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第15話 その日の匂い
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週末だけどハルのお父さんは仕事だった。
デザイン職は多忙な業界と有名だ。
しかも『遅くなる』と一報があり、母さんは早速父さんに、スミレちゃん家で夕飯は食べていくとメッセージを送った。
僕は父さんを気の毒に思う。
そのメッセージを見て父さんは多分、冷蔵庫を覗く。
うちの冷蔵庫は母さんが思うままに買い物したものでいっぱいなので、食料は多分、確保できるだろう。
けど、ひとりきりの時間を大人は持て余したりしないんだろうか? ソファでテレビに向かってひとり、缶ビールを飲む父さんの姿を想像する。
TVはエンタメ番組で溢れている。
ひとりでも笑ったりするんだろうか?
種田山頭火、咳をしても一人、を思い出す。
テーブルの上にはホットプレートが出されて、今夜はどうやらお好み焼きらしい。例のごとく、母さんが「食べたい!」と言い出した。
ホットプレートの周りには取り皿やらソースやらが乱雑に出され、母さんはウキウキでスミレちゃんと種を作っていた。
市販のお好み焼き粉にネギやらキャベツやら天かすやら紅しょうがやらを混ぜていく。
「紅しょうが大丈夫だっけ?」なんて入れてしまった後に聞いてくる。
僕は「マヨネーズがない」とか「チーズも出しておいて」とかもっぱら使い回されて、ハルはソファの肘掛けにもたれてスミレちゃんが『スミレ』の花の刺繍をいれた、取っておきの白いクッションを抱きしめていた。
楽しそうには見えなかった。
ワンポイントであるはずの紫色《ヴァイオレット》のスミレが、今日は憂鬱で気怠げに見えた。
「アキ」
呼ばれたことにホッとする。マヨネーズをテーブルに置いた僕はハルのところに、まるで飼い犬のように急いで駆けつけた。
「ケチャップも出しておいて。マスタード、も」
お互い顔を合わせて気まずくなる。
あの日のナゲットのマスタードソース。『彼女』の名前貸し。
そんな怪しい約束をしていたことを後ろめたく感じる。多分、ハルも。
ポン、と自分の隣の席を叩く。
「まぁ、アキも座りなよ。二人で楽しそうにやってるから使いっぱになることないって」
ハルはね⋯⋯と思う。
僕は自宅ではないのでそんなにどっかり寛げない。動いている方が罪悪感に苛まれなくて済むし、そもそも母さんは普段から僕を結構こき使う。ある時はかわいい息子であり、ある時は忠実な下僕だと思っているに違いない。
ポンポン、と今度は二度叩かれる。
仕方なく、座る。
スミレちゃん家のソファは硬すぎず軟らかすぎない。僕の理想形だ。
ポイッと放られたクッションには、よく見たらサクラの刺繍があった。スミレちゃんは母さんを叱ることが多いけど、やっぱり二人は繋がってるんだなぁということに不思議を覚える。
「今は楓の葉を刺してるよ。『アキ』じゃない?」
「『ハル』は?」
「⋯⋯知らない。スミレとサクラで溢れてるし、無いんじゃない? それならそれで、わたしは『アキ』を使うからいいよ。昼寝用枕にしたりね」
ふふっと笑った。
スミレちゃんのことだから、その辺は抜かりないに違いないと思う。でも子供というのは、――今更自分で子供と威張るのもなんだけど、自分が親に置き去りにされるんじゃないかという恐怖をいつも持ってる。
僕だって例外じゃない。
母さんは気まぐれ過ぎるから。
僕たちがソファでちょっと深刻な話をしていると、焼けたわよーと、大きな声がかかる。僕より先にハルが反応して、スミレの刺繍を刺したクッションをソファに無造作に投げた。
僕はハルの背中を見て、それからクッションを正しい位置に戻す。サクラのも同じく。
今日のハルはすこぶる機嫌が悪い。
なにを考えてるのかわからない。
さっさと席に着いて、いただきまーすとお好み焼きを食べ始めた。そう言えばまだケチャップとマスタードを出してなかったと気付くと、ハルはなんの躊躇いもなくお好み焼き用のドロっとしたソースをべちゃっと出した。そして器用にマヨネーズを斜線を書くようにオシャレにかけた。
「ハルちゃん、青のりもあるのよ」
「歯につくと嫌だから」
「ああ、そうよねぇ。女の子ならそうよねぇ」
そんなものなのか、と思っていると「覚えておきなさいよ」と母さんから声がかかる。
「夏祭りに行ってお好み焼き食べるとするじゃない? せっかくのファーストキスも青のりで台無しよ」
