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1巻
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プロローグ 私と貴方はお揃いです! 透明人間の政略結婚(未定)
――人生なんて、ただの茶番だ。
特に貴族の結婚なんて上手くいかないハリボテ、期待するだけ無駄なのだと重々承知の上である。
「でもだからって、仮にもこれはひどすぎるんじゃないかしら」
自分が望んだわけでもない、決められた相手。まだ婚約者候補というだけだが、一応私はその筆頭。狩猟会に参加したのなら、マナーとして獲物の一匹くらいは捧げてくれてもいいものだが、彼が私に捧げてくれたことは過去一度もない。
筆頭であるがゆえに同じ婚約者候補の令嬢達の中にいても居場所がなく、だが相手からも特別扱いをされない私はまるで透明人間のよう。それでも令嬢達からの嫌味は聞こえるのでいっそ本当に透明人間になってしまいたいと思う日々。
「本当、やってられないわ」
思わずそう呟きながら、気分転換に令嬢達から離れた私の視界に、突如真っ黒な髪が飛び込んだ。
(あぁ、そういえば彼も私と似たようなものだったわね)
それは私と同じく、透明人間のように自身の相手からスルーされている彼への同情から発した言葉だった。
「私がソレ、貰ってあげましょうか」
こんなところに令嬢がいるなんて思っていなかったのだろう。
声をかけると、驚いたように彼のオリーブ色の瞳がゆっくりと見開かれる。
一瞬きょとんとし、一拍遅れて言われた内容を理解したのか、彼は自身の手元の兎と私を見比べゆっくりと口を開き――……
第一章 だったら私が貰います! 婚約破棄からはじめる溺愛婚(希望)
「ほんっと、茶番にもほどがあるわ!」
夜会用の優雅なドレスとはあまりにもミスマッチだが、チッと思い切り舌打ちする私は悪くない。公爵令嬢であり、この国マーテリルアの王太子であるアレクシス・ルーカン第一王子の婚約者候補筆頭である私ことシエラ・ビスターがよりにもよって壁の花!
(本当にバカにしてくれちゃって……!)
そもそもこの私が夜会等の場にエスコートもなく一人で来る意味を、あのバカ王子はわかっているのだろうか。
(絶対にわかってないわね)
内心毒づいた私は、わざとらしいほど大きなため息を吐く。
十歳の時にアレクシス殿下の婚約者候補に選ばれてから、早九年。最後にエスコートされたのはもう何年前だったのかすら怪しいほど昔のことなのに、横恋慕を疑われ王家を敵に回したら……との理由からほかの貴族令息にエスコートを頼んでも断られる始末。
その結果私は、何年も付き添いなしでパーティーへ単独乗り込むしかできなかったのだ。
(周りの令嬢からは笑い者にされるし、エスコートもしてくれない殿下がダンスを申し込んでくれるはずもないし)
口からはぁっ、と大きなため息が漏れる。
この国では婚約者がいる場合、ファーストダンスは必ず婚約者と踊らなくてはならない。もちろん婚約者『候補』の私には、その決まりは適用しない、けれど……
「そもそもエスコートすら断られてるのに、誰もダンスなんて申し込まないわよ」
夜会も、お茶会も、狩猟会も。そういったイベントはいつもひとり。
公爵家という立場上欠席もできず、私にできるのはただ背筋を伸ばし強気で立つことだけだった。
(ま、一回だけ違ったんだけどね)
なんて思わず苦笑しつつ、苛立ちを隠せない私は今日の夜会もひとりで参戦している、が……
「それも、今日までだわ」
くすりと笑みを溢し、私は殿下が来場するのを待った。
「アレクシス第一王子と、キャサリン・カーラ男爵令嬢のご入場です!」
(来たわ!)
声高らかに名を呼ばれ、開かれた扉から入ってくるのは、濃い金髪にまっ赤な瞳が印象的なアレクシス殿下、そしてまるで輝くように美しいピンクブロンドの髪をなびかせた小柄なキャサリン男爵令嬢だった。見せつけるかのように殿下の腕に纏わりつくその女は、よくこれだけ人がいるのにこのスピードで私を見つけられるな……なんて感心するほど目ざとく、これ見よがしにニコッと笑顔を向けてくる。いつもなら苛立ちつつ睨むしかできなかったけれど、今日の私は今までとは違う。
(私はもう、我慢できないのよ!)
父の説得に時間がかかってしまったが、やっと許可がおりた、今日この日だけは!
まるで花が綻ぶように微笑む腹立たしい彼女とは対照的に、私は誰よりも軽やかにヒールで床をカツッと鳴らし、ニッとどこか悪役のように口角を上げて彼らの前に立ち塞がった。
今までとは違う私の行動に驚いたのか、キャサリン嬢は殿下の腕によりしがみつく。
そんな彼女を庇うように殿下は私を睨みつけた。
(だからまだ何もしてないでしょ!)
