水滸綺伝

一條茈

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第四回 趙員外、魯達を文珠院に出家させ 魯智深、五台山にておおいに暴れる

(一)

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 「さあ、張さん、こちらへどうぞ。お懐かしいですなあ」
 「おい、何をするんだ爺さん、俺は張なんて名じゃ……」
 己の半分ほどの大きさしかない痩せた老人にしては随分と強い力で手を引かれ、魯達は人気のない路地裏に連れ込まれる。
 さすがにむっとして文句を連ねようと、ぎろりと顔をあげれば、そこには。
 「あんた、金のおやじさんじゃないか!」
 己を張と呼んだ老人の柔和な顔は、まさしく魯達が手配書を出される所以となったあの鄭にいじめられていた金の父親であった。
 「恩人様、いかにも、先日あなた様にお救い頂いた金でございますよ。まったく、忘れもしないご尊顔をお見かけして追いかけて来れば、恩人様ときたら、ご自分の手配書をしげしげ眺めていらっしゃる。もし私が気付かなかったらと思えば、肝も冷えましたよ。あんなにはっきり、あなた様のお名前や姿かたちが書いているのですから」
 思いも寄らぬ再会に、魯達は己が間一髪で危機をやり過ごしたことも忘れて、大きな口をあけて笑いながら金老人の背を叩いた。
 「ハハ、俺は字が読めんからな。それに、例え周りの奴らが気付こうが、誰も俺を恐れて手など出して来るまいよ。だが、まさかここでまた会うとは思わなかった。あんたも手配書を見たなら知ってるだろう。あんたたち親子を逃がした日、俺は肉屋の鄭をこらしめに行ったんだが、仕置きのつもりで二、三発殴りつけたらうっかり殺してしまってな。それで逃げているうちに、この街まで流れついたというわけだ。あんたはここで何をしているんだ? 東京に行ったはずだと思っていたが……それに、娘さんは元気か?」
 「恩人様、実は我々親子、あなた様に救っていただいたあの日、最初は東京へと向かうつもりでおりました。ですが、我々が東京に縁があることを鎮関西は知っていましたから、あなた様もおられない道すがら、追っ手をやられては大変と、東京へは向かわず北を目指したのでございます」
 人目を避けるように入り組んだ細い路地へを進んでいく金老人に従い、魯達も藍色の瓦がひしめき合う小路の合間を歩き出した。表通りの喧騒が徐々に遠のき、渭州とは趣の違う、どこか素朴かつ品の良い家々が姿を現す。
 「そうしたら、道中、東京での古なじみに出会いましてね。その男に連れられて、娘ともどもこの雁門までやってきたというわけなのです。おまけにその男はよく我らの面倒を見てくれて、なんと翠蓮を、この雁門でも指折りのお金持ち、趙員外ちょういんがい様の妾にと引き合わせてくれたんですよ」
 「なんと、翠蓮は結婚したのか!」
 青白い顔で涙を流していたくせに、気丈に笑ってみせたあの娘が結婚とは。
 「ええ、ええ。趙員外さまはお金持ちなだけでなく、とてもお優しく義の心を持ったお方。翠蓮のことも、大切にしてくださっていますよ。それに槍棒もたしなまれますから、我々からあなた様の話を聞くたび、会ってみたい、話してみたい、どうすればお目にかかれるのか、とおっしゃるほどでして」
 いつの間にか路地は終わり、少し開けた場所に出た。
 大きな通りの向こう側には背の高い門扉がどしりと構えており、わずかに開いた隙間から、小ぶりだが瀟洒な屋敷が覗いている。
 「恩人様、何はともあれまずはゆっくり休んで、それからこの先のことを考えましょう。ここは、我ら親子の今の家です。ここなら人目にも尽きませんし……さあ、どうぞ」
 金老人が門扉を開け放つと、ふと、親しみのない香が鼻を掠めた。
