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3 フィレンツェの赤狼(ロッソ)
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大広間が静まり返る。
扇を持つ令嬢たちの手が止まり、誰もが私を凝視していた。
フィレンツェでは、派閥がすべてだ。
商人でも、職人でも、貴族でも、どの家に味方するかで、明日には運命が変わる。
だからこそ、人々は中立を装う。
巻き込まれまいと、ほんの少し首をすくめ、視線を横にそらす。
大理石の床の上で、私だけが孤立していた。
その沈黙を破ったのは、公子だった。
「――不愉快だ」
吐き捨てるように言い放ち、彼は宮廷の大広間に置かれていた飾り用の金杯を手にし、それを私にむけて投げつけた。
純金製で重さが1kg前後はあり、見た目が小さくても、顔や頭に当たれば骨折する危険がある。
避ける間もなかった。
視界にせまる影に、思わず目を閉じる。
その瞬間、誰かが私の前に飛び出した。
「っ!」
鈍い衝撃音。
金杯は私ではなく、赤毛の男性の肩に当たって床へ転がった。
彼は、私を背にかばうように立っている。
衝撃を受けたはずなのに、うめき声ひとつ上げず、公子にむけて言った。
「公子、発言を許可願います」
その男は、黒い軍外套を肩に掛け、胸には戦場で凹んだ鉄の胸甲を身につけていた。
私の無事を確認するように、彼はふりむいて私を見た。
北フランス~ブルゴーニュ系の血を思わせる、灰色の瞳。
すぐに視線をまえへもどし、玉座の前に立つアレッシオ公子をまっすぐ見すえる。
貴族たちがざわめいた。
「傭兵隊長が、なぜここに……?」
16世紀のイタリアは『ルネサンス期』まっただ中で、フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノなどの都市国家は、自前の軍を持たず傭兵団を雇っていた。
戦の主力は、銃兵や傭兵団で、昔のように鎧をまとった騎士が戦う時代ではない。
“騎士”という言葉は、名誉称号だけが残っている。
ルネサンス期の傭兵隊長は、軍の請負人であり、都市国家や領主から契約を受けて軍を率いる職業指揮官だった。
なぜ、傭兵隊長が宮廷にいるのか。
その理由はおそらく、彼が公爵家に雇われた「都市防衛軍の指揮官」だったからだ。
フィレンツェでは、傭兵隊長は政治とは別の“軍事権力”として宮廷に招かれることがある。
だから公爵宮――この町で最も権力の集まる建物に、彼が立っていたのも不思議ではなかった。
公子アレッシオが、目を細める。
「フィレンツェの赤狼(ロッソ)――ルカ・ベラルディか。
貴様は、我がフィレンツェ領主家に雇われた、軍人に過ぎぬ身だ。
この場は宮廷であり、戦場ではない。立ち去れ」
ロッソはイタリア語で、赤色。
赤毛の人や、血気盛んな性格などを表すあだ名としても使われていた。
傭兵隊長ルカ・ベラルディは片眉を上げ、わずかに笑った。
「戦場か宮廷かなど、俺の知ったことではありません。公子が無実の娘を、証拠もなく断罪するというなら――それは正義の装いをした暴力でしかない」
誰も私を庇おうとしなかったこの宮廷で、最初に歩み寄ってくれたのは、貴族ではなく、血と泥にまみれた傭兵だった。
アレッシオ公子は、ルカをにらみつける。
「……彼女を守るというなら、貴様はこの場で“反逆者”と見なされるぞ」
「構わん。俺の首ひとつで、彼女の名誉が守られるなら安いものだ」
謁見の間の空気が凍り、誰も言葉を発せなくなる。
燭台の炎が揺れ、アレッシオ公子の顔を照らした。
「ならば、おまえも追放してやる。そこの令嬢とともにな!」
アレッシオ公子の命令は、公文書役人によってすぐさま記録された。
婚約破棄の場で公子を非難し、武装したまま宮殿に踏み入った傭兵隊長ルカ・ベラルディは、『公権侮辱』および『宮廷での武装違反』として有罪とされた。
本来ならばこれは反逆に等しい罪だが、彼がメディチ家に雇われてきた傭兵指揮官であること、公の場で血を流しては派閥争いの火種になることから、死刑ではなく、追放が選ばれた。
私、貴家の娘イザベラ・ロレンツィに対しても、正式な裁判は行われず、『名誉を穢した疑惑の貴婦人』として家の領地と財産の大半を没収され、フィレンツェ市からの無期限追放が下された。
判決は、こう読み上げられた。
「彼女イザベラ・ロレンツィは、翌朝までにアルノ川の橋を渡り、城壁外へ出ること。以後、二度とフィレンツェへ戻ってはならぬ。
公子の決断に異を唱え、剣を抜かんとした傭兵ルカ・ベラルディも同様に、馬と武具のみ携えて退去せよ」
フィレンツェでは、追放者は数日間「出国準備期間」が与えられるものだけど、翌朝には出ていけ、とアレッシオ公子は言った。
剣も称号も取り上げられず、命も奪われなかったのは、「追放こそが最も静かで都合の良い処罰」だからである。
市民の前で血を流せば、ロレンツォ派・反メディチ派・教会勢力が騒ぎ立てる。
