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一章 ベイロンドの魔女
第三話
しおりを挟む「…明日ねぇ」
私から眼を離し天井を見上げながらリィディは言った。
「リィディは」
「?」
「リィディは初めて仕事を告げられた時、仕事の前日はどんな気持ちだった?私は今、すごくドキドキしているの。緊張している――私でも、仕事ができるのかしら…って」
「う――ん」
「もちろん私も緊張したわ。仕事を告げられて、荷物を整理し終わって、そしたら何だかドキドキとしてきて…あなたと同じだった」
「そっ…か――」
思わず顔を近づけた。リィディはいったん静かに眼を閉じると、いくぶんぎこちなくはにかんだ。優等生で何でもできるリィディが私と同じ風に緊張していたなんて、私はちょっと安心を感じた。リィディもそうやって初仕事をこなしていったんだ。
「ありがとう。何かちょっと緊張が和らいだみたい」
私がそう言うと、「そう、よかった」とリィディはベッドを立った。
「部屋に戻るわね。今日はゆっくり寝ておいた方がいいわよ」
「うん、わかったわ。おやすみ」
私が手を振ると、リィディも手を振り返してドアノブに手をかけた。その顔はいつもの優しいリィディだったけど、一瞬何かまだ言いたげな顔をしたのが印象的だった。
私は荷物をテーブルに乗せると、ランプの火を消して布団の中に入った。セミの声が強く聞こえる。ふと見たベイロンドの森は真っ暗で、しかし空は満点の星に彩られていた。
ルピスの肌のように白銀に輝く月の脇で流れ星が――ほうき星が尾を引いて消えていった。
あのほうき星が私に資格をくれた。私はしばらく星空を見ながら明日の事を考えていた。ここから見る夜空ともしばらくお別れだ―――。
7
「ラ―――ン!起きなさい!」
「…えっ?」
大きな声が耳元でした。いい気分で寝ていた私は突然起こされて頭がよくまわらなかったのだった。
「なぁにぃリィディ…ちょっと早くない?……ふぁぁあ、ふぁあ~あ~…あっ!」
長い長いあくびをしながらリィディの困ったような顔を見てようやく眼が覚めた。しまった。今日は初仕事の朝でいつもより早くに起きるようにコリネロスに言われていたのに!
「もう!あんたは何でこんな時にも寝坊できるの!早く起きなさい、コリネロスはカンカンよ?」
「さっ、最悪!ごめんっ!」
急ぎ寝癖を直し歯を磨き紺のワンピースを着ると、私はバックを持って階段を駆け下りた。昨日は空を見てたら色々な事を考え出してなかなか寝付けなかったんだ。私って本当馬鹿だ。
「コッ、コリネロス、寝坊しちゃってごめんなさいっ!」
ホールに降りるとコリネロスは階段に背を向けながら窓の外を見ていた。私が声をかけてもこちらを向いてはくれない。
「あ、あの…コリネロス…?」
恐る恐る彼女に近づくと、彼女がその手に持つふしくれだった木の杖がわなわなと震えているのがわかった。
「え―――いあんたみたいな馬鹿者は見た事がないよっ!しっ、神聖な初仕事のっ、うっ、ごふっ、ごふっ、朝に、ごふっ、寝坊するなんてねっ!ごふごふっ!」
顔を真っ赤にして私を叱り飛ばすコリネロス。屋上まで筒抜けかと思う程の大音量!勢い余って咳き込んじゃって。
「やだ、ちょっとコリネロス大丈夫?」
「え―――い触るんでないよ。全くあんたはけしからんねぇ…リィディの初仕事の時は…」
私のかけた手を振り払うように体を揺すると、コリネロスはいつもの長い説教に入りだしてしまった。リィディが階段を降りて来なかったら、きっと数十分は始まろうかと言う勢いだった。
「まあまあ、コリネロスそんな所にしときましょうよ。旅立ちにはまだ間に合うわ」
リィディは階段を降りきるとコリネロスの隣、窓を背にして私の方を向き直った。二人の瞳が私を見つめる。コリネロスはやれやれと首を振ると、説教を止めて話し出した。
「…まったくあんたはこの娘に甘すぎるよ…ふんまあ、それじゃ魔女の習いに従い仕事の説明をしようかね。ラン、いいかいよくお聞きよ。
私達魔女は人間の姿をして人間にあらず。人間界と精霊界の掛け橋となる存在。その魔法と知識を使い、人間に解決できない事を解決し、精霊の迷いを無くす事が仕事なんだよ。これは魔女になった者の定め。月の女神ルピスに選ばれし魔女達は、女神の啓示を受け取りその災厄を鎮めなくてはならない」
「魔女の仕事はコリネロスの占いで決まる。と言ったわね?これは正しくは水晶球によりルピスの予知する災厄――多くの場合は精霊の流れの変化によって引き起こされる――を啓示として知る事なのよ。
昨日もまた、コリネロスの水晶球はルピスの啓示を受け取ったわ――最も近い南方の鉱山の街に異変が起きる。こういうものよ。あなたは今日ここを発ってその街に行かなくてはならない。そして近く必ず起きる災厄を鎮めなくてはならないのよ」
二人はまるで定型の文句のように長い言葉をまくしたてた。…ルピスの啓示で告げられる災厄を鎮めるのが、魔女の仕事…。
「私で―――その災厄を鎮める事は、できる筈――なの、よね…?」
「能力的には問題ない筈だよ。こないだの占いによってルピスはお前が仕事をできる事を――あたしにはまだどうしても信じられないんだがね――証明しているのだから。
あんたは街に行き、様々なものを注意深く見るんだよ。そして、あんたにしかできない事、あんたのすべき事をお前の正しいと思うようにやってみるんだ。月の女神ルピスは正義の使徒でもある。正しい道に進もうとする者にはルピスの加護が宿るはずだよ。だけどね―――」