被害者ぶるふたりにさらに苛立ちつつ、私は周りに聞こえるよう声を張り上げる。
「私、もう我慢なりませんの。婚約解消していただきます!」
私のその一言に会場は一気に静まり返る。
けれどすぐにハッとした殿下は、私をバカにしたように鼻を鳴らした。
「婚約解消というのは、婚約した者同士がするものだろう?」
「えぇ、その通りですわね」
「私とシエラ嬢はあくまでも婚約者『候補』。いつから婚約者になったと勘違いしていたんだい?」
どこか見下すように笑いながら殿下がそう言うと、隣の女が小さく吹き出す。
「アレクぅ、シエラ様が可哀想ですわぁ」
「ふふ、キャシーは優しいね。でも間違いは正さないといけないだろう?」
だが鼻で笑いたいのはこちらの方だ。
(誰が私の婚約だって言ったのよ)
甘ったるい声でイチャつく二人に辟易しながら、私はキャサリン嬢を思い切り指差す。
「解消していただきたいのは、貴女の婚約ですわよ。キャサリン・カーラ男爵令嬢!」
この会場中に響くようにそう断言すると、やはり静まり返った……ところに、パタパタと駆け寄る足音がひとつ。
「……っ、ちょ、待って、それって!」
慌てて人混みから飛び出したのは、黒髪と優しげなオリーブ色の瞳をした男爵令嬢の婚約者。
「貴女と彼、バルフ・ネイト子爵令息との婚約を解消してくださるかしら!」
「ちょっとだから待って、なんで俺の知らないとこでこんな……え? 本当に何がどうなってるんだ!?」
オロオロするバルフ様を背に、ぽかんとしたままのキャサリン嬢へ一歩足を進めた私は、今度は周りには聞こえないよう小声で話す。
「……ほら、頷いちゃいなさい。殿下の寵愛は今は貴女のものでも、婚約者がいるままではただのお遊びで終わるわ。でも婚約を解消したら、王太子妃の座は……」
「わ、私の、もの?」
ぽつりと呟く彼女に、私は勝ちを確信する。その勢いのまま今度は殿下をパッと見上げた。
「殿下の仰る通り、私はあくまでも『候補』。私は貴方様が誰を選ぼうが文句を言えません。それは、殿下にも言えますわよね?」
「何を」
「わっ、私! バルフとの婚約を解消します!」
「ちょっと待って! キャサリ……っ」
大きな声で婚約解消すると宣言したキャサリン嬢を慌ててバルフ様が制止しようとする。
さらにそれを遮るように、私はさっと彼の手を取ってその場に跪いた。
「っ!?」
相変わらず静まり返っている城内で、私の心臓だけがやたらとうるさい。
それでも、私はもう我慢できなかったから。
「婚約解消されましたよね? だったら私が貴方を貰います!」
「え……、え?」
「私と結婚してください!」
「え、えぇえっ!?」
それは前代未聞の、略奪に近い状況下での令嬢からのプロポーズだった。
「と! いうわけで初夜ですわよっ」
「なんで、なんでなんだ……俺に何が起こってるんだ……?」
公爵家と子爵家。
あまりにも差のある身分のため、私のプロポーズはほぼ命令に近かった。
(バルフ様にとって不本意だとは思うけど)
それでも、彼女が彼を選ばないならば。
(だったら、私が貰ってもいいはずよ)
婚約解消という醜聞は男性である彼にはあまり影響はないものの、相手が王子となれば話は別だ。このまま殿下とキャサリン嬢が上手くいってもいかなくても、王子の相手に横恋慕したという″状況〟はそれだけで彼の足を引っ張るだろう。だからこそ私は、衆目の中でバルフ様とキャサリン嬢が婚約状態にあり、殿下こそが横恋慕だったと印象付けつつ――……
(断れない状況で、なし崩し的に結婚に持ち込んでやったわ!)
ふふん、と思わず内心でほくそ笑む。
皆の前でプロポーズした私は、そのまま彼の返事も聞かずにバルフ様と一緒に会場を後にした。そしてそのまま彼の実家に行き、プロポーズしたことを伝えると、彼の両親はただただ顔を青くしながら彼を婿に出すと了承してくれたのだ。
「そして今よ!」
「なんで……俺はさっきまで夜会に、夜会にいたはずなんだ」
相変わらず混乱しているバルフ様の黒髪をそっと撫でる。
硬そうに見えたその髪は、触れるとまるで猫のように柔らかくしなやかでとても心地いい。
「強引にコトを運んだのはお詫びするわ」
両手で顔を覆い、ベッドで項垂れるバルフ様に、そっと寄り添うように隣へ座る。
そのまま自慢の胸に彼の頭を誘導し、たゆんと包み込むと、うじうじしていた彼はピクッと反応した……計画通り。
(さぁ落ちなさい、まず体からでいいから、私に落ちなさい!)
完璧に準備していたため、婚約破棄からおよそ数時間で婚姻まで漕ぎ着けた。
しかし、そんな結婚に心が伴うわけもない。
――それでも、今は構わないから。
「いつか心も……ね、バルフ様」
好かれてなくてもいい。もう結婚したし、夫婦にはなれた。
だから今からの時間は全て彼に好かれる努力をすればいいだけだ。
そのまま胸を押し付けつつ、のし掛かるように彼を押し倒す。
ローブを脱いだその下は、この初夜のために用意したとっておきのレースの夜着。それは私のくすんだ錆色の髪にも映えるように、選びに選び抜いたものだった。
「彼女みたいに綺麗な髪じゃなくて申し訳ないのだけれど、せめて少しでもマシに見えるように選びましたのよ」
少し自嘲気味なのは、憎たらしくもやはり可愛いあの女に嫉妬しているからだろう。
(私とは違い、バルフ様はちゃんと彼女の婚約者だったのだから)
「ですが今、私は妻! 婚約者の未来形よ!」
そう宣言した私は力任せに彼の上着のボタンを引きちぎった。
「いざ参らん!」
「ぎゃぁぁあ!」
初夜を迎えた新婚夫婦の部屋には似合わない叫び声が響いた。だが、それもスパイスのひとつと割り切った私は、勢いのまま彼のズボンを思い切り下ろし、下履きを寛げる。
「えっ」
そして目にしたのは、しおしおと元気のない男性の象徴、彼の大事なアレだった。
「こ、これが最大サイズでも私の愛は揺るがな……っ」
「んなわけないですよね!? というか! こんな状況で勃つわけがないでしょ!?」
「えっ! おっぱいは、お好きでは、ない……?」
「いや、好き……で、も! 流石にこの状況ではちょっと……!」
「……くっ」
(彼の元婚約者に勝てるのはこれだけだったのに!)
