36.8℃

月波結

文字の大きさ
13 / 36

第13話 手と手が触れ合う時

しおりを挟む
 9月が落ち着いて、シャツの上にニットのベストを着て歩く生徒が増えた。

 白っぽかった人波が、一気に色を変える。
 僕もまくったワイシャツの袖を下ろして、紺色のベストを着た。秀ちゃんがベストを着ると、夏服から一気に大人っぽくなって、僕の背筋も伸びる。

「おはようございます」
 階下から聞こえてくる声は変わらない。僕は秀ちゃんが言うところの、多い荷物を持って階段を下りる。

「お待たせ」
「うん、行こう」
 母さんが後ろから手を振る。僕たちは並んで歩いたりしない。

「音寧、髪跳ねてるぞ」
「え? どの辺?」
 秀ちゃんが腕を伸ばして止まる。僕の頭の上を指で示す。
「この辺」
「あ、ありがとう」

 以前のように、秀ちゃんの手で髪を整えてくれることはなくなった。秀ちゃんの薬が変わってから、秀ちゃんのフェロモンが漏れ出ることはなくなった。

 それが”正しい”ことだ。
 でも少し、心が寂しい。秋のせいかもしれない。

 結局、僕は身勝手で、僕のフェロモンが放出して大変なことになるとしても、いつも見ているその背中に抱きついてみたかった。
 でもそれを彼は許さない。
 こうして毎朝、迎えに来てくれることが奇跡だ。

 ◇

「なんや、ロミオとジュリエットみたいなことになってるなぁ」 
 転入してきて、初めて袖を通した新しいベストを着て、肇くんはそう言った。

「ロミジュリって言うのはさ、結ばれることのないふたりの話でしょ? オトちゃんと榊原くんとは全然、違うでしょ?」
 三井さんが、僕たちの話に口を挟む。

「三井ちゃんはロマンティックっていうのが、どういうことなのかちーっともわからんのな」
「武井に言われたくないな。こっちは女子だよ?」
「じゃあ女子の想像力が、男Ωに負けたと思っとき。俺はオトちゃんと、話の続きがあるから割り込まんといて」

 肇くんは無情にもそう言った。

「そこまで言わなくても⋯⋯」
「三井ちゃんのことは置いといて、オトちゃんの話や。切ないやん、そんなの」

 僕は僕の心の中を見る。胸が、キシリと軋む。
「何も抱き合いたいゆうてるわけやない、ただ手、繋ぐだけやん」
 そう言って僕の手を握った。

「男同士で何やってんのよ」
「ええやん、羨ましいか?」
「バカ、オトちゃんならまだしも」

 僕と肇くんは目を見合せた。
 三井さんは顔を真っ赤にして「冗談、冗談だってば」と言ったことを否定した。

「⋯⋯みんな、榊原くんに遠慮してるんだよ。オトちゃんには婚約者がいるからって。女子でオトちゃんが好きって子、結構多い」
「ほぉ、三井ちゃんもか?」
「わたしは! わたしはオトちゃんのいい友だちでいたいよ」

 意外だった。
 僕は目を大きく見開いた。
 バースに振り回されてばかりで、自分が男だっていうことを、すっかり忘れていた。こんなことってあるんだ、と思った。

「その⋯⋯オトちゃんて中性的だし、見た目だけじゃなくてやさしいし。他の男子と違ってガサツじゃないし。嫌いになる要素ないじゃん」
「Ωなのに?」
「だって、男であることには変わりないでしょ?」

 ちょっとした、カルチャーショックだった。

 ◇

「そんなことってあるんだね」
 僕と肇くんは、病院行きのバス停で立ったまま、話をしていた。ベストを着た背中がじっとりしてきて、ワイシャツの袖をまくる。秋はほんの少し手を伸ばしてるだけで、いきなり日差しが弱まるわけじゃない。

「オトちゃんは自分の外見に興味ないん?」
 そんなこと、考える暇もなかった。秀ちゃんにとって相応しい僕であれば良かった。
 過度のオシャレは必要はなかった。

「訊いた俺がバカやったわ。榊原くんも難儀するわ。無自覚なんやもん」
「え?」
「男子にだって、オトちゃんファンがおるわ」

 その時、「音寧!」と呼ぶ声がして、振り返ると秀ちゃんだった。秀ちゃんは僕に向かって走ってきた。肩で息をしている。

「病院か?」と額に汗を浮かべて、彼は肇くんをチラッと見た。
「うん、薬をもらいに行くだけ。たまたま肇くんと予約日が被ったんだ」
「⋯⋯そうか、ひとりで行くより安全だな」と息を整えながら、秀ちゃんは言った。

「悪い虫がつかへんよう、よく見とるから」と肇くんが笑うと、秀ちゃんはおかしな顔をした。

「肇くんは冗談を言ってるんだよ」
「離れてる時は王子の圧も届かへんからな」 
 秀ちゃんが口を開こうとしたので僕が遮る。
「心配いらないよ」

「音寧、Ωっていうのは、βの男から見ても魅力的な存在だ。油断しないで注意しろ。ポケットの薬は?」
 僕はシートに入った黄色い錠剤を見せた。
 秀ちゃんは少し安心した顔を見せた。