「コリネロス」
コリネロスが何かを言いかけた時、リィディが彼女の肩に手を置いた。コリネロスはリィディを見た後再び私を見ると、こう言った。
「何でもないよ。あんたの今まで勉強してきた知識、培ってきた魔法を使って見事初仕事を終えてくるがいいよ。――― 一人前の魔女ラン」
さっき何を言いかけたのか少し気になったが、コリネロスの最後の言葉に、思わずほんのすこしだけ背筋を伸ばした。コリネロスは私が塔に来てからずっと、私を一人の魔女として見てはくれなかった。
そんな彼女が最後の言葉の前の一瞬の沈黙に、心配や不安、期待とか…そんな色々なごちゃまぜになった感情を押し詰めていたのが通じたからだ。
私は息一つついて、
「うん…私…この仕事、頑張ってみる。私が何の為に魔女になったのか、私自分でちゃんと知りたいから」
私はそう言うと彼女達に向かって深く頭を下げた。
「リィディ」
コリネロスはリィディに目配せすると、リィディは占い部屋に入りたたまれた服と小瓶を持ってきた。
「ラン。これを着ていきなさい」
リィディに手渡されて服を広げてみた。
それはベイロンドの深い夜闇のような、黒いワンピース。魔女として、一人前の証。
「似合うわよ。ラン」
ホールに掛けられた前身鏡に映る私の姿を後ろから覗きながら、リィディが言った。
漆黒の服に身を包んだ私の姿はまるで別人の様と言っては言い過ぎだろうが、いつもより自分が大人っぽく見えた。
「ラン!こっちに来るんだよ!」
鏡の前で背中を確かめたり横になってみたりする私を、大声でコリネロスが呼んだ。
「はい」
「ちょっと眼をつぶってな」
「ええ」
私は何かわからず言われたままに眼をつぶると、突然頬に何か良い香りの、懐かしいすうっとするものを塗りたくられた。私はちょっと驚いて、眼を開けてしまった。
「動くんじゃないよ。上手く塗れやしない」
そう言いながらもコリネロスは両の手で私の頬をさする。
「ラン、それはバラのオイルよ。上等な紅いバラだけを沢山使って、長い期間丁寧に丁寧にそのエキスを凝縮させて作るもの。魔女の旅立ち、一人前の魔女には欠かせないものなのよ。コリネロスはこの日の為にずうっと大事にそのオイルを作っていたのよ」
「余計な事をいうんじゃないよ」
オイルが私の頬と首に完全に刷り込まれたと見るや、パンッと私の頬を軽く叩いてコリネロスは言った。鼻をくすぐる高貴なバラの匂いがした。これはいつもリィディやコリネロスからしていた香りだ。
「これはあんたの為のものだよ。このバラの香りを感じる度に、魔女の誇りを持つんだよ。決してくじけるんじゃないよ」
「コリネロス…」
知らず私の眼から大粒の涙がこぼれた。わっと何か張り詰めていたものがせきを切って溢れ出すと、私はコリネロスに抱きついた。
「ありがとうコリネロス…私しっかりやってくるからね…」
私は思いっきり泣いた。コリネロスは無言で私を強く抱きしめると、私の頭を何度も何度も撫でた。
いつも怒った、不機嫌そうな顔のコリネロス。私を見つけてはチビチビチビチビ文句を言っていた。
でもそれは私の事をいつも心配していてくれたからだって、今頃になってわかった。
長い間の抱擁が終わると、コリネロスは私に一枚の地図をくれた。それはベイロンドの森からかなり離れた、南の地図。森を越え街道を越えた先に山に囲まれた一つの街がある。街の名は、シェナ。
「鉱山の街、シェナ。その街で災厄が起こる事がコリネロスの占いで予見されているわ。そこへ行ってあなたが災厄を鎮めるのよ。あなた飛翔の魔法使えないでしょう?街道に出るまで私が連れて行ってあげるわ」
シェナ―――行った事のないその街で、私の初仕事となる災厄が待っている。私はシェナがどんな街なのか考えていた。
「自信を持つんだ」
それが別れ際にコリネロスが言った言葉だった。街道に出るまではさっきリィディが言ってくれた通り、ほうきの飛翔の魔法で連れていってもらう事になった。
塔の前でリィディが魔法の呪文を紡ぐと、彼女の持った意思無きほうきは力をみなぎらせて浮き上がった。私達の腰位まで横に浮かんだほうきに、リィディはベンチに座るように腰掛けると、「さあ乗りなさい」と言った。
私もリィディの後ろに腰掛けると、リィディの腰に腕を回した。
「それじゃあコリネロス、ランを連れて行ってくるわ」
コリネロスは深く頷くと、段々と高く浮き上がる私達を見上げて手を振った。私もコリネロスに向かって手を振って叫んだ。
「コ―リネロ―――ス!私、頑張るから!」
ほうきはグンッと力を溜めたように沈むと、強烈な推進力を伴って空を飛んだ。
みるみるうちにコリネロスが、ベイロンドの塔が小さくなる。一年間魔法や魔女の知識を学んだ石造りの塔。森の匂い、風を感じながら何故か本当に色々な思い出が蘇った。
リィディの脇から進路の方角を見やると、遠く続くベイロンドの森と青空が見える。
行って来ます―――。
私は胸の中でもう一度そうつぶやいた。不安と緊張と、そしてかすかな希望を抱きながら。
―――だけど私は知らなかったんだ。コリネロスが私達を見送ってからどんな風だったか、私がもしも遠見の薬をつけていたなら、見えた筈なんだ。
コリネロスがホールのテーブルに座り、必至でルピスに祈っていたのを―――。
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