まさかピクリとも反応してもらえないとは思わなかった。私が思わず項垂れると、いそいそと服を着直したバルフ様がそっと落ち込んだ私の頭を撫でる。
「……本当によくわからないんだけど、さ。良ければ互いに知るところから始めてもらえませんか?」
「知る、ところから?」
「シエラ様と俺は余りに身分が違いすぎるとはいえ、それでも今は夫婦……です、から」
少し恥ずかしそうに俯いた彼の耳が赤く染まっているのに気付き、私はそれだけで満たされた気持ちになった。あぁ、彼はこんな状況でも私と向き合うと決めてくれたのだ。
(そうよ、体から落とす作戦は失敗したけれど、いつか心も落とすつもりだったじゃない)
「絶対」
「?」
「絶対絶対絶対振り向かせて、絶対絶対絶対抱かせてみせますから!」
「ッ!?」
私のあまりにも明け透けな本音に驚いたのか、オリーブ色の瞳をギョッと見開き、こちらを見る。
(やっと、目が合ったわ)
たったそれだけだが、嬉しくなった私が思わず微笑むと、釣られたのか彼の瞳も少し弛んだ。
まずは、ここから。
「なるべく早く惚れてくださいね、〝バルフ〟」
「……お手柔らかにお願いします、〝シエラ〟」
少し歪にスタートした私達の新婚生活は、まだ始まったばかりなのだから。
◇ ◇ ◇
公爵家へ婿入りしたバルフは、元々商家も担う子爵家だったこともあって頭の回転が早く、身体能力も悪くなかった。まぁ、『器用貧乏』の典型である。
しかし目立ちはしないものの、元々嫡男であったことで仕事の基盤もすでにできており、公爵家でも重宝された。気付けばいつか公爵位を継ぐ兄のいい部下として迎え入れられていたのである。
それは妻である私も喜ばしい。ものすごく喜ばしい、が。
「しばらくお休みをいただけるかしら!?」
兄の執務室の机をバンッと両手で叩いた私は、やはりオロオロするバルフを背にへらりと笑う兄と対峙していた。
「それはシエラの? それともバルくんの?」
「ふたりともです!」
「えっ!? ちょ、シエラっ」
驚くバルフを無視してそう宣言し、あの夜会の時のように彼の手を取る。
一応チラリと兄に目線をやると、微笑みながら手を振ってくれていた。
(今は繁忙期でもないし、お兄様の様子を見るに問題はなさそうね)
勢いに任せ兄の部屋に乗り込んだものの、妻である私が夫であるバルフの努力を無下にするわけにはいかない。兄の様子で問題がないと判断した私は、そのまま安心してエスコートするように彼を拐った。いそいそとふたりの部屋に連れ立ち、ソファに並んで腰掛ける。
「早く馴染むために頑張るバルフはとても素敵ですが、私達は先日結婚したばかりです。しばらく仕事を休んでも問題ありません」
「でも」
「まずは仕事に、ではなく″家に〟慣れていただかなくては」
そう伝えた私は、戸惑ったように視線を揺らす彼の瞳を隠すように、そっと片手で彼の瞼に触れる。驚いたのか少しだけ彼の肩が跳ねたが、すぐに私の手のひらに委ねるように瞼を閉じた。
(や、やだ……受け入れてくれるなんて可愛いわね)
大人しく身を任せるバルフに胸が高鳴り、軽く結んだ彼の唇に釘付けになった。
(今なら口付けできるわね?)
口付けくらいいいのではないだろうか。というかしたい。バルフと口付けたい。
コクリと小さく唾を呑んだ私は、そっと彼に顔を近付け……
「えっと、シエラ? 俺はいつまで目を閉じていればいい?」
「ひぇっ」
声をかけられた私は慌てて顔を離す。
「あ、貴方が寝るまでですわ!」
「えっ!? ね、寝るまで? まだ日も高いんだけどっ」
「それはわかっていますが」
そっと手を離し顔を覗き込むと、彼はゆっくり瞳を開いた。
彼の目元にはくっきりとしたクマができている。
「あまり、眠れていないのでしょう?」
「そ、れは」
「バルフが頑張ってくれているのは、皆わかってますわ。むしろわかっているからこそ、皆から信頼され、重用されているのだと思います」
突然連れてこられた彼が、それでも必死に家のことを学んでくれているのはきっと義務感。
だからこそ、彼の体調を気遣うのが妻である私の役目だ。
「急がなくてもいいのです、だってここは、もう貴方の家でもあるんですから」
そう伝えると、バルフがどこか辛そうに眉を寄せた。
「どうして、その、俺なんかのために?」
「え?」
「結婚だって。公爵家からすれば子爵家の俺なんて家としての魅力もないし、男としても地味なだけだし」
溢すように呟かれたその言葉に驚愕する。
(た、確かに真っ黒な髪にオリーブ色の瞳は、穏やかだけど目を引くわけではない……ことは! 認めるけども!)