ぷっ、と珍しくスミレちゃんとハルが同じところで吹いた。居心地が悪かった。
ファーストキスなんてずっと遠い先のことだ。僕の誕生日は十一月。まだ今月は十三歳。小学生とそれほど変わらない。⋯⋯春生まれで十五になったハルが、急に大人びて見える。
「大切なことでしょう?」
母さんが顔を赤くしてプンプン怒ると、スミレちゃんとハルは声を上げて笑った。
母さんは忘れ物をしたとスミレちゃん家にまた入っていった。
夜は少し冷える。ハルの腕が寒そうだ。
先に戻って、と言おうとしたところを遮られる。
「今日はすごく楽しかった。ほら、うちいつも夕飯はママと二人きりだからさ。温かいご飯も冷えてるような気がして、上手く喉に通らない気がする時があるんだ。ママは料理上手だし、明るくてわたしの気分を盛り上げようとしてくれてるのはわかるんだけど⋯⋯わかるんだけどさ」
生意気なのはわかってるけど、この時、強い衝動が起きてハルを強く抱きしめてあげたいと思った。本気だった。
えいっと目を瞑って手を伸ばそうとすると「あー、お腹いっぱい」と母さんがドアを開けて出てきた。
僕の手は、ものすごく中途半端に、ほんの少し上がったところにあった。母さんもハルも絶対、見たはずだ。
「あ!」
母さんが素っ頓狂な声を上げてスミレちゃんのところに飛んで行った。ねぇねぇ、とけたたましい声が聞こえる。
「······いいよ」
石段をひとつ上がったハルの身長はいつもより高くて、僕とほとんど変わらなかった。
手が意思に反してプルプルする。
緊張して震えるっていうのはこういうものか、と変な学習をする。
ハルは寒いのか、自分で自分を抱きしめるような姿勢をしていた。迷う。どうやったらいいのかわからない。
その時すっと僕を求めるように手が伸びてきた。僕は求めに応じるようにハルをごく自然に、やさしく腕の中に招いた。
やってしまえばそれ程難しくなかった。なぜなら予習は子供の頃、嫌って言うほどしてきたから。
ハルはお好み焼きの香ばしい匂いがした。
頬と頬が触れ合いそうだ。
ハルはまた、僕の肩の上に額を乗せた――。
「アキがいてくれるから大丈夫」
僕はなにも言わずに頷いた。
ギュッと、一段強く背中に回された手に力が入った気がした。
······ハルにも弱いところがあるんだ。それは強く僕の中の『男』を揺さぶった。守ってあげたいという思いが全身を包む。
背中に回した手を少しだけ持ち上げて、怒るかなと思いつつ、髪を撫でた。小さい子にするように。
大丈夫、怖いことから僕が守るから。
ハルの体は硬直して、それからふっと力が抜ける。「寂しかった」と言われ、今回は僕も「ここにいるよ」と怖がらせないよう、できるだけやさしく伝えた。
それがどれくらいの時間だったのかわからない。僕たちはお互いに十分納得して、体を離した――。
母さんの足音がわざとらしく大きな音を立てて近づいてくる。
僕たちは互いに目を合わせてくすっと笑った。なにがおかしかったのか? 照れくさかっただけじゃないかな。
「アキ!」
「はい」
母さんの足音がピタッと止まって、一瞬、なにもかも音が止む。それからカタンカタンと不器用に靴を履く音が聞こえて「スミレちゃんに残り、分けてもらったの。父さんにお土産」とわざとらしくビニール袋を目の高さまで掲げた。
「ビールのおつまみになるね」と言うと「でしょう? わたしって気が利くから」と母さんはまた笑わせた。
最後にバイバイ、と車の窓越しにハルが手を振ると、母さんが「ハルちゃん、これは貸しだからね」といつものように意味不明なことを、ハンドルを握って前を見据えたままはっきり言った。
そしてなぜかハルはすべてをわかっているように「はい」と歯切れよく答えた。
僕にはさっぱりわからなかった。
窓が上がる中、ハルは手を振りながら家に入っていった。
「ハルちゃんかぁ」
母さんはまたしても謎な言葉をこぼして、シフトをD《ドライブ》に入れた。
デザイン職は多忙な業界と有名だ。
しかも『遅くなる』と一報があり、母さんは早速父さんに、スミレちゃん家で夕飯は食べていくとメッセージを送った。
僕は父さんを気の毒に思う。
そのメッセージを見て父さんは多分、冷蔵庫を覗く。
うちの冷蔵庫は母さんが思うままに買い物したものでいっぱいなので、食料は多分、確保できるだろう。
けど、ひとりきりの時間を大人は持て余したりしないんだろうか? ソファでテレビに向かってひとり、缶ビールを飲む父さんの姿を想像する。
TVはエンタメ番組で溢れている。
ひとりでも笑ったりするんだろうか?
