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ご飯を食べる。
片付けをして洗濯をそれぞれする。
そうして音楽室に行って、湖西より先に着いた日は息をひそめて窓の外を見た。またホームが光るのを、子供が流れ星を待つような気持ちでずっと待っている。
時々、こちらからも鏡をかざして。
急ぎ足で彼がやって来る音がして、ポケットに鏡を隠す。なんとなくバツが悪い。慌てて立ち上がる。
「遅くなってごめん。まだ弾いてなかったんだ? 『エリーゼ』見ようか?」
お願いします、と言ってそそくさとイスに座る。足でペダルの位置を確かめる。いつも通り緩いペダル。
彼が横についたのを見計らって楽譜を開いて鍵盤に手を置く。有名な出だしのメロディー。
会ったことのないエリーゼのことを考える。ベートーヴェンと彼女が恋人同士にならなかったのなら、エリーゼには他に恋人がいたんだろうか?
ほら、ここも三人。
ひとの心はままならない。ベートーヴェンは自分から身を引いたんだろうか?
「毎日少しずつ音が良くなってきてるね。勘を取り戻してきたところかな?」
曖昧に微笑む。そんなに一生懸命、練習したと言ったら嘘になる。娯楽が少ないんだ。ピアノか、図書室の本か。
「じゃあ僕も負けないように練習しようかな? とりあえず夜想曲二番かな」
こんな非常時なのに、やわらかくてやさしい旋律が紡ぎ出される。長い指の一本一本が繊細な音を作り出す。作り出された音色は、バラバラにならないよう、お互いに繋がりあってメロディーになる。
流れ去っていく旋律。
階段状に作られた音楽室の一段に腰をかけてそれを聞き流す。耳の中を音は流れていって、心まで届かない。心を揺らさない。
少し散歩くらいしよう、と無理に手を引かれて校庭に出る。
綾乃ではないけれど、この五月の日差しの中じゃ簡単に日焼けしてしまう。
けど湖西は男の子だから、そんなことは気づかない。綾乃以外、わたしの日焼けを心配するひとはいないのだからわたしもそのことは忘れる。
ふたりでトラックを歩きながら三周する。歩きながら、共通の話題はピアノのことくらいしか見つからなくて戸惑う。
「名璃子ちゃんのご両親はどんなひと?」
「わたしの両親? あー、どこも同じだよ。共働きでいつも夜遅いの。だから自然と料理は覚えたし、夜ひとりでいるのにも慣れてるの」
「女の子が夜ひとりか。危ないな」
「いまのところなにも起こってないよ」
わたしは苦笑した。
ママの帰りは遅い。パパから養育費なりなんなり月々もらってるらしいけど、それがママの意地なのか、仕事を辞めたり早く帰れる仕事に変わることはない。
そのことに気がついた時、わたしはひとりでも大丈夫な自分になろうと決心した。それが正しいやり方だと思った。
「湖西くんのとこは?」
「うちはほら、僕がこうだから当たらず触らずだよ。ピアノの月謝は払ってくれるけどね」
「そうなんだ」
普通に答えたつもりだった。でもその裏で、湖西の孤独を思った。
学校には行かない、友だちにも会わない、親は遠巻きに見ていて、話をまともにするのはピアノの先生だけ。
隠しているさみしさがどこかにあるはずなのに、彼はそれをわたしに見せない。
ここにはふたりだけで彼だって心細いに違いないのに、それを見せない。
男の子は強いのかもしれない。体だけじゃなく、さみしさにも。
それからは毎日がふたりで同じことの繰り返し。
音楽室で光が差すのを待ったし、エリーゼは少しづつだけど前進したし、湖西はたまにドビュッシーを練習してわたしを喜ばせようとした。
たぶん、そうしたのはわたしの笑顔が日増しにぎこちなくなっていったからだ。笑おうとしても上手く笑えない。
――やっぱり置いていかれたのかな?
ふたりは向こうに着いたあと、ふたりだけで暮らせる安心できる場所を見つけたのかもしれない。どんな場所なのか、見当もつかないけれど。
それとも救出されたんだろうか?
赤いボートは水上に映える色だった。
でも、救出されたなら、どうしてわたしたちのところには来ないの?