「好きですわ」
「へ?」
「ですから、私は貴方が好きなんです」
「えっ、俺を……?」
「そ、う、で、す、わ! 好きじゃなければあんな場で拐ったりなんかしませんっ」
「えぇっ!? でも俺なんかどこにでもいる普通の……むしろ才能も特出したものも何もない、つまらない男なんだけど」
怪訝な顔をした彼を見て、そのあまりにも自信のない様子に私は軽く目眩を覚えた。
(落ち着いた雰囲気は居心地がいいし、安らぐし! それにどこにでもいる普通の人はあの時――)
そこまで考えた私は、部屋中に響くくらい大きなため息を吐く。
「わかりましたわ」
私がベルを軽く鳴らすとすぐに執事が入ってきた。
その執事に向かって軽く頷くと、彼はそのまますぐに部屋を出ていく。
「寝るのは少しお待ちくださる?」
「それはもちろん大丈夫だけど」
戸惑いながら頷くバルフに、自然と笑みを溢しつつ再び執事が来るのを待つ。
するとすぐに扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
静かに返答すると、公爵家専属の仕立て屋が深く頭を下げて入ってくる。
「バルフ様、少し失礼いたします」
「お、俺?」
動揺する彼に立つよう促し、サクサクとサイズを計った仕立て屋は、いくつかのデザイン画を広げて見せた。
「見た目によらずバルフ様は案外引き締まった体をされておりますので、こういったデザインもお似合いになるかと」
「『案外』は余計だけれどいいわね」
「それからこちらの服でしたら、深いグリーンのシャツを合わせていただきまして」
「それも素敵ね」
気の知れた仕立て屋と次々に決めていく。
「ちょ、ちょっと待ってシエラ!?」
慌てつつも邪魔にならないよう私の袖を軽く引っ張る様子すら、可愛く思えるのはきっと惚れた弱みというやつなのだろう。そんな彼の頬に掠めるだけのキスをすると、その頬がまっ赤に染まった。
(私が絶対幸せにするわ)
心の中でそう強く誓った私は、パッと仕立て屋へ向き直る。
「とりあえず十セットずつ作ってちょうだい!」
「多いから!」
ひぇぇっと今度はまっ青になったバルフを横目に指示を出すと、私へ親指をグッと立てた仕立て屋がいい笑顔をしたまま部屋を出て行った。
「おかしい。公爵家の予算、怖い」
バルフはぶつぶつ呟きながら顔を手で覆っている。
その手に自分の手をそっと重ね、私は彼を再びベッドへ誘導した。
「さぁ、次は寝る時間ですわ」
そのまま彼を押し倒すように横にならせ、自分もそっと隣に寝そべる。
「いや、でも」
「とりあえずその顔色をなんとかするの」
「この顔色は目の前での散財に震え上がっただけなんだけど」
「まぁ、私を気遣って隠さなくても構いませんわよ」
「えぇえ……」
寝ないどころか、執務室へ戻りたそうにするバルフ。
少しムッとした私は「えいっ!」と上掛けを被りながら、彼の上にのし掛かった。
「ちょ……っ!」
「貴方は地味で目立たなくて空気のようかもしれませんが」
「そこまで言ってない」
「それは努力でき、尊重でき、相手のために一歩退けるということです」
(自信がないのはあの婚約者に無視されていたからね)
のし掛かったことで直に感じる彼の筋肉の感触にドキッとした。服の下に隠れているが、商家である実家での仕事で買い付けや荷物運びをし、自然とついただろう筋肉はとてもしなやかだ。
今日買った服を着せると必ず化けるという確信があった私は、その姿を見てそれが少しでも彼の自信に繋がることを願い――チクッとした胸の痛みも同時に感じた。
(もし化けた彼に、キャサリン嬢が粉をかけてきたら?)
体だけでも夢中にさせられていたならば堂々と返り討ちにしてやると意気込む。
だが、現状の進展はゼロ。さらに初夜の失敗を思い出した私は思わず黙り込んだ。
突然静かになった私を怪訝に思ったのか、そっとバルフが頭を撫でる。
「どうかした?」
「いえ、なんでもありませんわ」
(心配をかけるのは違うわね)
にこりと微笑みを返すと、撫でていた手を頬に移動させたバルフが突然ぶにっと引っ張った。
その行動に唖然とする。
「ちょっ!?」
「ふ、ははっ」
痛くないように手加減されているとはいえ、頬を引っ張られては顔が歪む。できれば好きな人には整った表情だけを見てほしいのは、乙女として当然の心理だが……
「可愛い」
「――え?」
ぽつりと呟かれたその言葉に、私は思わず目を見開いた。
「俺が夜更かしして勉強しているのはさ、早く貢献できるようになりたいからだけど」
「え、えぇ。もちろん存じておりますわ」
「そんな俺に合わせてシエラもあまり寝てないだろ?」
「!」
(気付いてたの!?)
最初は初夜の件で避けられてしまったのかもという不安があった。だから彼が夫婦の寝室へ戻ってきてくれるかを確かめたくて起きていた。
けれどすぐ、彼が兄の仕事を手伝うために勉強していると知った私は、妻としてせめてなるべく彼に合わせて起きて待つように心掛けていたのだ。
(けれど結局、途中で寝てしまってばかりいたのに)
それでも彼が気付いていたことに、言葉にできない嬉しさが広がって胸が温かくなる。
「シエラも寝るなら、俺も寝ようかな」
ふっと表情を和らげた彼にそう告げられ、期待から胸が高鳴る。
(そういう意味じゃない、そういう意味じゃないのはわかってるけど……っ)
これでも新婚夫婦なのだから、もう少しくらい彼と距離を近付けてもいいのでは? と思った私は、いそいそと彼の隣に寝転び直し、体を彼の方へ向ける。そしてそのまま彼の手を取り、そっと自身の胸にその手のひらを這わせた。
「――っ!?」
「貴方の元婚約者に勝てるのはこれだけですから」
小柄でスレンダーだったキャサリン嬢に対し、女性にしては高めの身長の私は、正直守りたくなるような容姿の女ではないと自覚している。くりくりの大きな瞳とは違うツリ目は、それだけできつく見られがちだというのも理解していた。
(そんな私に唯一あるのは、この豊満なおっぱい……!)
初夜で彼の頭を誘導した時、確かに彼はピクリと体を跳ねさせていたし、好きだと言質も取った。ならばこの胸を使わない手はない。彼の手の上から自身の胸を揉みしだくと、すぐに手を振り払われると想定していたのに抵抗されないことに驚いた。
(や、やだ、なんだか彼の手を使って自慰してる気分になってきたわね)
わずかに芽生える罪悪感。しかし拒否されない喜びとこの行為の背徳感に、じわりと下腹部に熱が集まりはじめる。今なら初夜のリベンジができるのではと期待した。
(まずは口付けよ。さっきみたいに頬じゃなく、彼の唇を奪ってやるわ……!)