種田山頭火、咳をしても一人、を思い出す。
テーブルの上にはホットプレートが出されて、今夜はどうやらお好み焼きらしい。例のごとく、母さんが「食べたい!」と言い出した。
ホットプレートの周りには取り皿やらソースやらが乱雑に出され、母さんはウキウキでスミレちゃんと種を作っていた。
市販のお好み焼き粉にネギやらキャベツやら天かすやら紅しょうがやらを混ぜていく。
「紅しょうが大丈夫だっけ?」なんて入れてしまった後に聞いてくる。
僕は「マヨネーズがない」とか「チーズも出しておいて」とかもっぱら使い回されて、ハルはソファの肘掛けにもたれてスミレちゃんが『スミレ』の花の刺繍をいれた、取っておきの白いクッションを抱きしめていた。
楽しそうには見えなかった。
ワンポイントであるはずの紫色《ヴァイオレット》のスミレが、今日は憂鬱で気怠げに見えた。
「アキ」
呼ばれたことにホッとする。マヨネーズをテーブルに置いた僕はハルのところに、まるで飼い犬のように急いで駆けつけた。
「ケチャップも出しておいて。マスタード、も」
お互い顔を合わせて気まずくなる。
あの日のナゲットのマスタードソース。『彼女』の名前貸し。
そんな怪しい約束をしていたことを後ろめたく感じる。多分、ハルも。
ポン、と自分の隣の席を叩く。
「まぁ、アキも座りなよ。二人で楽しそうにやってるから使いっぱになることないって」
ハルはね⋯⋯と思う。
僕は自宅ではないのでそんなにどっかり寛げない。動いている方が罪悪感に苛まれなくて済むし、そもそも母さんは普段から僕を結構こき使う。ある時はかわいい息子であり、ある時は忠実な下僕だと思っているに違いない。
ポンポン、と今度は二度叩かれる。
仕方なく、座る。
スミレちゃん家のソファは硬すぎず軟らかすぎない。僕の理想形だ。
ポイッと放られたクッションには、よく見たらサクラの刺繍があった。スミレちゃんは母さんを叱ることが多いけど、やっぱり二人は繋がってるんだなぁということに不思議を覚える。
「今は楓の葉を刺してるよ。『アキ』じゃない?」
「『ハル』は?」
「⋯⋯知らない。スミレとサクラで溢れてるし、無いんじゃない? それならそれで、わたしは『アキ』を使うからいいよ。昼寝用枕にしたりね」
ふふっと笑った。
スミレちゃんのことだから、その辺は抜かりないに違いないと思う。でも子供というのは、――今更自分で子供と威張るのもなんだけど、自分が親に置き去りにされるんじゃないかという恐怖をいつも持ってる。
僕だって例外じゃない。
母さんは気まぐれ過ぎるから。
僕たちがソファでちょっと深刻な話をしていると、焼けたわよーと、大きな声がかかる。僕より先にハルが反応して、スミレの刺繍を刺したクッションをソファに無造作に投げた。
僕はハルの背中を見て、それからクッションを正しい位置に戻す。サクラのも同じく。
今日のハルはすこぶる機嫌が悪い。
なにを考えてるのかわからない。
さっさと席に着いて、いただきまーすとお好み焼きを食べ始めた。そう言えばまだケチャップとマスタードを出してなかったと気付くと、ハルはなんの躊躇いもなくお好み焼き用のドロっとしたソースをべちゃっと出した。そして器用にマヨネーズを斜線を書くようにオシャレにかけた。
「ハルちゃん、青のりもあるのよ」
「歯につくと嫌だから」
「ああ、そうよねぇ。女の子ならそうよねぇ」
そんなものなのか、と思っていると「覚えておきなさいよ」と母さんから声がかかる。
「夏祭りに行ってお好み焼き食べるとするじゃない? せっかくのファーストキスも青のりで台無しよ」
ぷっ、と珍しくスミレちゃんとハルが同じところで吹いた。居心地が悪かった。