フィレンツェは、血ではなく法と沈黙で人を消す街であった。
扇を持つ令嬢たちの手が止まり、誰もが私を凝視していた。
フィレンツェでは、派閥がすべてだ。
商人でも、職人でも、貴族でも、どの家に味方するかで、明日には運命が変わる。
だからこそ、人々は中立を装う。
巻き込まれまいと、ほんの少し首をすくめ、視線を横にそらす。
大理石の床の上で、私だけが孤立していた。
その沈黙を破ったのは、公子だった。
「――不愉快だ」
吐き捨てるように言い放ち、彼は宮廷の大広間に置かれていた飾り用の金杯を手にし、それを私にむけて投げつけた。
純金製で重さが1kg前後はあり、見た目が小さくても、顔や頭に当たれば骨折する危険がある。
避ける間もなかった。
視界にせまる影に、思わず目を閉じる。
その瞬間、誰かが私の前に飛び出した。
「っ!」
鈍い衝撃音。
金杯は私ではなく、赤毛の男性の肩に当たって床へ転がった。
彼は、私を背にかばうように立っている。
衝撃を受けたはずなのに、うめき声ひとつ上げず、公子にむけて言った。
「公子、発言を許可願います」
その男は、黒い軍外套を肩に掛け、胸には戦場で凹んだ鉄の胸甲を身につけていた。
私の無事を確認するように、彼はふりむいて私を見た。
北フランス~ブルゴーニュ系の血を思わせる、灰色の瞳。
すぐに視線をまえへもどし、玉座の前に立つアレッシオ公子をまっすぐ見すえる。
貴族たちがざわめいた。
「傭兵隊長が、なぜここに……?」
16世紀のイタリアは『ルネサンス期』まっただ中で、フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノなどの都市国家は、自前の軍を持たず傭兵団を雇っていた。
戦の主力は、銃兵や傭兵団で、昔のように鎧をまとった騎士が戦う時代ではない。
“騎士”という言葉は、名誉称号だけが残っている。
ルネサンス期の傭兵隊長は、軍の請負人であり、都市国家や領主から契約を受けて軍を率いる職業指揮官だった。
なぜ、傭兵隊長が宮廷にいるのか。
その理由はおそらく、彼が公爵家に雇われた「都市防衛軍の指揮官」だったからだ。
フィレンツェでは、傭兵隊長は政治とは別の“軍事権力”として宮廷に招かれることがある。
だから公爵宮――この町で最も権力の集まる建物に、彼が立っていたのも不思議ではなかった。
公子アレッシオが、目を細める。
「フィレンツェの赤狼(ロッソ)――ルカ・ベラルディか。
貴様は、我がフィレンツェ領主家に雇われた、軍人に過ぎぬ身だ。
この場は宮廷であり、戦場ではない。立ち去れ」
ロッソはイタリア語で、赤色。
赤毛の人や、血気盛んな性格などを表すあだ名としても使われていた。
傭兵隊長ルカ・ベラルディは片眉を上げ、わずかに笑った。
「戦場か宮廷かなど、俺の知ったことではありません。公子が無実の娘を、証拠もなく断罪するというなら――それは正義の装いをした暴力でしかない」
誰も私を庇おうとしなかったこの宮廷で、最初に歩み寄ってくれたのは、貴族ではなく、血と泥にまみれた傭兵だった。
アレッシオ公子は、ルカをにらみつける。
「……彼女を守るというなら、貴様はこの場で“反逆者”と見なされるぞ」
「構わん。俺の首ひとつで、彼女の名誉が守られるなら安いものだ」
謁見の間の空気が凍り、誰も言葉を発せなくなる。
燭台の炎が揺れ、アレッシオ公子の顔を照らした。
「ならば、おまえも追放してやる。そこの令嬢とともにな!」
アレッシオ公子の命令は、公文書役人によってすぐさま記録された。
婚約破棄の場で公子を非難し、武装したまま宮殿に踏み入った傭兵隊長ルカ・ベラルディは、『公権侮辱』および『宮廷での武装違反』として有罪とされた。
本来ならばこれは反逆に等しい罪だが、彼がメディチ家に雇われてきた傭兵指揮官であること、公の場で血を流しては派閥争いの火種になることから、死刑ではなく、追放が選ばれた。
私、貴家の娘イザベラ・ロレンツィに対しても、正式な裁判は行われず、『名誉を穢した疑惑の貴婦人』として家の領地と財産の大半を没収され、フィレンツェ市からの無期限追放が下された。
判決は、こう読み上げられた。
「彼女イザベラ・ロレンツィは、翌朝までにアルノ川の橋を渡り、城壁外へ出ること。以後、二度とフィレンツェへ戻ってはならぬ。
公子の決断に異を唱え、剣を抜かんとした傭兵ルカ・ベラルディも同様に、馬と武具のみ携えて退去せよ」
フィレンツェでは、追放者は数日間「出国準備期間」が与えられるものだけど、翌朝には出ていけ、とアレッシオ公子は言った。
剣も称号も取り上げられず、命も奪われなかったのは、「追放こそが最も静かで都合の良い処罰」だからである。
市民の前で血を流せば、ロレンツォ派・反メディチ派・教会勢力が騒ぎ立てる。
フィレンツェは、血ではなく法と沈黙で人を消す街であった。
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