そっと目を開け、彼の唇を奪うべく顔を近付ける。そしてすぐに大きなため息を吐いた。
「……寝てるわね」
私が待ちきれず毎夜寝てしまっていたのは、それ以上に彼が夜遅くまで勉強していたからだ。
(まぁ、あまりにもクマがひどかったから、彼を寝させようとしたんだもの)
これが正解だったと納得し、穏やかな寝顔を眺める。
(この寝顔は私だけのものだわ)
そう思えば、少しいじけた気持ちも嬉しさに早変わりする。二人だけの特別な時間だ。
私は特別なこの時間に浸りながら、彼と手を繋いだまま瞳を閉じたのだった。
――人生なんて、ただの茶番だ。
特に貴族の結婚なんて上手くいかないハリボテ、期待するだけ無駄なのだと重々承知の上である。
「でもだからって、仮にもこれはひどすぎるんじゃないかしら」
自分が望んだわけでもない、決められた相手。まだ婚約者候補というだけだが、一応私はその筆頭。狩猟会に参加したのなら、マナーとして獲物の一匹くらいは捧げてくれてもいいものだが、彼が私に捧げてくれたことは過去一度もない。
筆頭であるがゆえに同じ婚約者候補の令嬢達の中にいても居場所がなく、だが相手からも特別扱いをされない私はまるで透明人間のよう。それでも令嬢達からの嫌味は聞こえるのでいっそ本当に透明人間になってしまいたいと思う日々。
「本当、やってられないわ」
思わずそう呟きながら、気分転換に令嬢達から離れた私の視界に、突如真っ黒な髪が飛び込んだ。
(あぁ、そういえば彼も私と似たようなものだったわね)
それは私と同じく、透明人間のように自身の相手からスルーされている彼への同情から発した言葉だった。
「私がソレ、貰ってあげましょうか」
こんなところに令嬢がいるなんて思っていなかったのだろう。
声をかけると、驚いたように彼のオリーブ色の瞳がゆっくりと見開かれる。
一瞬きょとんとし、一拍遅れて言われた内容を理解したのか、彼は自身の手元の兎と私を見比べゆっくりと口を開き――……
第一章 だったら私が貰います! 婚約破棄からはじめる溺愛婚(希望)
「ほんっと、茶番にもほどがあるわ!」
夜会用の優雅なドレスとはあまりにもミスマッチだが、チッと思い切り舌打ちする私は悪くない。公爵令嬢であり、この国マーテリルアの王太子であるアレクシス・ルーカン第一王子の婚約者候補筆頭である私ことシエラ・ビスターがよりにもよって壁の花!
(本当にバカにしてくれちゃって……!)
そもそもこの私が夜会等の場にエスコートもなく一人で来る意味を、あのバカ王子はわかっているのだろうか。
(絶対にわかってないわね)
内心毒づいた私は、わざとらしいほど大きなため息を吐く。
十歳の時にアレクシス殿下の婚約者候補に選ばれてから、早九年。最後にエスコートされたのはもう何年前だったのかすら怪しいほど昔のことなのに、横恋慕を疑われ王家を敵に回したら……との理由からほかの貴族令息にエスコートを頼んでも断られる始末。
その結果私は、何年も付き添いなしでパーティーへ単独乗り込むしかできなかったのだ。
(周りの令嬢からは笑い者にされるし、エスコートもしてくれない殿下がダンスを申し込んでくれるはずもないし)
口からはぁっ、と大きなため息が漏れる。
この国では婚約者がいる場合、ファーストダンスは必ず婚約者と踊らなくてはならない。もちろん婚約者『候補』の私には、その決まりは適用しない、けれど……
「そもそもエスコートすら断られてるのに、誰もダンスなんて申し込まないわよ」
夜会も、お茶会も、狩猟会も。そういったイベントはいつもひとり。
公爵家という立場上欠席もできず、私にできるのはただ背筋を伸ばし強気で立つことだけだった。
(ま、一回だけ違ったんだけどね)
なんて思わず苦笑しつつ、苛立ちを隠せない私は今日の夜会もひとりで参戦している、が……
「それも、今日までだわ」
くすりと笑みを溢し、私は殿下が来場するのを待った。
「アレクシス第一王子と、キャサリン・カーラ男爵令嬢のご入場です!」
(来たわ!)
声高らかに名を呼ばれ、開かれた扉から入ってくるのは、濃い金髪にまっ赤な瞳が印象的なアレクシス殿下、そしてまるで輝くように美しいピンクブロンドの髪をなびかせた小柄なキャサリン男爵令嬢だった。見せつけるかのように殿下の腕に纏わりつくその女は、よくこれだけ人がいるのにこのスピードで私を見つけられるな……なんて感心するほど目ざとく、これ見よがしにニコッと笑顔を向けてくる。いつもなら苛立ちつつ睨むしかできなかったけれど、今日の私は今までとは違う。
(私はもう、我慢できないのよ!)
父の説得に時間がかかってしまったが、やっと許可がおりた、今日この日だけは!
まるで花が綻ぶように微笑む腹立たしい彼女とは対照的に、私は誰よりも軽やかにヒールで床をカツッと鳴らし、ニッとどこか悪役のように口角を上げて彼らの前に立ち塞がった。
今までとは違う私の行動に驚いたのか、キャサリン嬢は殿下の腕によりしがみつく。
そんな彼女を庇うように殿下は私を睨みつけた。
(だからまだ何もしてないでしょ!)