「武井、音寧を頼むな」
「当たり前やん。心配いらへん」
「秀ちゃんは塾?」
「これからな。あ、遅刻する。気を付けて行けよ」

 手を振りながら、彼は行ってしまった。
「ラブラブやん。男前やな、いつ見ても。女子の告白が後を絶たないのがわかるわ」

 その噂は度々、僕の耳にも入ってきた。α女子だけじゃなく、βやΩの女子にも告白されるらしい。
 時々、廊下ですれ違う女の子にすごい目で見られる。敵意だ。

「オトちゃんも秀ちゃんも大変や。俺には考えられんな」
 肇くんはそう言うと笑った。

 ◇

 肇くんと一緒だと、待ち合いも楽しかった。同じΩ同士だからか、肇くんもやっぱりインドア派で、好きな本や音楽の話をした。
 意外と被るところが多くて、「back numberいいよね」と盛り上がった。

 肇くんは「今度、カラオケにでも行かへん?」と誘ってくれたけど、僕は「聴く方が好きだから」と丁重にお断りした。

 リノリウムの足元が冷たい。
 冷房のいらない季節まで、もう少しだ。

「そんじゃ、行ってくるわ」
 診察は肇くんが先だった。
 この時間も秀ちゃんは勉強してるのかと思うと、置いていかれないか心配になって、単語帳を出す。 英単語の小テストが明後日ある。

 肇くんは診察室からなかなか出てこなかった。日高先生のことだ、何か学校の面白い話でもしてるのかもしれない。

 眠気が、背筋をうっとり撫でるように上ってくる。その手はいつしか秀ちゃんのものになり、前みたいに、僕の髪に触れる。やさしい手。
 子供の頃は同じくらいの大きさだったのに、とその大きな手に手を伸ばす⋯⋯。

「オトちゃん、オトちゃん、呼ばれてる」
「あ!」
 僕はいつの間にか眠ってしまったらしい。あたふた荷物を片付ける。

「気持ちよさそうに寝てたのになぁ」
「起こしてくれてありがとう」
 慌てて診察室に入る。

「どう? あの後は」
 先生はくるりと後ろにイスを回転させて、僕の顔を見た。
「大丈夫です。あの、榊原くんが気を付けてくれてるんで」
「彼も心配性だからね。薬が強くなって、多少の副作用もあるはずなのに、いつも君の心配ばかりだ」
 副作用? そんな話、聞いてない。

「君も顔に出るなぁ。安心して、少し眠気が出るくらいだ。車の運転なら支障が出るかもしれないけど、酷くても授業中にうとうとしちゃうくらいだよ」
 それは問題だ。秀ちゃんは常に完璧を求めている。

「それより今日は武井くんと来たんだって? 面白い子だろう?」
「いつも笑わせてくれて」
「仲良くしてあげてよ。転校してきて、心細いだろうから。君なら武井くんの気持ちに寄り添えると思うよ。静川くんはやさしいから」

 そんなことはない。親切にされたいから、親切にしてるだけだ。じゃないと、Ωは社会で平気で弾かれる。

「またいつもと違うことが起きそうだったら来てね。予約日、早めてもいいから」

 秀ちゃんの、大きくてやさしい指先がそっと僕に触れたのを思い出す。夢の中のことなのに、はっきり覚えてる。忘れなくてよかった。

「あ、今、榊原くんのこと、考えたでしょう? フェロモンの数値がふわっと上がったよ」
 頬が火照るのを感じる。
 涼しいはずなのに、身体の内側に熱がこもる。

「ほら、大事に至らないうちに帰りなさい。榊原くんの努力が台無しになる。危なくなったら、緊急の時の薬、飲むんだよ。持ってるね?」

 はい、とポケットの上から薬に触る。薬の銀色のシートの角が、指先にチクリとする。

「武井くんと帰りなさい。彼が君を笑わせて、榊原くんのことを忘れさせてくれるよ」
 確かにそうかもしれない。

 帰りはどんなゲームが好きか訊いてみよう。
「ありがとうございました」
「もしもヒートの兆候があったら来てね」

 僕のヒートは予想ではまだのはずだ。でも不安定なヒートはいつ来るかわからない。
 用心に用心を重ねるのは悪くない。
 いつヒートが来てもいいように、準備をしておかなきゃいけない。

 診察室の扉を閉めると、そこには難しい顔をした肇くんがいた。そんな顔を見たのは初めてだった。
 彼は僕に気が付くと、軽く手を振った。

「短かったなぁ」
「僕は何かある度にちょくちょく来てるから。肇くんは長かったね」
「オトちゃんみたいに優等生やないしね。それに病院移ってから日が浅いし」

 学校が変わると病院も変わる。肇くんにも大変なことがあるんだな、と思う。誰にでも問題のひとつやふたつ、あるんだ。僕だけじゃなくて。

「ほな、行こか。会計と処方箋」
「うん、待つかな?」
「どうやろ? 夕方やし」
 僕たちは並んで、廊下を歩いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

