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第12話 噂話の余波
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うちに帰れない時に行けるところはひとつしかなかった。
空っぽのカバンからスマホを出して、連絡先を探す。スミレちゃん直通の電話だ。
『もしもなにか困ったことが起きた時』用に教えられていた。例えば家に二人でいた時に母さんが倒れたりとか、車で走ってる時に事故に遭った時とか。
幸い今までそういうことはなかったけれど、今日は違った。
僕には精神的な逃げ場が必要だった。
『アキ、どうしたの?』
『⋯⋯スミレちゃん、今日は仕事だよね』
『あー、三時間だけ頼まれちゃって』
一緒にスーパーの品出しをしているオバサンが、孫と遊んでいて腰を痛めたらしい。
『気にしないで、なんでもないから。それと母さんには黙っててほしいんだけど』
『黙ってるのは構わないけど。⋯⋯仕事、九時からなんだけど来れる?』
僕はセーフティゾーンを手に入れた。
寛いでていいのよ、と言ってスミレちゃんは慌てて仕事に出て行った。
僕にお菓子とお茶を用意して、洗濯機からカゴいっぱいの洗濯物を出して超高速で干してきた。
それから忘れてたように自分の食器を手早く洗い、スーパーのエプロンを手にすると「行ってきます」と玄関に鍵をかけて出かけて行った。
スミレちゃんは自転車だ。
この家には車は一台しかない。平日はハルのお父さんが通勤に使っている。とはいえそれは駅までで、月極の駐車場に車を置いて、電車で通っている。
母さんに言わせると「もったいない」だそうだ。
車が使えれば、ハルもスミレちゃんも雨に濡れることが減るんだろう。
中学に入学する時、母さんはまた的外れな、すごくオシャレなレインコートを通学用にハルに贈った。華美なレインコートを着ている女子中学生はいない。しかも指定のレインコートも存在した。
「校則ってつまんない」と母さんは不平を漏らした。
ハルがそれを着ているところを、残念ながら見たことがない。
リビングのテレビ脇のチェストの上に、よく見えるように家族三人の写真が飾られている。まるでテレビドラマみたいに。
古い写真。
色褪せてはいない。小さいハルの頬が風に吹かれて紅くなっている。たぶん、秋の動物園。
あのフレームの写真は変わることがない。フレームが増えることもない。まるで家族の時間が止まったようだ。あのシャッターの瞬間に、閉じ込められてる。
当たり前のように知らない家のリビングは落ち着かなくて、仕方なく新聞を開いてみたり、テーブルにあった主婦向けの雑誌をめくったり、時間を潰していた。
スマホを持ってみてもどうにもしっくりこない。気持ちがついてこない。
そのうち予想通りに壊れるんじゃないかという勢いで猛烈にチャイムが鳴った。
その前にかかってきていた電話は全部、無視していたので、相当怒ってるんだろう。さすがに怖い。
仕方なく、ドアを開ける。
「陽晶、心配したじゃない!」
まるでドラマのようにガバッと母さんは僕を抱きしめた。脳を掠る、古い記憶。
本名で呼ばれるのも珍しい。
母さんの中では、僕は『陽晶』として認知されているのかと思うと、不思議な感じがした。適当に付けられた名前だと思っていただけに。
僕は母さんを裏切った分、すべての詳細を吐かされた。
言わなくても良かったのかもしれない。
でも自分でも実はかなり持て余していて、これからどんな顔をして学校に行けばいいのかわからなかった。
話を聞いた母さんは、冷房の効いたリビングで今日は熱いダージリンを飲みながら、口を噤んだ。
僕はまだ制服のままで、とにかくハラハラしていた。
「気にすることないわよ。失恋は女の子にとって人生に必要なドラマのひとつよ」
僕は本当に母さんがわからなくなる時がある。
母さんに比べて、父さんは論理的だ。物腰は柔らかいし、ユーモアもあるけど、わかりやすく説明してくれる。
そんな父さんが母さんを選んだのはかなり謎だ。
自分と違う人を選ぶことがあるのは知っているけど、母さんは『違う』の次元を超えて宇宙人のように感じることさえある。
僕の知る、どの女の人とも思考回路が違う。
「アキは好かれてる方なんだから、堂々としていなさい。そんな子に振り回されること、ないわよ。まったく酷い子ね。泣き落としなんて最低」