被害者ぶるふたりにさらに苛立ちつつ、私は周りに聞こえるよう声を張り上げる。
「私、もう我慢なりませんの。婚約解消していただきます!」
私のその一言に会場は一気に静まり返る。
けれどすぐにハッとした殿下は、私をバカにしたように鼻を鳴らした。
「婚約解消というのは、婚約した者同士がするものだろう?」
「えぇ、その通りですわね」
「私とシエラ嬢はあくまでも婚約者『候補』。いつから婚約者になったと勘違いしていたんだい?」
どこか見下すように笑いながら殿下がそう言うと、隣の女が小さく吹き出す。
「アレクぅ、シエラ様が可哀想ですわぁ」
「ふふ、キャシーは優しいね。でも間違いは正さないといけないだろう?」
だが鼻で笑いたいのはこちらの方だ。
(誰が私の婚約だって言ったのよ)
甘ったるい声でイチャつく二人に辟易しながら、私はキャサリン嬢を思い切り指差す。
「解消していただきたいのは、貴女の婚約ですわよ。キャサリン・カーラ男爵令嬢!」
この会場中に響くようにそう断言すると、やはり静まり返った……ところに、パタパタと駆け寄る足音がひとつ。
「……っ、ちょ、待って、それって!」
慌てて人混みから飛び出したのは、黒髪と優しげなオリーブ色の瞳をした男爵令嬢の婚約者。
「貴女と彼、バルフ・ネイト子爵令息との婚約を解消してくださるかしら!」
「ちょっとだから待って、なんで俺の知らないとこでこんな……え? 本当に何がどうなってるんだ!?」
オロオロするバルフ様を背に、ぽかんとしたままのキャサリン嬢へ一歩足を進めた私は、今度は周りには聞こえないよう小声で話す。
「……ほら、頷いちゃいなさい。殿下の寵愛は今は貴女のものでも、婚約者がいるままではただのお遊びで終わるわ。でも婚約を解消したら、王太子妃の座は……」
「わ、私の、もの?」
ぽつりと呟く彼女に、私は勝ちを確信する。その勢いのまま今度は殿下をパッと見上げた。
「殿下の仰る通り、私はあくまでも『候補』。私は貴方様が誰を選ぼうが文句を言えません。それは、殿下にも言えますわよね?」
「何を」
「わっ、私! バルフとの婚約を解消します!」
「ちょっと待って! キャサリ……っ」
大きな声で婚約解消すると宣言したキャサリン嬢を慌ててバルフ様が制止しようとする。
さらにそれを遮るように、私はさっと彼の手を取ってその場に跪いた。
「っ!?」
相変わらず静まり返っている城内で、私の心臓だけがやたらとうるさい。
それでも、私はもう我慢できなかったから。
「婚約解消されましたよね? だったら私が貴方を貰います!」
「え……、え?」
「私と結婚してください!」
「え、えぇえっ!?」
それは前代未聞の、略奪に近い状況下での令嬢からのプロポーズだった。
「と! いうわけで初夜ですわよっ」
「なんで、なんでなんだ……俺に何が起こってるんだ……?」
公爵家と子爵家。
あまりにも差のある身分のため、私のプロポーズはほぼ命令に近かった。
(バルフ様にとって不本意だとは思うけど)
それでも、彼女が彼を選ばないならば。
(だったら、私が貰ってもいいはずよ)
婚約解消という醜聞は男性である彼にはあまり影響はないものの、相手が王子となれば話は別だ。このまま殿下とキャサリン嬢が上手くいってもいかなくても、王子の相手に横恋慕したという″状況〟はそれだけで彼の足を引っ張るだろう。だからこそ私は、衆目の中でバルフ様とキャサリン嬢が婚約状態にあり、殿下こそが横恋慕だったと印象付けつつ――……
(断れない状況で、なし崩し的に結婚に持ち込んでやったわ!)
ふふん、と思わず内心でほくそ笑む。
皆の前でプロポーズした私は、そのまま彼の返事も聞かずにバルフ様と一緒に会場を後にした。そしてそのまま彼の実家に行き、プロポーズしたことを伝えると、彼の両親はただただ顔を青くしながら彼を婿に出すと了承してくれたのだ。
「そして今よ!」
「なんで……俺はさっきまで夜会に、夜会にいたはずなんだ」
相変わらず混乱しているバルフ様の黒髪をそっと撫でる。
硬そうに見えたその髪は、触れるとまるで猫のように柔らかくしなやかでとても心地いい。
「強引にコトを運んだのはお詫びするわ」
両手で顔を覆い、ベッドで項垂れるバルフ様に、そっと寄り添うように隣へ座る。
そのまま自慢の胸に彼の頭を誘導し、たゆんと包み込むと、うじうじしていた彼はピクッと反応した……計画通り。
(さぁ落ちなさい、まず体からでいいから、私に落ちなさい!)
完璧に準備していたため、婚約破棄からおよそ数時間で婚姻まで漕ぎ着けた。
しかし、そんな結婚に心が伴うわけもない。
――それでも、今は構わないから。
「いつか心も……ね、バルフ様」
好かれてなくてもいい。もう結婚したし、夫婦にはなれた。
だから今からの時間は全て彼に好かれる努力をすればいいだけだ。
そのまま胸を押し付けつつ、のし掛かるように彼を押し倒す。
ローブを脱いだその下は、この初夜のために用意したとっておきのレースの夜着。それは私のくすんだ錆色の髪にも映えるように、選びに選び抜いたものだった。
「彼女みたいに綺麗な髪じゃなくて申し訳ないのだけれど、せめて少しでもマシに見えるように選びましたのよ」
少し自嘲気味なのは、憎たらしくもやはり可愛いあの女に嫉妬しているからだろう。
(私とは違い、バルフ様はちゃんと彼女の婚約者だったのだから)
「ですが今、私は妻! 婚約者の未来形よ!」
そう宣言した私は力任せに彼の上着のボタンを引きちぎった。
「いざ参らん!」
「ぎゃぁぁあ!」
初夜を迎えた新婚夫婦の部屋には似合わない叫び声が響いた。だが、それもスパイスのひとつと割り切った私は、勢いのまま彼のズボンを思い切り下ろし、下履きを寛げる。
「えっ」
そして目にしたのは、しおしおと元気のない男性の象徴、彼の大事なアレだった。
「こ、これが最大サイズでも私の愛は揺るがな……っ」
「んなわけないですよね!? というか! こんな状況で勃つわけがないでしょ!?」
「えっ! おっぱいは、お好きでは、ない……?」
「いや、好き……で、も! 流石にこの状況ではちょっと……!」
「……くっ」
(彼の元婚約者に勝てるのはこれだけだったのに!)
