インディアン・サマー

月波結

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第11話 すれ違い、思い違い

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 単調なノックをする。
 返事はない。
 そんな時もあるし、今までもあったので帰ろうと思う。
「待って」
 ひょい、とハルの顔がドアから飛び出して部屋に僕を呼んだ。久しぶりに来たその部屋は、意外にも小学生の頃とほとんど変わりがなかった。
 小学生の時にお揃いで買ってもらった百均のシロクマのぬいぐるみが枕元にまだいる。
 僕も同じ場所に置いているのでドキッとする。
 変わっていたのは教科書の棚に厚い参考書が数冊挟まっていたのと、机の上に大きめの鏡が置かれていた点だ。鏡というアイテムが、僕に女の子を意識させる。
「アキさ、また背が伸びた?」
 さっきの男を思い出す。なんだよあんなに背筋伸ばして歩きやがって。きっと、身長にコンプレックスなんて抱いたことないに違いない。
「わかんない。少しかな」
「成長痛って、ほんとにあるの?」
 そういうのはさっきの男に聞けばいいのに。
「まぁ、ちょっと。足が痛かったりする」
「ふぅん、謎だね」
 まるで宇宙の深淵でも覗いているかのように、ハルは神妙な顔をした。
 僕はどんな顔のハルでも好きなので、その、自分の考えに没頭してるハルの顔も忘れないようにインプットする。

 夕暮れに近づいてきた部屋に、窓から差し込む光はとても弱くてすべてがぼんやり見えた。
 吊り下げられたような夕陽が、落ちる素振りも見せずオレンジ色の光を届ける。
 僕とハルの距離は限りなく近い。
 大体いいのか? 男女を狭い部屋に二人きりで閉じ込めるなんて――。
 その考えが僕をもっと緊張させて、頬が熱くなるのを感じる。
 ヤバい、ハルがにしか見えない。
 ベッドにもたれかかるようにして、足を崩している。Tシャツに、ショートパンツで。折った足の膝頭が白い。
「つき合ってないよ、さっきの」
「あ、うん」
 三度目だ。目力が強い。
 大切なことだから三回言ったんだ。
 僕たちの意識がだんだん近づいて、呼吸も、心臓の音もシンクロしているように感じる。この時間が好きだ。一番身近にハルを感じる。
「あれ、いいよね。『トロイメライ』」
「ああ、あの曲が好きなの?」
「うん、アキが発表会で弾いた時、ちょっと感動した。丁度一日の終わり、これくらいの時間の感じ。⋯⋯気持ちよく眠くなっちゃう」
 くたーっと、ハルはベッドに上半身を倒した。
 目を閉じて、唇は半開きで、こういう時、どうしたらいいんだろうと考える。
 考えろ。この状況をどうすればいい?
 心臓はバクバク耳元でうるさくて、シンクロしてたはずなのに、リズムが変わってしまっている。ハルは完全にリラックスして、瞳を開けようとしない。脱力してる。
 ――神様、僕にちょっとだけ勇気を。
 1、2、3、⋯⋯。
 そろっと、床を這うようにハルに近づこうとした。ハルは依然、動かない。

「アキ、帰るわよ」

 暢気な母さんの声が階段を通って聞こえてきた。ああ、もうちょっとだったのに。
 ⋯⋯もうちょっとって、なんだ?
 気がつくとハルも体を起こしていて、目を合わせない。
「アキ!」
「はい」
 あまり良くない空気が部屋に漂っていた。
 帰るんだ、とハルは一言口にした。僕はうん、と答えた。
 ⋯⋯年下だからかな、とハルが呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
 どういう意味だろう?
 年下だからつまらないってこと? 子供だってこと?
 僕より先に彼女は立ち上がって、僕の手を引き上げて立ち上がらせた。
 ひどく大人びて見えた。
「アキ! なにしてんの? 泊まっていくの?」
 あら、別にいいわよ、とスミレちゃんは笑いながら答えた。この歳になると、もうそんなことはしないとわかっているからだ。
 ハルの部屋に泊まったのは小学校の低学年までだ。
「またおいで」
 ハルの顔は完全に、『お姉さん』の顔だった。距離を感じる。僕はなにかを間違えたのかもしれない。