……やめよう、小さなことを考えすぎるのは。
なにもかもが動きを止めたようなこの世界の中で、時計だけが規則正しく動いている。この世界を動かしているのは、ひょっとしたらこの時計なのかもしれない。
――困るわ、電話なんて。もうあなたと話すべきことは全部話したはずよ。
ママの声が少し刺々しい。相手は……パパかもしれない。
月に一度、パパに会うように言われていた。パパのくれるものはもうぬいぐるみじゃなく、バッグやアクセサリーになった。わたしは気をつかってそれらをどれかひとつは身につけてパパに会った。
ママは年相応に美しいひとだ。
さっさと離婚をして再婚をすればいいとわたしは思っている。その時はわたしがパパのところに居候してもいい。頭を下げて、行ったことのないマンションに住んでもいい。
それでもふたりは離婚をしない。
――そう。……それはあなたの話でしょう? わたしには関係ないわ。だっていまさらでしょう? 今まで通りに。そうして?
電話を切ったママの横顔は疲れていた。わたしは何気ない顔をしてコーヒーを入れる。今日は学校でね――。
――ごめんね、名璃子。ママ、疲れちゃったみたい。
そう、大人にだってそんな日はある。
繰り返し、繰り返し。
『エリーゼのために』はずいぶん進んだ。毎日一定時間、練習するのだから、一定のレベルは上達する。先生の教え方も上手いから尚更だ。
五月晴れ。
あの日以来、雨は降らない。
汗が額からこぼれ落ちる。それが目に入ると滲みる。
繰り返し、何日を過ごしたのか数えるのはもうやめた。帰ってこないひとたちを思い出すから。
彼らはわたしを思い出さないのだろうか?
出ていく時に、ふたりはなにか言っていかなかったんだろうか? 例えば何日か戻らない予定だ、とか、そんなこと。
もしかしたら戻らないと言い置いて行って、湖西には口止めをしたのかもしれない。
目に浮かぶ。
佳祐が湖西にこう言う。
「名璃子は大切な幼なじみなんだ。よろしく頼む」
綾乃が悲痛な面持ちで言葉を口にする。
「名璃子をよろしくね。ごめんねって伝えておいて」
そう言ってオールで水底に力をかけて推進力をつける。ボートは放たれたボールのように岸辺から遠ざかる。
つまり、遠くに行って見えなくなるということだ。
バカバカしい。
子供のように「置いていかれた」という幻想に囚われるのはやめよう。そんなことをしたって朝は来てしまうのだから。
片付けをして洗濯をそれぞれする。
そうして音楽室に行って、湖西より先に着いた日は息をひそめて窓の外を見た。またホームが光るのを、子供が流れ星を待つような気持ちでずっと待っている。
時々、こちらからも鏡をかざして。
急ぎ足で彼がやって来る音がして、ポケットに鏡を隠す。なんとなくバツが悪い。慌てて立ち上がる。
「遅くなってごめん。まだ弾いてなかったんだ? 『エリーゼ』見ようか?」
お願いします、と言ってそそくさとイスに座る。足でペダルの位置を確かめる。いつも通り緩いペダル。
彼が横についたのを見計らって楽譜を開いて鍵盤に手を置く。有名な出だしのメロディー。
会ったことのないエリーゼのことを考える。ベートーヴェンと彼女が恋人同士にならなかったのなら、エリーゼには他に恋人がいたんだろうか?
ほら、ここも三人。
ひとの心はままならない。ベートーヴェンは自分から身を引いたんだろうか?