まさかピクリとも反応してもらえないとは思わなかった。私が思わず項垂れると、いそいそと服を着直したバルフ様がそっと落ち込んだ私の頭を撫でる。
「……本当によくわからないんだけど、さ。良ければ互いに知るところから始めてもらえませんか?」
「知る、ところから?」
「シエラ様と俺は余りに身分が違いすぎるとはいえ、それでも今は夫婦……です、から」
少し恥ずかしそうに俯いた彼の耳が赤く染まっているのに気付き、私はそれだけで満たされた気持ちになった。あぁ、彼はこんな状況でも私と向き合うと決めてくれたのだ。
(そうよ、体から落とす作戦は失敗したけれど、いつか心も落とすつもりだったじゃない)
「絶対」
「?」
「絶対絶対絶対振り向かせて、絶対絶対絶対抱かせてみせますから!」
「ッ!?」
私のあまりにも明け透けな本音に驚いたのか、オリーブ色の瞳をギョッと見開き、こちらを見る。
(やっと、目が合ったわ)
たったそれだけだが、嬉しくなった私が思わず微笑むと、釣られたのか彼の瞳も少し弛んだ。
まずは、ここから。
「なるべく早く惚れてくださいね、〝バルフ〟」
「……お手柔らかにお願いします、〝シエラ〟」
少し歪にスタートした私達の新婚生活は、まだ始まったばかりなのだから。
◇ ◇ ◇
公爵家へ婿入りしたバルフは、元々商家も担う子爵家だったこともあって頭の回転が早く、身体能力も悪くなかった。まぁ、『器用貧乏』の典型である。
しかし目立ちはしないものの、元々嫡男であったことで仕事の基盤もすでにできており、公爵家でも重宝された。気付けばいつか公爵位を継ぐ兄のいい部下として迎え入れられていたのである。
それは妻である私も喜ばしい。ものすごく喜ばしい、が。
「しばらくお休みをいただけるかしら!?」
兄の執務室の机をバンッと両手で叩いた私は、やはりオロオロするバルフを背にへらりと笑う兄と対峙していた。
「それはシエラの? それともバルくんの?」
「ふたりともです!」
「えっ!? ちょ、シエラっ」
驚くバルフを無視してそう宣言し、あの夜会の時のように彼の手を取る。
一応チラリと兄に目線をやると、微笑みながら手を振ってくれていた。
(今は繁忙期でもないし、お兄様の様子を見るに問題はなさそうね)
勢いに任せ兄の部屋に乗り込んだものの、妻である私が夫であるバルフの努力を無下にするわけにはいかない。兄の様子で問題がないと判断した私は、そのまま安心してエスコートするように彼を拐った。いそいそとふたりの部屋に連れ立ち、ソファに並んで腰掛ける。
「早く馴染むために頑張るバルフはとても素敵ですが、私達は先日結婚したばかりです。しばらく仕事を休んでも問題ありません」
「でも」
「まずは仕事に、ではなく″家に〟慣れていただかなくては」
そう伝えた私は、戸惑ったように視線を揺らす彼の瞳を隠すように、そっと片手で彼の瞼に触れる。驚いたのか少しだけ彼の肩が跳ねたが、すぐに私の手のひらに委ねるように瞼を閉じた。
(や、やだ……受け入れてくれるなんて可愛いわね)
大人しく身を任せるバルフに胸が高鳴り、軽く結んだ彼の唇に釘付けになった。
(今なら口付けできるわね?)
口付けくらいいいのではないだろうか。というかしたい。バルフと口付けたい。
コクリと小さく唾を呑んだ私は、そっと彼に顔を近付け……
「えっと、シエラ? 俺はいつまで目を閉じていればいい?」
「ひぇっ」
声をかけられた私は慌てて顔を離す。
「あ、貴方が寝るまでですわ!」
「えっ!? ね、寝るまで? まだ日も高いんだけどっ」
「それはわかっていますが」
そっと手を離し顔を覗き込むと、彼はゆっくり瞳を開いた。
彼の目元にはくっきりとしたクマができている。
「あまり、眠れていないのでしょう?」
「そ、れは」
「バルフが頑張ってくれているのは、皆わかってますわ。むしろわかっているからこそ、皆から信頼され、重用されているのだと思います」
突然連れてこられた彼が、それでも必死に家のことを学んでくれているのはきっと義務感。
だからこそ、彼の体調を気遣うのが妻である私の役目だ。
「急がなくてもいいのです、だってここは、もう貴方の家でもあるんですから」
そう伝えると、バルフがどこか辛そうに眉を寄せた。
「どうして、その、俺なんかのために?」
「え?」
「結婚だって。公爵家からすれば子爵家の俺なんて家としての魅力もないし、男としても地味なだけだし」
溢すように呟かれたその言葉に驚愕する。
(た、確かに真っ黒な髪にオリーブ色の瞳は、穏やかだけど目を引くわけではない……ことは! 認めるけども!)