 何度目かの母さんの呼び声を聞いて、ハルの家の少し狭い階段を下りていく。
「ハル、見送らないの?」
「スミレちゃん、いいわよ」
「ハル?」
 またおいでー、と部屋からくぐもった声が聞こえて、ハルの姿を見ることはなかった。
 僕はハルに、その日、届かなかった。

 学校はいつも雑然としていて、僕の足元はいつもなんだかふわふわしている。
 今日はなんだかいつも以上に僕以外の皆がざわざわして、落ち着かない。
 チラチラ見られてる気もする。
 こういう時ハルなら「自意識過剰」って言うだろう。僕もそう思う。僕は特に面白いところのない人間だから。
「ねぇねぇ」
 クラスでも話したことのないタイプの、陽キャな女子が二人組で僕の席にやって来る。面白くてたまらない、という顔をしている。
 僕は眉根をひそめてそれを迎えた。
「菊池弥生ちゃんとつき合ってるのぉ?」
 ――は?
 昨日の今日なんだけど。
 しかも実際と違うし。
 どこをどう伝わったらそうなるんだ?
 当の菊池さんを見ると同じように女子に囲まれて恥ずかしそうに微笑んでる。
 ちょっと待て。肯定してるのか? どこまで?
 友だちからって確かに言ったよね?
「すぐ答えないってことは――」
 ねぇねぇ、と陽キャグループの中に二人は入っていった。なんだあれは?

「突撃インタビューだな」
「佐野!? お前なんか知ってるのかよ」
「落ち着けよ、俺はなにも関係してないって」
 ほんとかよ、と半ば投げやりに机に教科書とノートを突っ込む。フェイクニュース。正にあれだ。
 なんなんだよ。
「でも昨日、一緒に帰ったのは本当なんだろう? バッチリ見られてたらしいぜ」
「へぇ、そうなんだ」
「他人事だな」
「同じようなものだよ」
 離れたところで唐澤が僕を憐れむような目で見ている。
 おい、事の発端はお前なんだからな、と思うとどんどん腹が立ってくる。
 菊池さんはこっちを見ながら、赤い顔をして「そんなんじゃないよー」なんて言ってるし、その周りも「えー、聞かせてよ」なんて煽ってる。
 まったくそんなんじゃない!

「菊池さんとはただの友だちだから」

 それほど大きな声じゃなかったと思う。
 でもその声は、教室中に聞こえた。その証拠に、一瞬、皆の時が止まった。
 最初に時間が戻ったのは菊池さんだったようだ。彼女は手の甲で目を拭いながら、声を押し殺して泣き始めた。
 周りの女の子たちが「信じらんない」とか「ひどい」とか僕に罵声を浴びせ、男子は「人間の心あるのか?」と僕をせせら笑った。
 向こうにいる事情を知った唐澤だけが、申し訳なさそうな顔をして黙り込んでいた。
 菊池さんはしくしくと泣き続け、このままHRに突入するのかと思った時「いいの、片想いだってわかってるから」と言った。

 最悪だった。

 僕は最低の男というレッテルを貼られた。
 どこが最悪って?
 ほかに好きな女がいるのに、菊池さんと帰ったところらしい。
 だってほかにどうしようもなかったじゃないか?
 逃げ道はなかったじゃないか?
「帰る」
 僕は一言いって、空のままのカバンを持って教室を出た。教室の中のことは知らないことにした。
 途中ですれ違った担任が「おい、どうしたんだ小石川」と声をかけてきた。
 僕は「昨日の夜、熱が出て、また具合が悪くなってきたんで」と嘘をついた。
 担任は僕の落ち着いた態度に騙されたらしく「お母さんに迎えに来てもらうか?」と訊ねた。僕はもちろん「ひとりで帰れます」と答えた。
 とは言うものの、真っ直ぐ帰ったとして、母さんに嘘がバレるのは時間の問題だ。担任が連絡しないわけがない。
 それで怒られるとは思わないけど、母さんに面白がられて根掘り葉掘り聞かれるのは堪らないと思った。
 母さんが嫌いなわけじゃない。
 でも母さんにはそういうところがある。あの女の子たちみたいな。
 とても家に帰る気持ちにはなれなかった。

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