〖完結〗インディアン・サマー -spring-

月波結

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第18話 王子様のキス

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 気付いたら寝ていた。
 ゴソゴソという物音が近くから聞こえる。
 今、何時だろう⋯⋯。
「うーん⋯⋯」
「ハル、起きたか。寝坊するとアキくんが帰っちゃうぞ」
 ああ、そうだ。
 アキがこの部屋にいるんだ。
 ······それで涙の跡が頬に残っているんだ。
 昨日、あの後、少し泣いた。
 アキよりも大人だと思ってた自分自身に失望した。
 それは大いなる勘違いで、アキはとっくに大人になってしまった。知らない人に見えたあの男の人は、それは知らないアキだった。
 応えられない自分が情けない。

「ほら、できたぞ」
 朝は毎日、恭司が卵を焼いてくれる。
 タンパク質が体を作る、らしい。
 今日はベーコンエッグだった。カリカリのベーコンに、半熟の卵。完璧。
 ボサボサになった髪を手で撫でつけてひとつに結わえる。
 大きな欠伸が出る。仕方ない、自然現象だ。
 顔洗ってこいよ、といつも通りに叱られ、はーい、と洗面所に向かう。まるでよく躾られた犬のように。
 ひとつ間違うと、餌がもらえるまで恭司の周りをぐるぐる回るかもしれない。
 そんなことを考えて、ふふっと笑う。
 朝っていいな。新しい一日の始まりだもの。
 アキは荷物を詰めていた手を止めて、食卓に着いた。
 昨日の夜のことはとにかく今は忘れよう、そう思う。
 考えると緊張してしまうから。
 アキが怖く見えるなんて、そんなのはおかしい。

 昨日はご飯を炊かなかったので、自然、トーストになる。
 わたしはトースターに二枚のパンを入れて、冷蔵庫からマーガリンを出す。そしてジャムの空き瓶に立てられたバターナイフを取り出す。
 お皿を銘々に配って、その頃丁度パンが焼ける。
 恭司は少しカリッと焼いた方がすきなので、二枚ともよく焼けていた。それを、恭司とアキのお皿に乗せる。
「ハルの分は?」
「今から焼くから平気。ここのトースト、二枚焼きで三枚は一度に焼けないの。恭司はとにかく仕事に行かせなくちゃいけないから、先に食べさせないと」
「悪いな、気を遣わせて」
「ううん、居候だから」
「今日はたぶん、早めに帰れるから」
 あとは無言でパンをむしゃむしゃ食べた。恭司はトーストにたっぷりマーガリンを付ける。きっちりとはみ出そうなくらい。
「じゃあ、アキくんはお昼すぎくらいに帰るんだね?」
「はい、お世話になりました。今日はもう間に合わないけど、明日は学校があるんで」
「そうだな、無理しないのが一番だ。今日はゆっくり帰ってしっかり寝るといい。きっと思ったより疲れてるはずだよ」
 はい、とアキは優等生の返事をした。

「行ってくる」 
「恭司さん! ハルを助けてくれてありがとうございました!」
 恭司はなぜか思いやるようなやさしい目をして、アキの目を見た。
「アキくん、人生って長いんだ。たまにはハルみたいに空を見上げるといい。自分がちっぽけに思えて、不思議に安心する」
 アキはよくわからない、という顔をしたけれど「わかりました。お世話になりました」と言ってお辞儀をした。
「受験の時でも、合格後でも、気が向いたらいつでも遊びにおいで。俺はたぶん、まだここにいると思うから」
「ありがとうございます」
 お、時間だ、と言って恭司はいつもの人の良い笑顔で手を振って足早に出かけた。

「いい人だよね」
 アキは恭司の行った方を向いたままそう言った。
「たぶんね」
 わたしはお皿を片付けていた。
 こぼれたパン屑や、落ちたケチャップを残さないように。
 アキは恭司を十分に見送ると、ドアを閉めて部屋の中に戻ってきた。
 ――また二人きり。
 今度、また抱きしめられたらどうしよう? 胸の鼓動が不規則になる。やけに喉が渇く。
「アイスコーヒー、飲む?」
「あるの?」
「うん。牛乳多め? 少なめ?」
「じゃあ、少なめ」
 そう言うと思った。わたしは自分のグラスに半分くらい、ドボドボ牛乳を入れた。そこにコーヒーを少し。
 アキのグラスにはコーヒーを先に入れて、牛乳を足す。氷もサービスで。
「ハル、それコーヒー牛乳って呼ばない?」
「え、ダメなの? カフェオレじゃないの?」
「まぁ、大きく見ればカフェオレかもしれない」
 アキは声を上げて笑った。堪えきれない、という感じで。
 その笑い方はすごく自然で、アキの本質が透けて見えて、わたしにはとても快かった。