僕の追憶と運命の人-【消えない思い】スピンオフ

樹木緑
BL
【消えない思い】スピンオフ ーオメガバース ーあの日の記憶がいつまでも僕を追いかけるー 消えない思いをまだ読んでおられない方は 、 続きではありませんが、消えない思いから読むことをお勧めします。 消えない思いで何時も番の居るΩに恋をしていた矢野浩二が 高校の後輩に初めての本気の恋をしてその恋に破れ、 それでもあきらめきれない中で、 自分の運命の番を探し求めるお話。 消えない思いに比べると、 更新はゆっくりになると思いますが、 またまた宜しくお願い致します。

【完結】Ωになりたくない僕には運命なんて必要ない!

なつか
BL
≪登場人物≫ 七海 千歳(ななみ ちとせ):高校三年生。二次性、未確定。新聞部所属。 佐久間 累(さくま るい):高校一年生。二次性、α。バスケットボール部所属。 田辺 湊(たなべ みなと):千歳の同級生。二次性、α。新聞部所属。 ≪あらすじ≫ α、β、Ωという二次性が存在する世界。通常10歳で確定する二次性が、千歳は高校三年生になった今でも未確定のまま。 そのことを隠してβとして高校生活を送っていた千歳の前に現れたαの累。彼は千歳の運命の番だった。 運命の番である累がそばにいると、千歳はΩになってしまうかもしれない。だから、近づかないようにしようと思ってるのに、そんな千歳にかまうことなく累はぐいぐいと迫ってくる。しかも、βだと思っていた友人の湊も実はαだったことが判明。 二人にのαに挟まれ、果たして千歳はβとして生きていくことができるのか。

【完結】番になれなくても

加賀ユカリ
BL
アルファに溺愛されるベータの話。 新木貴斗と天橋和樹は中学時代からの友人である。高校生となりアルファである貴斗とベータである和樹は、それぞれ別のクラスになったが、交流は続いていた。 和樹はこれまで貴斗から何度も告白されてきたが、その度に「自分はふさわしくない」と断ってきた。それでも貴斗からのアプローチは止まらなかった。 和樹が自分の気持ちに向き合おうとした時、二人の前に貴斗の運命の番が現れた── 新木貴斗(あらき たかと):アルファ。高校2年 天橋和樹(あまはし かずき):ベータ。高校2年 ・オメガバースの独自設定があります ・ビッチング(ベータ→オメガ)はありません ・最終話まで執筆済みです(全12話) ・19時更新 ※なろう、カクヨムにも掲載しています。

僕の番

結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが―― ※他サイトにも掲載

流れる星、どうかお願い

ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる) オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年 高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼 そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ ”要が幸せになりますように” オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ 王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに! 一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが お付き合いください!

僕の目があなたを遠ざけてしまった

紫野楓
BL
 受験に失敗して「一番バカの一高校」に入学した佐藤二葉。  人と目が合わせられず、元来病弱で体調は気持ちに振り回されがち。自分に後ろめたさを感じていて、人付き合いを避けるために前髪で目を覆って過ごしていた。医者になるのが夢で、熱心に勉強しているせいで周囲から「ガリ勉メデューサ」とからかわれ、いじめられている。  しかし、別クラスの同級生の北見耀士に「勉強を教えてほしい」と懇願される。彼は高校球児で、期末考査の成績次第で部活動停止になるという。  二葉は耀士の甲子園に行きたいという熱い夢を知って……? ______ BOOTHにて同人誌を頒布しています。(下記) https://shinokaede.booth.pm/items/7444815 その後の短編を収録しています。

恋は、美味しい湯気の先。

林崎さこ
BL
”……不思議だな。初めて食べたはずなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう” 外資系ホテルチェーンの日本支社長×飲食店店主。BL。 過去の傷を心に秘め、さびれた町の片隅で小さな飲食店を切り盛りしている悠人。ある冬の夜、完璧な容姿と昏い瞳を併せ持つ男が店に現れるが……。 孤独な2人が出会い、やがて恋に落ちてゆく物語。毎日更新予定。 ※視点・人称変更があります。ご注意ください。  受(一人称)、攻(三人称)と交互に進みます。 ※小説投稿サイト『エブリスタ』様に投稿していたもの(現在は非公開)を一部加筆修正して再投稿しています。

君と過ごした最後の一年、どの季節でも君の傍にいた

七瀬京
BL
廃校が決まった田舎の高校。 「うん。思いついたんだ。写真を撮って、アルバムを作ろう。消えちゃう校舎の思い出のアルバム作り!!」 悠真の提案で、廃校になる校舎のアルバムを作ることになった。 悠真の指名で、写真担当になった僕、成瀬陽翔。 カメラを構える僕の横で、彼は笑いながらペンを走らせる。 ページが増えるたび、距離も少しずつ近くなる。 僕の恋心を隠したまま――。 君とめくる、最後のページ。 それは、僕たちだけの一年間の物語。

処理中です...