もう、とプンプン怒ってお茶をまた飲んだ。
テーブルの上のアーモンドクッキーは減っていない。こんな時に粉っぽいものは喉を通らない。
「母さん、言ってあげようか?」
「はぁ? なんでそうなるの?」
「だってそんなのイジメじゃない。クラスぐるみのイジメでしょう?」
誰か母さんを止めてほしかった。父さんでも、スミレちゃんでも。
とにかく母さんより理性的な誰かに。
「アキが虐められたらどうしようって、小さい時からずっと思ってたのよね。大丈夫、母さんは味方だから。学校だって休みたければ休んでもいいのよ」
ないだろう。
女の子を形としては教室の真ん中でフッたのは僕の方だ。学校に行きたくなくなるのは菊池さんの方だろう。
悪いことをしたな。泣いてた。どんな理由があっても、女の子を泣かせるのは最悪だ。
これは謝らなくちゃいけない。
「いい、母さんは味方だからね。忘れちゃダメよ。気をしっかり持って」
両肩をがっしり押さえられて真剣に説得されると「はい」としか答えられない。
ああ、情けない······。
重い足を引きずって部屋に戻ると、佐野からメッセージが届いていた。
『状況は最悪だけど、お前に同情的な人も多いから明日はサボるなよ』と。これが男同士の友情なのかもしれない。
どちらにしてもこんなことで不登校になるわけにはいかないから、明日はなんとしても学校には行くつもりだった。
今日サボった分、数学と英語を見ておこうと思ってカバンを開けたら空っぽだった。
自分でも思ったことがないほど、気が短いのかもしれない。
母さんがスミレちゃんと長々と電話してる声が聞こえる。
「だって酷くない? アキには悪いところはないのよ」
半分ヒステリックに擁護されればされる程、悪いことをしてきたような気がしてきた。
責任が、じりじり重みを増してのしかかる。
どんな顔をして教室に入ったらいいんだろう? 明日も皆に批難されるんだろうか――?
『アキ、この前のお店で待ってる』
突然の着信に驚く。ハルからだった。
この前のって、ハルが帰った店だよな。それ以外は考えられない。
ハルを待たせちゃいけないと思って、急いで手に取ったTシャツとデニムで出かける。
母さんに「どこに行くの?」と止められ「友だちが相談に乗ってくれるって」と家を飛び出す。
母さんは「ちょっとアキ!」と言いながら玄関まで追いかけてきたけれど、最後は諦めたようだった。
そう、親離れってこういうのから始まるのかもしれない。思春期だし。
自転車を走らせる。
店は僕の家とハルの家の丁度真ん中だ。
汗をかくのも気にせず、フルスピードでペダルを漕ぐ。
適当に自転車を停めて、店に入る。
ハルを探す。どこだろう?
スマホを見る。
『二階席の窓際だよ』と送られてきていた。
よかった、待ちきれずに帰っちゃったのかと······。
ハンバーガーのセットを持って二階に上がると、ハルは授業の時のように真っ直ぐ手を挙げた。
そっちに向かうのに、なぜか少しの勇気が必要だった。なぜだ?
「座りなよ」
ハルはいつも通りだった。口笛でも吹きそうに機嫌が良かった。
「今日、うちに来たの?」
「······うん」
「わたし半日だったから、もう少し待ってれば良かったのに」
そう言ってハルはシェイクのカップを傾けた。
評判の悪い紙ストローが刺さっている。
ハルは易々と、シェイクをすすった。
「母さんが迎えに来たからさ」
「サクラさんねー。大変だね、アキも。それともこのままマザコンになっちゃうの?」
ハルはけたけた笑った。僕はバツの悪い思いでポテトをつまんだ。
母さんの過保護は確かにとどまるところを知らない。でもその前に、自分が自立すればいいんだ。
上手くやれば母さんを傷つけずに済むだろう。
「まぁ、お互いひとりっ子だから、親の期待も時には重く感じるよね?」
「ああ、そうなのかも」
「⋯⋯」
ハルは変わらず上機嫌で微笑みながら美味しそうにBLTバーガーを頬張った。
その健康的な姿にぐっと来る。ハルを好きだという気持ちがぐんと盛り上がる。
「詳しいことはわかんないけど、アキにはわたしがいるよ。わたしのこと、使ってもいいよ」
「使っていいって?」
「彼女だとか言っちゃってもいいよ。彼氏いないし。どうせほとぼりはすぐ冷めるだろうしね」
――ああそうだね。
僕にはそれしか言えなかったんだけど⋯⋯ほかになんて言えばいい?
