インディアン・サマー -autumn-

月波結

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第33話 虹の彼方に

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 雨は降り続いた。
 嫌な雨だった。
 雪になりきらない、冷たい滴が尽きることなく降り注いだ。 

 連日の悪天候で母さんと車内で二人きりになる時間が増える。
 ワイパーの調子が悪いのか、時折、耳障りな音がする。
 拭き取っても拭き取っても意地悪するかのように新たな滴がフロントガラスにぶつかっては弾ける。
 今日はスミレちゃんの定休日だ。
 母さんは僕を送ったその足で、スミレちゃんに会いに行くんだろう。
 昨日焼いた紅茶のシフォンケーキの半分が、後部座席に座っている。元々、二人では食べきれないサイズだった。
 父さんは毎日スイーツを作る母さんがすきだけど、スイーツ自身は得意じゃない。最近、ウエストのサイズが気になると言って、母さんは父さんの柔らかいお腹の肉をシャツの上からつまんだ。
 二人はふふっと笑った。もっとも父さんのは苦笑いだったけど。母さんは気持ちだけでも、と父さんにアールグレイを淹れた。独特な芳香がフワッと香る。

 昨日は考えあぐねた末、ハルにメッセージを送った。
 少しして返事はちゃんと来た。
 ホッとする。
『元気にしてる? 雨ばっかりだね』
『雨は嫌い』
 スパッと切るような返事に気持ちが負けそうになる。
 食いついていく勇気がへたっていく。
『ねぇ、アキ。すぐ帰りたくないの。電車でそっちへ行くから、どこかで会おう』
 すぐ帰りたくない、というワードに緊張する。最近の彼女は毎日、そうやってやり過ごしているんだろうか? 雨の中、僕も呼ばずに、どんな風に?
 なんでそういう気持ちになった時にすぐ相談してくれないんだろう。僕しかいないって、そう言ってたのに⋯⋯。
『来れる?』
 ――行っていけないことはないと思った。
 良くないことだけど、母さんをごまかせればいくらでも出て行ける。
 あとは僕自身の決断ひとつ。
『すぐに行くよ』
 それが、僕とハルの約束だ。

 傘に落ちてくる一粒一粒の雨に重みを感じる。
 風がなくてもしんとした寒さに耳が引きちぎれそうだ。
 母さんの編んでくれた手袋が濡れる。親指の付け根に大きな穴が開いてしまったと、母さんがパニックを起こして、僕はそのままでいいよ、とこれをもらった。
 なんだか母さんを裏切ることへの罪悪感でいっぱいになる。
 戻ることができないわけじゃない。
 でもハルをひとりにできない。
 ハルをわかってあげられる、一番近い存在が僕だから。

 ポケットに突っ込んだスマホが通知を知らせる。ハルからだと思って慌てて取り出し、手袋を外す。手編みの手袋はスマホ対応ではない。
『勉強してるところかな?』
 弥生さんだった。
 僕はどう反応していいのかわからず、足を止めてトーク画面を見つめていた。
 弥生さんの言葉は、僕に暖かい家を思い出させた。僕が今やっていることの持つ意味も。
 でももう傘をさして外にいる。
 いつもみたいに、自室でゆっくりメッセージを送り合うわけにはいかない。
 吐く息が白い。
 指先がかじかむ。
 ショートカットは少しずつ伸びてきて、僕はまた伸ばすのかと訊いた。弥生さんはそんなことを訊かれるとは思っていなかったらしく、ちょっと驚いた顔をしてから「どうかな。どっちがわたしらしいかな」と言った。
 僕は「どっちも弥生さんらしいと思うよ」と言うと、彼女はくすくすと笑って「そう言うと思った」と答えた。
『今、外なんだ。ごめん』とそれだけ打って画面を閉じた。次のメッセージの通知が届いたけど、僕はそれを開かなかった。

 ハルは駅前の、観光マップの脇に傘をさして待っていた。
 もちろん観光するような大それた場所はこの辺にない。
 あっても昔の文人の残した歌碑とかだ。
 だからそのマップは打ち捨てられていて、日々朽ちていくだけのものだった。
「来てくれたの?」
 片手に傘、もう一方の手にスマホを持っていたハルは顔を上げると笑顔を見せた。冬の寒さに当てられてしまった花のように、つぼみさえ重く見えた。
「約束だから」
「そうだね、約束」
 僕たちはまた手袋越しに手を繋いで、近くのファストフードの店に入った。ハルはお腹が空いたと言い、コーンポタージュを美味しそうに飲んだ。
 そんなにお腹が空いてるならファミレスにすれば良かったのに、と言うと、資金不足、と一言答えた。
 その後は特になにも言わず、ポテトとハンバーガーを黙々と食べた。
 残念なことにその店にはココアはなかったので、二人でカフェオレを頼んだ。ハルは「苦い」と言った。僕は少し笑った。そしてポテトをつまんだ。
 ハルはカフェオレをようやく攻略して、窓の外を見た。
 まだまだ雨は止みそうにない。音を立てて存在を知らせている。
 僕たちは揃って窓の外を覗き込んだ。