 電車は午後三時発。
 あまり遅くなりすぎるとサクラさんが心配するから。
 あんなに心配性なサクラさんと一緒にいて、アキはよく自立できるなと思う。
 少なくともよく、サクラさんを置いてこっちで春から一人暮らしをしようなんてよく思えたものだ。感心する。
「さて、なにをしようか?」
「なにって言ってもここにはそんなに面白いものはないよ。駅ビルがあって、百貨店があって。あ、プラネタリウムがあるんだけどね、この前行ったばかりなんだよな」
「恭司さんと?」
 ん、と一瞬、口が閉じる。言いたくない。
「満里奈って同じサークルの女の子。お節介で、なんか休み中でもしょっちゅう連絡してくるの。その子だよ、今はもう帰省しちゃった」
「ふぅん。ハルにも女友だちがほんとにいるんだ?」
「失礼だな」

 この狭い部屋でできることは限られている。
 洗い物をする。
 アキにどいてもらって掃除機をかける。
 洗濯は⋯⋯明日にしておこうかな。

「すっかりここでの暮らしに馴染んでるんだね」
「そんなことないよ。まだここに来て数日だし」
「スミレちゃんも心配してるよ」
 アキはわたしの手首を引くと、やさしく抱きとめた。
 ああ、またそういう風な流れになるのかな、と思う。アキを嫌いなわけじゃないけど、狭い部屋に二人きりなんだし、どうなるかなんて、アキの気持ち次第だ。
「アキ⋯⋯」
「黙ってて。これ以上、なにもしないから。離れてる間に心が挫けないよう、覚えておきたいんだ、ハルのこと」
 そんな風にやさしく言われるとなにも言えない。
 アキのすきなだけそうしたらいいと思う。
 わたしはアキのことを忘れないように、なにかしたほうがいいんじゃないかな?
 ⋯⋯そう思って、すぅっと、アキの香りを嗅ぐ。
 サクラさんが洗濯をしたお日様の匂い。それから、恭司とは違うなにか甘い匂い。
 これがわたしのアキの匂いなのか。
 今までずっと、知らなかった。

「いいよ、その、キスしても」
「無理しなくていいよ。嫌でしょう?」
「嫌じゃないよ、大丈夫だよ」
 アキはやさしく手をのべて、わたしの前髪をそっと持ち上げた。それから王子様がお姫様にしたような触れるだけのキスを、額にそっとした。
「そういうのじゃなくて」
「したいの?」
「したいっていうか⋯⋯その、そういうのしないと⋯⋯」
「しないと?」
「あの、いや、今でも微妙だと思うんだけどね、わたし、『彼女』じゃなくなっちゃわない?」
 アキはふざけるようにわたしを抱きしめた。
 それはまるであの頃のようで、わたしは安堵した。
「ハルは僕の彼女だよ。間違いなく」
「······でも、アキ、モテるでしょう?」
「ハルだって」
「わたしはモテないよ。······ガサツだし」
 いい子、いい子とアキの手がわたしの頭の丸みを撫でる。気持ちが蕩ける。
「それでいいよ。ハルは僕の彼女だから、ほかの誰にも捕まらないで」
 再び抱き寄せられる。今度は怖くない。
 要は、離れていたから驚いたってことだ。
 なにも怖くない。怖くなんてない。
 だって、アキはアキ。赤ちゃんの時から知ってるんだから。

 お昼はブラブラして外で食べようか、と誘われて懐かしい気持ちになる。
 いいな、こういうの。普通の恋人同士みたいで。
 水色のストライプのシャツに、ダンガリーの青くて軽いスカート。甘すぎない、無理をしないコーディネート。
 伸びてきた後ろ髪をがんばってひとつに編む。
 色のついた髪ゴムで結ぶ。
「お待たせ」
 アキは玄関に荷物を置いて待っていたけど、声をかけると振り向いた。
 見慣れないものを見た、という顔をしている。
 失礼な。
 わたしだってスカートも履くし、お出かけの時は化粧もする。それが普通の生活をしている。
 アキの知ってるハルは、そうじゃなかったみたいだ。


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