それ以上、なにをハルに期待してるんだろう⋯⋯? 偽の彼女、それを通り越した先にあるもの、それを願うにはまだ二人の間になにかが足りない気がした。
空っぽのカバンからスマホを出して、連絡先を探す。スミレちゃん直通の電話だ。
『もしもなにか困ったことが起きた時』用に教えられていた。例えば家に二人でいた時に母さんが倒れたりとか、車で走ってる時に事故に遭った時とか。
幸い今までそういうことはなかったけれど、今日は違った。
僕には精神的な逃げ場が必要だった。
『アキ、どうしたの?』
『⋯⋯スミレちゃん、今日は仕事だよね』
『あー、三時間だけ頼まれちゃって』
一緒にスーパーの品出しをしているオバサンが、孫と遊んでいて腰を痛めたらしい。
『気にしないで、なんでもないから。それと母さんには黙っててほしいんだけど』
『黙ってるのは構わないけど。⋯⋯仕事、九時からなんだけど来れる?』
僕はセーフティゾーンを手に入れた。
寛いでていいのよ、と言ってスミレちゃんは慌てて仕事に出て行った。
僕にお菓子とお茶を用意して、洗濯機からカゴいっぱいの洗濯物を出して超高速で干してきた。
それから忘れてたように自分の食器を手早く洗い、スーパーのエプロンを手にすると「行ってきます」と玄関に鍵をかけて出かけて行った。
スミレちゃんは自転車だ。
この家には車は一台しかない。平日はハルのお父さんが通勤に使っている。とはいえそれは駅までで、月極の駐車場に車を置いて、電車で通っている。
母さんに言わせると「もったいない」だそうだ。
車が使えれば、ハルもスミレちゃんも雨に濡れることが減るんだろう。
中学に入学する時、母さんはまた的外れな、すごくオシャレなレインコートを通学用にハルに贈った。華美なレインコートを着ている女子中学生はいない。しかも指定のレインコートも存在した。
「校則ってつまんない」と母さんは不平を漏らした。
ハルがそれを着ているところを、残念ながら見たことがない。
リビングのテレビ脇のチェストの上に、よく見えるように家族三人の写真が飾られている。まるでテレビドラマみたいに。
古い写真。
色褪せてはいない。小さいハルの頬が風に吹かれて紅くなっている。たぶん、秋の動物園。
あのフレームの写真は変わることがない。フレームが増えることもない。まるで家族の時間が止まったようだ。あのシャッターの瞬間に、閉じ込められてる。
当たり前のように知らない家のリビングは落ち着かなくて、仕方なく新聞を開いてみたり、テーブルにあった主婦向けの雑誌をめくったり、時間を潰していた。
スマホを持ってみてもどうにもしっくりこない。気持ちがついてこない。
そのうち予想通りに壊れるんじゃないかという勢いで猛烈にチャイムが鳴った。
その前にかかってきていた電話は全部、無視していたので、相当怒ってるんだろう。さすがに怖い。
仕方なく、ドアを開ける。
「陽晶、心配したじゃない!」
まるでドラマのようにガバッと母さんは僕を抱きしめた。脳を掠る、古い記憶。
本名で呼ばれるのも珍しい。
母さんの中では、僕は『陽晶』として認知されているのかと思うと、不思議な感じがした。適当に付けられた名前だと思っていただけに。
僕は母さんを裏切った分、すべての詳細を吐かされた。
言わなくても良かったのかもしれない。
でも自分でも実はかなり持て余していて、これからどんな顔をして学校に行けばいいのかわからなかった。
話を聞いた母さんは、冷房の効いたリビングで今日は熱いダージリンを飲みながら、口を噤んだ。
僕はまだ制服のままで、とにかくハラハラしていた。
「気にすることないわよ。失恋は女の子にとって人生に必要なドラマのひとつよ」
僕は本当に母さんがわからなくなる時がある。
母さんに比べて、父さんは論理的だ。物腰は柔らかいし、ユーモアもあるけど、わかりやすく説明してくれる。
そんな父さんが母さんを選んだのはかなり謎だ。
自分と違う人を選ぶことがあるのは知っているけど、母さんは『違う』の次元を超えて宇宙人のように感じることさえある。
僕の知る、どの女の人とも思考回路が違う。
「アキは好かれてる方なんだから、堂々としていなさい。そんな子に振り回されること、ないわよ。まったく酷い子ね。泣き落としなんて最低」
もう、とプンプン怒ってお茶をまた飲んだ。
テーブルの上のアーモンドクッキーは減っていない。こんな時に粉っぽいものは喉を通らない。
「母さん、言ってあげようか?」