「あー、外に出るの嫌だなぁ」
「ここ、二十四時間じゃないよ」
「ずっとここにいるつもりもないけどさ」
 うーんと背伸びをして、彼女はその後脱力した。頬に赤みが戻っていて、全身がリラックスしているように見えた。
 頬杖をついて、まだ外を見ている。
 残念ながらどんなにガン見したところで、雨は止みそうにない。
 窓ガラスにハルの顔が映っている。まるで涙を流しているかのように、雨が斜めに窓を濡らす。その目はなにを考えているのか、とても真剣だった。
「アキ、この前の五千円、まだ残ってる?」
「いつでも返せるようにしてあるよ」
「そっか⋯⋯」
 また外を見ている。
 ハルの言葉じゃないけれど、外に出るのは憂鬱だ。十二月の雨は僕たちに強かに叩く。
 ココアの甘い香りが懐かしく思える。
 体の芯から僕たちを温めてくれるあの、甘い香り。
 無いものねだり。
 ここにココアはないんだ。

「出ようか」
 ハルは突然立ち上がり、たっぷりしたダウンを着込んだ。
 家に帰る気になったのかと、そう思った。これで心配事も減る。
 スミレちゃんだって、ハルの帰りを心配してるに違いない。
 少しでも早く帰ることが必要だと思った。
「家まで送るよ」
「車もないくせに?」
 クスッと、ハルはちょっと嫌な笑い方をした。
 僕が年下であるということを笑っているかのような。
「送る」
 いいよ、と否定的な返事がバッグを背負うハルの後ろ姿から聞こえてくる。
 こんな寒い夜に、ひとりで帰るのか?
 想像するだけで心まで凍りつく。
「でも」
「ねぇ、アキ。わたしを攫って。どこかに行こう、二人で」
「え?」
 ハルはなぜか陽気な調子で『OverTheRainbow(虹の彼方に)』をハミングした。

 虹の彼方に、どこかそんな場所があるんだろうか?
 虹の根元にはそれぞれ一枚ずつ金のお皿があるんだと母さんは子供の僕に言った。そのお皿を探すには、どこまでもどこまでも歩かなければいけないんだと。
 虹の彼方には、なにがあると言うんだろう?
 雨上がりの空に太陽の光。
 朧げに輝く七色の光のスペクトル。
 どこまで行けば、雨雲を越えることができるんだろう?

「行こう、アキ」
 トレイはそのままで構いません、とカウンター越しに声がかかる。ハルは大きな声で素っ気なく「ごちそうさま」と言い、僕はそっと頭を下げた。

「ちょっと待ってよ」
 ハルは僕の前をずんずん歩いて、気を抜いたら傘の波の中、見失いそうだ。
 そうして傘を閉じると何事もないというような顔で、ATMに向かう。何枚かのお札を黒い財布にしまう。
「なにか買っていいよ。ここからはわたしの奢り。ジュースでも、ガムでも、なんでも。あ、一番くじとかは勘弁してよね」
 そんなジョークを飛ばして、迷うことなくハルは二本のココアをホットドリンクコーナーから取った。「なにもいらないよ」という僕をじっと見て、足早に店を出ると「はい」と僕の手にココアが届く。
「ポケットに入れておくとカイロの代わりにもなるしね」
 確かにその小さなペットボトルは十分に温かかった。そしてハルにとって、どれくらいココアが必要だったのかを知る。
 ココアが彼女の心の支えだ。例えそれが細い糸だったとしても。
 ハルの中の記憶のココアは、たぶん、温かいものだけで構成されている。
 スミレちゃんが変わりなく毎日作ってくれるココアが、彼女の日常なんだ。

「行くよ、早く」
 ハルは僕にSuicaにとりあえず千円チャージするように促し、折り目のない千円札を僕に渡してきた。反論する余地もなく、後ろに並ぶ人もいて、急いでチャージする。
 ハルは止まることを知らない。そのままSuicaを手に、なにも喋ることなく改札をくぐった。
 下り列車はそこそこ混んでいて、臙脂色の優先席だけが空いていた。ハルは僕の顔を見ると、裾を引いてそこに座った。三人がけの席に二人、ふぅ、とハルは小さなため息をついた。
「乗っちゃったね」
「暢気なこと言ってないでさ。適当なところで折り返そう? スミレちゃんも心配してるよ」
「……サクラさんは心配してるね、きっと。謝ったら許してくれるかな? アキのことだと厳しそう」
「そんなことないよ、母さんにとってハルは娘みたいなものだって――」
 ことん、とハルの頭が僕に寄りかかる。
 たたんだ傘の先から水が流れて線を引いている。涙のように。
「あの人たち、離婚しちゃうかも」
「……あ」
 予想されないわけではなかった展開に、僕はなにも言えなかった。


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