「好きですわ」
「へ?」
「ですから、私は貴方が好きなんです」
「えっ、俺を……?」
「そ、う、で、す、わ! 好きじゃなければあんな場で拐ったりなんかしませんっ」
「えぇっ!? でも俺なんかどこにでもいる普通の……むしろ才能も特出したものも何もない、つまらない男なんだけど」
怪訝な顔をした彼を見て、そのあまりにも自信のない様子に私は軽く目眩を覚えた。
(落ち着いた雰囲気は居心地がいいし、安らぐし! それにどこにでもいる普通の人はあの時――)
そこまで考えた私は、部屋中に響くくらい大きなため息を吐く。
「わかりましたわ」
私がベルを軽く鳴らすとすぐに執事が入ってきた。
その執事に向かって軽く頷くと、彼はそのまますぐに部屋を出ていく。
「寝るのは少しお待ちくださる?」
「それはもちろん大丈夫だけど」
戸惑いながら頷くバルフに、自然と笑みを溢しつつ再び執事が来るのを待つ。
するとすぐに扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
静かに返答すると、公爵家専属の仕立て屋が深く頭を下げて入ってくる。
「バルフ様、少し失礼いたします」
「お、俺?」
動揺する彼に立つよう促し、サクサクとサイズを計った仕立て屋は、いくつかのデザイン画を広げて見せた。
「見た目によらずバルフ様は案外引き締まった体をされておりますので、こういったデザインもお似合いになるかと」
「『案外』は余計だけれどいいわね」
「それからこちらの服でしたら、深いグリーンのシャツを合わせていただきまして」
「それも素敵ね」
気の知れた仕立て屋と次々に決めていく。
「ちょ、ちょっと待ってシエラ!?」
慌てつつも邪魔にならないよう私の袖を軽く引っ張る様子すら、可愛く思えるのはきっと惚れた弱みというやつなのだろう。そんな彼の頬に掠めるだけのキスをすると、その頬がまっ赤に染まった。
(私が絶対幸せにするわ)
心の中でそう強く誓った私は、パッと仕立て屋へ向き直る。
「とりあえず十セットずつ作ってちょうだい!」
「多いから!」
ひぇぇっと今度はまっ青になったバルフを横目に指示を出すと、私へ親指をグッと立てた仕立て屋がいい笑顔をしたまま部屋を出て行った。
「おかしい。公爵家の予算、怖い」
バルフはぶつぶつ呟きながら顔を手で覆っている。
その手に自分の手をそっと重ね、私は彼を再びベッドへ誘導した。
「さぁ、次は寝る時間ですわ」
そのまま彼を押し倒すように横にならせ、自分もそっと隣に寝そべる。
「いや、でも」
「とりあえずその顔色をなんとかするの」
「この顔色は目の前での散財に震え上がっただけなんだけど」
「まぁ、私を気遣って隠さなくても構いませんわよ」
「えぇえ……」
寝ないどころか、執務室へ戻りたそうにするバルフ。
少しムッとした私は「えいっ!」と上掛けを被りながら、彼の上にのし掛かった。
「ちょ……っ!」
「貴方は地味で目立たなくて空気のようかもしれませんが」
「そこまで言ってない」
「それは努力でき、尊重でき、相手のために一歩退けるということです」
(自信がないのはあの婚約者に無視されていたからね)
のし掛かったことで直に感じる彼の筋肉の感触にドキッとした。服の下に隠れているが、商家である実家での仕事で買い付けや荷物運びをし、自然とついただろう筋肉はとてもしなやかだ。
今日買った服を着せると必ず化けるという確信があった私は、その姿を見てそれが少しでも彼の自信に繋がることを願い――チクッとした胸の痛みも同時に感じた。
(もし化けた彼に、キャサリン嬢が粉をかけてきたら?)
体だけでも夢中にさせられていたならば堂々と返り討ちにしてやると意気込む。
だが、現状の進展はゼロ。さらに初夜の失敗を思い出した私は思わず黙り込んだ。
突然静かになった私を怪訝に思ったのか、そっとバルフが頭を撫でる。
「どうかした?」
「いえ、なんでもありませんわ」
(心配をかけるのは違うわね)
にこりと微笑みを返すと、撫でていた手を頬に移動させたバルフが突然ぶにっと引っ張った。
その行動に唖然とする。
「ちょっ!?」
「ふ、ははっ」
痛くないように手加減されているとはいえ、頬を引っ張られては顔が歪む。できれば好きな人には整った表情だけを見てほしいのは、乙女として当然の心理だが……
「可愛い」
「――え?」
ぽつりと呟かれたその言葉に、私は思わず目を見開いた。
「俺が夜更かしして勉強しているのはさ、早く貢献できるようになりたいからだけど」
「え、えぇ。もちろん存じておりますわ」
「そんな俺に合わせてシエラもあまり寝てないだろ?」
「!」
(気付いてたの!?)
最初は初夜の件で避けられてしまったのかもという不安があった。だから彼が夫婦の寝室へ戻ってきてくれるかを確かめたくて起きていた。
けれどすぐ、彼が兄の仕事を手伝うために勉強していると知った私は、妻としてせめてなるべく彼に合わせて起きて待つように心掛けていたのだ。
(けれど結局、途中で寝てしまってばかりいたのに)
それでも彼が気付いていたことに、言葉にできない嬉しさが広がって胸が温かくなる。
「シエラも寝るなら、俺も寝ようかな」
ふっと表情を和らげた彼にそう告げられ、期待から胸が高鳴る。
(そういう意味じゃない、そういう意味じゃないのはわかってるけど……っ)
これでも新婚夫婦なのだから、もう少しくらい彼と距離を近付けてもいいのでは? と思った私は、いそいそと彼の隣に寝転び直し、体を彼の方へ向ける。そしてそのまま彼の手を取り、そっと自身の胸にその手のひらを這わせた。
「――っ!?」
「貴方の元婚約者に勝てるのはこれだけですから」
小柄でスレンダーだったキャサリン嬢に対し、女性にしては高めの身長の私は、正直守りたくなるような容姿の女ではないと自覚している。くりくりの大きな瞳とは違うツリ目は、それだけできつく見られがちだというのも理解していた。
(そんな私に唯一あるのは、この豊満なおっぱい……!)
初夜で彼の頭を誘導した時、確かに彼はピクリと体を跳ねさせていたし、好きだと言質も取った。ならばこの胸を使わない手はない。彼の手の上から自身の胸を揉みしだくと、すぐに手を振り払われると想定していたのに抵抗されないことに驚いた。
(や、やだ、なんだか彼の手を使って自慰してる気分になってきたわね)
わずかに芽生える罪悪感。しかし拒否されない喜びとこの行為の背徳感に、じわりと下腹部に熱が集まりはじめる。今なら初夜のリベンジができるのではと期待した。
(まずは口付けよ。さっきみたいに頬じゃなく、彼の唇を奪ってやるわ……!)
そっと目を開け、彼の唇を奪うべく顔を近付ける。そしてすぐに大きなため息を吐いた。
「……寝てるわね」
私が待ちきれず毎夜寝てしまっていたのは、それ以上に彼が夜遅くまで勉強していたからだ。
(まぁ、あまりにもクマがひどかったから、彼を寝させようとしたんだもの)
これが正解だったと納得し、穏やかな寝顔を眺める。
(この寝顔は私だけのものだわ)
そう思えば、少しいじけた気持ちも嬉しさに早変わりする。二人だけの特別な時間だ。
私は特別なこの時間に浸りながら、彼と手を繋いだまま瞳を閉じたのだった。
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