「はぁ? なんでそうなるの?」
「だってそんなのイジメじゃない。クラスぐるみのイジメでしょう?」
誰か母さんを止めてほしかった。父さんでも、スミレちゃんでも。
とにかく母さんより理性的な誰かに。
「アキが虐められたらどうしようって、小さい時からずっと思ってたのよね。大丈夫、母さんは味方だから。学校だって休みたければ休んでもいいのよ」
ないだろう。
女の子を形としては教室の真ん中でフッたのは僕の方だ。学校に行きたくなくなるのは菊池さんの方だろう。
悪いことをしたな。泣いてた。どんな理由があっても、女の子を泣かせるのは最悪だ。
これは謝らなくちゃいけない。
「いい、母さんは味方だからね。忘れちゃダメよ。気をしっかり持って」
両肩をがっしり押さえられて真剣に説得されると「はい」としか答えられない。
ああ、情けない······。
重い足を引きずって部屋に戻ると、佐野からメッセージが届いていた。
『状況は最悪だけど、お前に同情的な人も多いから明日はサボるなよ』と。これが男同士の友情なのかもしれない。
どちらにしてもこんなことで不登校になるわけにはいかないから、明日はなんとしても学校には行くつもりだった。
今日サボった分、数学と英語を見ておこうと思ってカバンを開けたら空っぽだった。
自分でも思ったことがないほど、気が短いのかもしれない。
母さんがスミレちゃんと長々と電話してる声が聞こえる。
「だって酷くない? アキには悪いところはないのよ」
半分ヒステリックに擁護されればされる程、悪いことをしてきたような気がしてきた。
責任が、じりじり重みを増してのしかかる。
どんな顔をして教室に入ったらいいんだろう? 明日も皆に批難されるんだろうか――?
『アキ、この前のお店で待ってる』
突然の着信に驚く。ハルからだった。
この前のって、ハルが帰った店だよな。それ以外は考えられない。
ハルを待たせちゃいけないと思って、急いで手に取ったTシャツとデニムで出かける。
母さんに「どこに行くの?」と止められ「友だちが相談に乗ってくれるって」と家を飛び出す。
母さんは「ちょっとアキ!」と言いながら玄関まで追いかけてきたけれど、最後は諦めたようだった。
そう、親離れってこういうのから始まるのかもしれない。思春期だし。
自転車を走らせる。
店は僕の家とハルの家の丁度真ん中だ。
汗をかくのも気にせず、フルスピードでペダルを漕ぐ。
適当に自転車を停めて、店に入る。
ハルを探す。どこだろう?
スマホを見る。
『二階席の窓際だよ』と送られてきていた。
よかった、待ちきれずに帰っちゃったのかと······。
ハンバーガーのセットを持って二階に上がると、ハルは授業の時のように真っ直ぐ手を挙げた。
そっちに向かうのに、なぜか少しの勇気が必要だった。なぜだ?
「座りなよ」
ハルはいつも通りだった。口笛でも吹きそうに機嫌が良かった。
「今日、うちに来たの?」
「······うん」
「わたし半日だったから、もう少し待ってれば良かったのに」
そう言ってハルはシェイクのカップを傾けた。
評判の悪い紙ストローが刺さっている。
ハルは易々と、シェイクをすすった。
「母さんが迎えに来たからさ」
「サクラさんねー。大変だね、アキも。それともこのままマザコンになっちゃうの?」
ハルはけたけた笑った。僕はバツの悪い思いでポテトをつまんだ。
母さんの過保護は確かにとどまるところを知らない。でもその前に、自分が自立すればいいんだ。
上手くやれば母さんを傷つけずに済むだろう。
「まぁ、お互いひとりっ子だから、親の期待も時には重く感じるよね?」
「ああ、そうなのかも」
「⋯⋯」
ハルは変わらず上機嫌で微笑みながら美味しそうにBLTバーガーを頬張った。
その健康的な姿にぐっと来る。ハルを好きだという気持ちがぐんと盛り上がる。
「詳しいことはわかんないけど、アキにはわたしがいるよ。わたしのこと、使ってもいいよ」
「使っていいって?」
「彼女だとか言っちゃってもいいよ。彼氏いないし。どうせほとぼりはすぐ冷めるだろうしね」
――ああそうだね。
僕にはそれしか言えなかったんだけど⋯⋯ほかになんて言えばいい?
それ以上、なにをハルに期待してるんだろう⋯⋯? 偽の彼女、それを通り越した先にあるもの、それを願うにはまだ二人の間になにかが足りない気がした。
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