入れしたのです。それにザハナが混じっているなんて知りませんでした! むしろ、クレアは私に毒を盛られると懸念していたのです。庭師に手に入れたザハナをどこに植えたか聞かれて。庭師は女中から伯爵令嬢が欲しがっていたと聞いたと言っていました」
そのあとを引き継ぐように、若い魔法使いはおそるおそる口にする。
「…テオドール様のお茶に入っているなどとは思いもしませんでした…。その、お嬢様のご両親が心配なさっているように、お嬢様に誰かが毒を入れようとしていると…。キース様にご相談するより、イルネギィアさんにまずは全てを話そうとお部屋に伺ったら、こんな事態に…」
テオドールはキースをチラと見る。
「真実だよ。彼女たちは知らなかった」
キースはその繊細な指先を自分の唇に当てる。テオドールは額を押さえた。そして弟に聞く。
「…バレリーがすべて?」
「そう。〝あの人〟…バレリーが。彼女がすべて画策した。共犯はいないよ。ザハナは鑑賞用としては可愛い花を咲かせるからね――女中とはバレリーの部屋の子だろう。あとで確認してみて欲しい」
「そうか…。お前がそう言うのなら、そうなんだろう。申し訳なかった、ベティ・アン嬢。すまないがここからは――公爵家の問題だ。引き止めて悪いが今夜はもう部屋で休んで頂いてもいいだろうか?」
彼女らに異論はなかった。そして、礼を言って居間から出る間際、キースがクレアに耳打ちした。
彼女らが出たあと、テオドールがそれを咎める。
「なにを言った?」
「少々脅した。彼女には不快な思いをさせられたから。なにも…」
――イリーに助けを求めなくても。
その間、彼女が〝魔法使い〟になにをされるかと、どれだけ心配したことか! たまたま、クレアがそういう行為の出来ない人間だったに過ぎない。もしも、自分がその立場だったら、イリーに魔法をかけて犯人に仕立て自分は逃走するぞ、と思う。
けれど、さすがに兄や母の前ではそれは口にはしない。
しばし沈黙が落ちた。
そこにはもう他人がいないので、(イルネギィアはいるが)彼らは本当に聞きたいことをキースに聞くことにした。
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