ファーストキスなんてずっと遠い先のことだ。僕の誕生日は十一月。まだ今月は十三歳。小学生とそれほど変わらない。⋯⋯春生まれで十五になったハルが、急に大人びて見える。
「大切なことでしょう?」
母さんが顔を赤くしてプンプン怒ると、スミレちゃんとハルは声を上げて笑った。
母さんは忘れ物をしたとスミレちゃん家にまた入っていった。
夜は少し冷える。ハルの腕が寒そうだ。
先に戻って、と言おうとしたところを遮られる。
「今日はすごく楽しかった。ほら、うちいつも夕飯はママと二人きりだからさ。温かいご飯も冷えてるような気がして、上手く喉に通らない気がする時があるんだ。ママは料理上手だし、明るくてわたしの気分を盛り上げようとしてくれてるのはわかるんだけど⋯⋯わかるんだけどさ」
生意気なのはわかってるけど、この時、強い衝動が起きてハルを強く抱きしめてあげたいと思った。本気だった。
えいっと目を瞑って手を伸ばそうとすると「あー、お腹いっぱい」と母さんがドアを開けて出てきた。
僕の手は、ものすごく中途半端に、ほんの少し上がったところにあった。母さんもハルも絶対、見たはずだ。
「あ!」
母さんが素っ頓狂な声を上げてスミレちゃんのところに飛んで行った。ねぇねぇ、とけたたましい声が聞こえる。
「······いいよ」
石段をひとつ上がったハルの身長はいつもより高くて、僕とほとんど変わらなかった。
手が意思に反してプルプルする。
緊張して震えるっていうのはこういうものか、と変な学習をする。
ハルは寒いのか、自分で自分を抱きしめるような姿勢をしていた。迷う。どうやったらいいのかわからない。
その時すっと僕を求めるように手が伸びてきた。僕は求めに応じるようにハルをごく自然に、やさしく腕の中に招いた。
やってしまえばそれ程難しくなかった。なぜなら予習は子供の頃、嫌って言うほどしてきたから。
ハルはお好み焼きの香ばしい匂いがした。
頬と頬が触れ合いそうだ。
ハルはまた、僕の肩の上に額を乗せた――。
「アキがいてくれるから大丈夫」
僕はなにも言わずに頷いた。
ギュッと、一段強く背中に回された手に力が入った気がした。
······ハルにも弱いところがあるんだ。それは強く僕の中の『男』を揺さぶった。守ってあげたいという思いが全身を包む。
背中に回した手を少しだけ持ち上げて、怒るかなと思いつつ、髪を撫でた。小さい子にするように。
大丈夫、怖いことから僕が守るから。
ハルの体は硬直して、それからふっと力が抜ける。「寂しかった」と言われ、今回は僕も「ここにいるよ」と怖がらせないよう、できるだけやさしく伝えた。
それがどれくらいの時間だったのかわからない。僕たちはお互いに十分納得して、体を離した――。
母さんの足音がわざとらしく大きな音を立てて近づいてくる。
僕たちは互いに目を合わせてくすっと笑った。なにがおかしかったのか? 照れくさかっただけじゃないかな。
「アキ!」
「はい」
母さんの足音がピタッと止まって、一瞬、なにもかも音が止む。それからカタンカタンと不器用に靴を履く音が聞こえて「スミレちゃんに残り、分けてもらったの。父さんにお土産」とわざとらしくビニール袋を目の高さまで掲げた。
「ビールのおつまみになるね」と言うと「でしょう? わたしって気が利くから」と母さんはまた笑わせた。
最後にバイバイ、と車の窓越しにハルが手を振ると、母さんが「ハルちゃん、これは貸しだからね」といつものように意味不明なことを、ハンドルを握って前を見据えたままはっきり言った。
そしてなぜかハルはすべてをわかっているように「はい」と歯切れよく答えた。
僕にはさっぱりわからなかった。
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