月は隠れ魔女は微笑む

椿屋琴子

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神の深慮と巫女の浅慮

マシンガントークと退屈な女神

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今までこの大森林において、桜子はネネ、ゾンガ、ジイジ以外のヒトと出会ったことがなかった。それはこの大森林が、標高2000M以上の巨大な樹の切り株の上に展開されているからと、”邪神”ウィウィヌンの勢力範囲の真上とされている為に聖都が手を出してこないだけのこと。他の管理者のいる土地では、勢力を伸ばす必要が無い為ここに手を出してくる事は決して無い。土地を治める神がいるのであれば、その土地は自給自足をすることが前提で、他の土地と交流があるとすればお互いの足りないものを交換するという純粋な交易のみ。


桜子のいた地球のように、複雑かつ、陰湿な腹の探り合いなど必要が無い。ヒトは管理され権力を許されない立場ゆえか、一部の例外と聖都を除いた他の土地ではヒトは純朴で多くを望まない性格が多かった。


『こんばんは、お嬢さん。』


その人影から声をかけられた。少なくとも、桜子とその人影は30M以上は離れていると言うのに、その小さな囁き声とも取れる呼びかけは、はっきりと桜子の耳に届く。


「……ええ、良い夜ね。」


『ああ、まったく、今夜は良い夜だ。』


ゆっくりと人影がこちらへと歩み寄ってくる。雲に隠された月で相手の姿はぼんやりとしたシルエットしかわからない。桜子もゆっくりと人影に向かって足を進め始めた。


ハーブの清涼な風が辺りに流れ込めば、雲の切れ間から除く月明かりで相手の姿が浮かび上がる。長い黒髪が緩やかに身体を覆いかくしてはいるが、鍛え上げられたのであろうその肉体はかくせはしない。淡い色合いの布を身に纏ったその姿は、年のころは40~50くらいだろうか?ジイジよりも若い風貌の男だった。そしてその双眸は、まるでお気に入りのおもちゃを見つけた子猫のように、愉しげにきらめいていた。


『初めましてだね。お嬢さん。私はここ、月隠れの大森林に住む精霊だ。名前は無いので適当に精霊、とよんでくれ。』


「はじめまして…私は」


自らを精霊を表現する男に、桜子は自らの名を告げようとするがさえぎられてしまう。


『ああ、シ(・)っているよ、桜子・・。君がここにあの大きな箱と一緒に現れたときからね。君はとても運が良かった。とても(・・・)、ね?穴から落ちるのは簡単だが、通り抜けるに至らないモノが多い中、君はたどり着いた。デ・ア・バディル(ここ)に。その生命はこの全ての大地に歓迎され、私も君を歓迎しよう。強靭な神の住まう場所にやっと降り立ったヒトの管理者よ。君は魔女として数多のヒトから恐れられ、その生命が狙われ脅かされるだろう。だが安心おし、この土地に住まう全ての生命は君を守る。管理者を脅かすものは全てが塵芥となり、肥沃な土地の糧となるのだから。異界から来た管理者たる君は、ただ、この土地を慈しみ、共に在ればいい。いいね?』


呼びにくいはずの己の名を正しく発音する男は、立て板に水とはこのことか、紡がれる言葉の端々に管理者の言葉が含まれる。まだ、ジイジから詳細を効いていない桜子は軽く首をかしげて尋ねた。


「管理者とは、具体的になん…」


『管理者は管理者だ。神の代理人であり、庇護を受け、責を負うもの。スベテを慈しみ、称え、タタエられるもの。』


男はゆったりと微笑みながら、桜子に口を挟ませる隙を与えずなおも言葉を続ける。


『ヒトと管理者は、巫女と共にその土地と運命を共にする。桜子、君は選ばれたんだ。この土地に、この世界に、管理者として。幸いにも、君の側には、記録するもの、導くもの、巫女がそろっている。まあ、巫女と導くものは少々頼りないからね。教育者を用意するから安心しておくれ。これから君は土地が消えるその瞬間まで共に生きる仲間になる。歓迎するよ、我等が同胞はらから。』



恐らく、記録するものとは、ジイジのことで巫女はネネのことなのだろう。導くものの意味がよくは解っていないが、おそらくこれはゾンガのことを指している。

だが、それよりも今彼が落とした言葉の断片に、桜子は目を見開いた。


「土地が消えるその瞬間…?」


『気が付いたのかい?桜子。ああ、君はとても聡い…そうこの土地が消えるその瞬間まで、君はその役目を終えることは出来ない。君が居た世界の常識などここでは通用しないんだよ。加護のない土地では寿命は存在するが、ここは始まりの女神たるウィウィヌンの治める土地なんだ。他の土地とは比べ物にならない加護に満ち溢れている。ふふふ…彼女は気難し屋でね?気に入る人間なんて本当に限られている。この世界の殆どの人間のような純朴なだけの人間では、この土地の管理は難しすぎるんだ。なぜかわかるかい?』


精霊の問いに桜子は口を開きかけたが、やはりまた彼女に発言をさせるつもりがないのかまた話が続いてゆく。


『彼女は退屈している。飽いている。飢えている。知識に、記憶に、スベテに。この世界という箱庭は完成されすぎている。それゆえに、彼女は邪神という立場に身を置いてまで変化を望んだ。彼女の同胞が犯した過ちを正もせず、見限った彼女は長い、永い、ながい、ナガイ間、君のような異なる存在を待ち望んでいた。』


ブランコでいつの間にか眠ってしまっているネネを、精霊は優しく抱き上げ桜子へ差し出してくる。それを半ば呆然としながら受け取り抱きしめれば、幼子の暖かい体温が桜子の強ばった心に浸透してくる。


『君は生きれば良い。仲間と慎ましやかに、幸せに。それがこの土地と、彼女の願いだ。』


精霊の方へと顔を向ければそこにはもう誰もいない。ただ、夜風が座るもののいないブランコを揺らし、ハーブの葉擦れの音が聞こえるだけ。


「生きる…か。」


ネネをゾンガの隣で寝かせながら、先ほどの精霊の言葉を考える。穏やかに眠るネネの髪を撫で付けながら。


(もしかしたら…私はとんでもない世界に落ちてきたのかもしれないわね。でも…)


慎ましやかにこの幼子達と暮らしていく事だけを望まれているのであれば…このままで問題はないのであろう。


月明かりの差し込む窓から外を眺めてから、桜子は小さく微笑んだ。


「よろしくね…?」


ゆっくりとネネとゾンガの部屋から出て扉を閉める。また明日からの生活の為にもう一度寝直そうと思いながら。

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