 いかにも女が好みそうな甘い香りのもとを辿るように、門の内側に広がる庭を見渡せば、青い空によく映える橙色の花を咲かせ、まろみを帯びた木が一列に並んでいる。
 「おおい、翠蓮や。誰が一緒にいらしたと思う? お前の生き神様がおいでなすったよ、降りてきなさい」
 ぎょろりとした目で物珍し気に辺りを見回す魯達をよそに、金老人が弾んだ声で娘の名を呼ぶ。
 屋敷の前で立ち働いていた女中たちは、ぎょっとした面持ちで主の連れてきた髭もじゃの客人を見ていたが、おそらく己の姿かたちを主に聞いていたのだろう。生き神、という言葉に納得したような顔を浮かべると、控えめに魯達に向かって会釈した。
 「翠蓮、何をしている、はやく降りてきなさい」
 「お父さん、何をそんなに大きな声で叫んでいるの?」
 浮足立ったような父の声に対し、屋敷の中から聞こえた娘の声は、戸惑いをのせて穏やかであった。
 「お客様がいらっしゃったの?」
 屋敷の二階の扉が、ゆるりと開く。
 「あ」
 父の声を追ってこちらを見下ろした娘の姿は、魯達の覚えていたものよりもずっと、健康的であった。
 きちりと結い上げられた黒髪を飾る見事な黄金の簪は、秋の陽光を映して柔らかくきらめいている。細い体に纏う淡い橙の着物と薄紅の帯は、素人目にも大層な品とわかる光沢を秘めて、娘のしなやかな体を柔らかく包み込む。
 肌は相も変わらず雪のように白くはあったが、ふっくらとした頬が桃色に色付いているおかげで、消えそうに不穏な影はもはやない。柳の如き眉をあげ、瞳と口をまんまるに開いて絶句する様は、出会った頃にはなかった色香をも霞ませる幼さを含んでいて、思わず魯達は腹を揺らして笑った。
 「なんだ翠蓮、幽霊でも見たような顔をして。俺の顔を忘れたか?」
 「いえ……いいえ……忘れるわけがございません!」
 ゆったりと流れる着物の裾をたくしあげ、元気な子どものように階段を駆け降りてきた翠蓮は、息を整える間もなく魯達の足元に這いつくばり、深々と拝礼をし始めた。
 「恩人様、まさかまたお会いできるなんて」
 「お、おい、やめないか。せっかくの上等な着物が汚れるだろう」
 あわてて小枝のような腕を引っ掴んで立たせれば、せっかく化粧をした顔に、ぽろぽろと涙がこぼれている。
 「ふん、さては俺の言ったことを忘れたな? 今度べそべそ泣いているところを見つけたら、仕置きをすると言っただろう」
 「あ……」
 別れ際に交わした小さな約束を思い出したか、翠蓮は華奢な手で慌てて涙を拭い取り、気恥ずかしそうに俯きながら微笑んだ。
 「もう二度と会えぬと思っておりましたから、嬉しくて」
 「俺もまさか、こんな北の街でお前たちと会おうとは思わなかった。それに、お前の様子にも驚いたぞ。見違えるほどに綺麗になったではないか。幸せになったんだな」
 何故かますます顔を伏せる翠蓮が、また激しく礼をし出すのではないかと魯達がどきりとしていると、金老人が小間使いを呼び寄せ魯達の荷物を持たせた。
 「さあ、恩人様。こんなところで立ち話をしていないで、おあがりになって下さい」
 「あいや、かまわんでくれ。長居するつもりはないんだ」
 「いえいえ、遠慮はご無用。魯提轄様の御恩は、こんなことでは返しきれないのですから。さ、翠蓮、恩人様を二階にご案内してさしあげなさい。私は飯の用意をしてきます」
 いくら気の向くままに生きてきた魯達と言えど、己の首に賞金がかかった今となっては、この親子のもとに留まれば必ず迷惑をかけることくらいはわかっていた。
 だが、何度そう言っても金老人は頑なに泊まって行けと懇願し、しまいにはまた翠蓮が泣き出しそうな顔をするものだから、これ以上断るのも礼を失するであろうと、魯達は翠蓮に案内されて屋敷の客間へと落ち着いたのであった。
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