アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第一章

第三話 36 引き返せ

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 聖月は、階段の前に立つと立ち入り禁止だという上の階を見詰めた。
 上を仰ぐと、階段は真っ暗だった。照明も何もついていない、異様で不気味な光景が広がっている。他の階段への入り口とはまったく異なる雰囲気を発していた。先ほどとは違い、悲鳴も何も聞こえない静寂が聖月の周辺には包み込んでいる。
 人が先程までたくさんいたはずなのに、この場所だけは誰もいない。
 その異様さに、聖月の心は震える。まるで、侵入者を拒んでいるような暗闇に、臆病者の聖月の足が動かない。
 何分ほどそのままでいたのだろうか。
 棒のように突っ立っていた聖月は、ごくりと喉をならし意志を固めた。
 人がいないと確認すると、やっと聖月は決意を固めて階段に足をかけた。自分が今からやることは悪いことだとは、十分承知だった。勝手に入っていけないところに入って無許可で写真をとるなんてことは、やってはいけないことだとも。
 だけど、やらなければいけない。
 これが凶と出るか吉とでるかは、神のみぞしるだ。
「よし…」
 聖月は震える足を叱咤して、闇のなかを突き進む。本当に真っ暗だった。
 闇が、辺りを侵略するように何も見えない。暗いのが苦手な聖月は、それだけで慄いた。―――頑張れ、頑張れと自身を励ます。
 階段をちゃんと踏んでいるのかも、危ういほど光がない。闇夜の窓に浮かぶ小さな月だけが、聖月の目印だった。
 月の光を頼りにして、どうにか前を進む。
 どうにかして、聖月は6階にたどり着いた。階段を上っただけだというのに、どっと疲れてしまった。いつもより、心拍数があがって息が苦しい。極度の緊張で、聖月はまいってしまう。
 もう帰ってもいいだろうか――…。聖月は弱音を吐いた。
 こんなところで長時間過ごしていたら、頭がおかしくなりそうだ。カメラを強く握りしめると、周りを見渡した。
「………」
 階段よりはいくぶん明るいかもしれないが、それでもあたりは他の階よりも暗い。朱色の絨毯がひいてあるのかは定かではないが、廊下全体が赤黒い。怪しいものが、ここの空間から漂っていた。 暗闇でもその異質さが分かるのだから、相当なのかもしれない。
 不気味だ。何もかも、怖くてしかたがない。
 聖月の瞳には、長い廊下が延々と続いているようにも見える。
 行き止まりはあるだろうが、暗すぎて終着点の姿が分からない。終わりが見えない迷路に迷い込んだようだった。
 それが何よりも聖月は怖かった。奥に進むにつれて、暗さがすごいことになっている。――暗すぎて、穴があったらたぶん落ちてしまうのではないだろうか――なんて、聖月が心配してしまうほどに。
 息をひそめて、聖月は階全体を見渡す。暗くてよく分からないが、木製の机があるのが見える。
 その机には、花瓶が置いてあった。その花瓶には一輪の、赤い薔薇が入っている。もしかしたら、違う色かも知れないが妖しさと色香がその薔薇にはあった。しばらく聖月は、その薔薇に見惚れていた。綺麗だと素直に感じる。
 はっとして意識を飛ばしていた聖月はこんなことしている場合じゃないと首を振り、重い一歩を歩く。
 ―――…一歩一歩が鉛のようだった。
 鉛のように足が重く、緊張して一歩歩くだけで精神を削れてしまう気がした。誰かに気づかれないように、歩いているので忍び足にどうしてもなってしまう。
 精神を削れているその証拠に、カメラを持つ手が震えている。
 心臓の音を間近に感じながら聖月はしばらく歩くと、大きな窓があった。外の風景を見れば気がまぐれるかと、意識をそちらに向ける。 木の葉っぱが外の風で揺られているのか、ざわざわと音がしていた。外はここと同様真っ暗だった。
 静寂だった廊下に、音が混じったことに聖月はほっとした。
 ここの場所で石を放ったら水面のように音が反響するのではないかと、錯覚するぐらいにここは音が《無》でなかった。音が入って来たことに、聖月はほっと胸を撫でおろし安堵する。
 静寂は聖月の心には重すぎた。暗いというだけでも、心臓に悪いのにここまで静かだと落ち着かない。外は夜空が広がっており、星が瞬いている。窓のお陰か、初めのときよりも明るくなった。
 聖月の緊張がいくぶん和らいだ。
 ワオーン……犬の遠吠えが、時折聞こえてくる。
 森が近くにあるのでそこに住んでいる野犬だろうか。自己主張を繰り返す犬の鳴き声を聞きながら、聖月は重い脚を動かした。聖月はのろのろと歩いているので、あまり歩幅が進んでいない。
 ドクン、ドクンと心臓の鼓動と嫌な汗を聖月は感じていた。どうしてか、とても胸がざわつく。嫌な予感がした。
 この階は、やはり変だ。変というよりは、どこかおかしい。
 下の階とはあまりにも違いすぎる。
 先程まで聞こえていた悲鳴も、聖月が階段の前に立ったときから途端に聞こえなくなった。
 不気味で、あまりにも危なすぎる場所だ。どうしてこんなに静かなのかも想像できない。何よりも想像なんてしたくない。 
 なのに、聖月はのこのこ来てしまった。危機感もなく、無防備に。ここにきてしまって、自分が自ら地獄へと歩み寄っているとしか、思えなかった。聖月の自身の今やっている行為は、嬉しそうに悪魔に命を渡しているようなものではないのか――。
 そんな風に思えてならない。
 聖月は、最悪の事態を考えてゾッとする。考えなければよかった。
 本音を言うのなら、今すぐにでも逃げだしたい。
 今すぐ、階段を駆け降りて自分の部屋に戻りたい。そしてそのまま、ぐっすり今日のことを忘れて明日を過ごしたい。
 ――でもここまで来てしまったのだから、もう戻れないだろう。
 もう、どうにもなれと聖月は歩幅を広げた。細く息を吐くと、聖月はもう少し歩いた先に部屋につながっている木製のドアを見つけた。
 そこに誰かいるかもしれないと、聖月はそっとドアに近付く。雰囲気は禍々しいが、近くで見ると自分の部屋のドアと同じ造りだと気付いてほっとする。息を潜め、細心の注意を払いドアに向かって歩く。
 開く勇気などそうそうないので、恐る恐る聖月はドアに耳を押し付けた。
 押しつけても、何も聞こえなかった。…無音だった。
「なんだよ…」
 聖月は小声で悪態をつく。
 緊張していったのに損だと、聖月はがっかりした。たとえドアに何か聞こえてあったとしても聖月にはどう対処していいのか、分からないし、知らないわけだが。
 よくよく見ると、ここから少し離れた場所にドアがあってそれがいくつも並んでいるようだった。一つ一つ確認するのも今の聖月の精神的に面倒なので、気にすることはなく先に進むことにした。
 重い足取りで歩いていると、微かに声が聞こえた。
 その瞬間聖月の心臓が跳ね上がる。
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