「毎日少しずつ音が良くなってきてるね。勘を取り戻してきたところかな?」
曖昧に微笑む。そんなに一生懸命、練習したと言ったら嘘になる。娯楽が少ないんだ。ピアノか、図書室の本か。
「じゃあ僕も負けないように練習しようかな? とりあえず夜想曲二番かな」
こんな非常時なのに、やわらかくてやさしい旋律が紡ぎ出される。長い指の一本一本が繊細な音を作り出す。作り出された音色は、バラバラにならないよう、お互いに繋がりあってメロディーになる。
流れ去っていく旋律。
階段状に作られた音楽室の一段に腰をかけてそれを聞き流す。耳の中を音は流れていって、心まで届かない。心を揺らさない。
少し散歩くらいしよう、と無理に手を引かれて校庭に出る。
綾乃ではないけれど、この五月の日差しの中じゃ簡単に日焼けしてしまう。
けど湖西は男の子だから、そんなことは気づかない。綾乃以外、わたしの日焼けを心配するひとはいないのだからわたしもそのことは忘れる。
ふたりでトラックを歩きながら三周する。歩きながら、共通の話題はピアノのことくらいしか見つからなくて戸惑う。
「名璃子ちゃんのご両親はどんなひと?」
「わたしの両親? あー、どこも同じだよ。共働きでいつも夜遅いの。だから自然と料理は覚えたし、夜ひとりでいるのにも慣れてるの」
「女の子が夜ひとりか。危ないな」
「いまのところなにも起こってないよ」
わたしは苦笑した。
ママの帰りは遅い。パパから養育費なりなんなり月々もらってるらしいけど、それがママの意地なのか、仕事を辞めたり早く帰れる仕事に変わることはない。
そのことに気がついた時、わたしはひとりでも大丈夫な自分になろうと決心した。それが正しいやり方だと思った。
「湖西くんのとこは?」
「うちはほら、僕がこうだから当たらず触らずだよ。ピアノの月謝は払ってくれるけどね」
「そうなんだ」
普通に答えたつもりだった。でもその裏で、湖西の孤独を思った。
学校には行かない、友だちにも会わない、親は遠巻きに見ていて、話をまともにするのはピアノの先生だけ。
隠しているさみしさがどこかにあるはずなのに、彼はそれをわたしに見せない。
ここにはふたりだけで彼だって心細いに違いないのに、それを見せない。
男の子は強いのかもしれない。体だけじゃなく、さみしさにも。
それからは毎日がふたりで同じことの繰り返し。
音楽室で光が差すのを待ったし、エリーゼは少しづつだけど前進したし、湖西はたまにドビュッシーを練習してわたしを喜ばせようとした。
たぶん、そうしたのはわたしの笑顔が日増しにぎこちなくなっていったからだ。笑おうとしても上手く笑えない。
――やっぱり置いていかれたのかな?
ふたりは向こうに着いたあと、ふたりだけで暮らせる安心できる場所を見つけたのかもしれない。どんな場所なのか、見当もつかないけれど。
それとも救出されたんだろうか?
赤いボートは水上に映える色だった。
でも、救出されたなら、どうしてわたしたちのところには来ないの?
……やめよう、小さなことを考えすぎるのは。
なにもかもが動きを止めたようなこの世界の中で、時計だけが規則正しく動いている。この世界を動かしているのは、ひょっとしたらこの時計なのかもしれない。
――困るわ、電話なんて。もうあなたと話すべきことは全部話したはずよ。
ママの声が少し刺々しい。相手は……パパかもしれない。
月に一度、パパに会うように言われていた。パパのくれるものはもうぬいぐるみじゃなく、バッグやアクセサリーになった。わたしは気をつかってそれらをどれかひとつは身につけてパパに会った。
ママは年相応に美しいひとだ。
さっさと離婚をして再婚をすればいいとわたしは思っている。その時はわたしがパパのところに居候してもいい。頭を下げて、行ったことのないマンションに住んでもいい。
それでもふたりは離婚をしない。
――そう。……それはあなたの話でしょう? わたしには関係ないわ。だっていまさらでしょう? 今まで通りに。そうして?
電話を切ったママの横顔は疲れていた。わたしは何気ない顔をしてコーヒーを入れる。今日は学校でね――。
――ごめんね、名璃子。ママ、疲れちゃったみたい。
そう、大人にだってそんな日はある。
繰り返し、繰り返し。
『エリーゼのために』はずいぶん進んだ。毎日一定時間、練習するのだから、一定のレベルは上達する。先生の教え方も上手いから尚更だ。
五月晴れ。
あの日以来、雨は降らない。
汗が額からこぼれ落ちる。それが目に入ると滲みる。
繰り返し、何日を過ごしたのか数えるのはもうやめた。帰ってこないひとたちを思い出すから。
彼らはわたしを思い出さないのだろうか?
出ていく時に、ふたりはなにか言っていかなかったんだろうか? 例えば何日か戻らない予定だ、とか、そんなこと。
もしかしたら戻らないと言い置いて行って、湖西には口止めをしたのかもしれない。
目に浮かぶ。
佳祐が湖西にこう言う。
「名璃子は大切な幼なじみなんだ。よろしく頼む」
綾乃が悲痛な面持ちで言葉を口にする。
「名璃子をよろしくね。ごめんねって伝えておいて」
そう言ってオールで水底に力をかけて推進力をつける。ボートは放たれたボールのように岸辺から遠ざかる。
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