すべて、青

月波結

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 よく晴れた青空には白い雲がぼんやり漂っている。
 音楽室から見下ろす今日の水の色はウルトラマリン。天気の良さがよくわかる色だ。これなら洗濯物もよく乾くはず。
 いつふたりが帰ってきてもいいように、保健室の真っ白いリネンは洗濯して、毛布はみんな干した。悪戯な風が吹いて飛ばされなければいいんだけど。

 昨日、佳祐たちからと思われる光の信号が確認できた。信号は光が水を反射するように音楽室にきらめいた。わたしと湖西はそれを待って音楽室に一日中いた。
 なにしろわたしたちにはピアノがある。
 ピアノのレッスンをしていればいくらでも時は進んだ。
 信号が届いたということはふたりは無事だということだろう。それはとてもうれしいことだったし、同時になぜかわたしを少しさみしくさせた。
 キラキラと光は踊るように反射して、わたしたちも同様に光を返した。

 すぐに帰ってくると思っていたふたりは帰ってこなかった。
 夕飯を食べてから、暗闇が学校の内側を満たすまで、わたしの心は彼らを待っていた。
 湖西は「一晩ゆっくりしてくるんだよ、きっと」と言ったけれど、それは心の安定にはなんの役にも立たなかった。
 長い、長い眠れぬ夜を過ごした。生き物のいない、目に見える限りのこの世界には孤独しかなかった。聞こえるのは波音だけだ。

 今日もわたしは空いた時間にピアノを弾く。
 いつも通りに。
 そしていつも通り指が回らない。ダメだ。
『エリーゼのために』の同じところをぐるぐる練習する。
「名璃子ちゃん、良くなったんじゃない?」
 とりあえず今日からいつまでか、わたしはこのひとに預けられた。たぶん、そういうことなんだと思う。
 佳祐が助けに来られない時、代わりに守ってくれるのが湖西で、そしてもういない佳祐はなんの当てにもならなかった。

「隣、いい?」
 座る場所をずらす。
 明るい旋律が流れるように楽しく流れ出す。湖西が弾くと音に色がつく。まるで魔法みたいに。呪文がすらすら唱えられたみたいに。
「今日は調子がいいな」
 彼はわたしが繰り返し間違えていたところを難なく弾いて、指のストレッチをした。
「タッタターン タータタータの下り、ここはそんなに力まずに流しちゃって大丈夫だよ。いまはCDは聞かせてあげられないけど、もったいぶって最初の三音を弾く人もいるし、通り過ぎるように流す人もいるんだ。弾く人の解釈次第なんだよ」
 どちらもわたしには難しいような気がしてきた。何しろ三音を押さえるのに一苦労だから。
 ピアノの下で膝に乗せた指を絡ませる。
 その指をじっと見る。

「よかったらなにか弾こうか? リクエストある?」
「レパートリーがわからないよ」
「あ、そうだね。じゃあショパンを。ショパンはすき?」
「弾けないけどすき」
 じゃあ、と言って湖西が弾き始めたのは有名な夜想曲《ノクターン》の二番だった。
 ロマンティックで繊細なメロディー。ため息が漏れそうにやさしい音の連なり。
 湖西は有名ピアニストではないけれど、この状況でこんなに素敵な曲を聴けるのは『しあわせ』だと思った。
 優美なトリルが鳴ったあと、静かに曲は終わっていく……。

 拍手をするのがもったいない音の余韻。
 わたしは湖西の指から目を上げて顔を見た。
 彼はわたしより前にわたしの顔を見ていて「どうだった?」と照れくさそうに聞いた。
 この気持ちを言葉にするのは難しくてもどかしくて、ただ一言、「素敵」と答えた。
 それでも恐らくわたしの心が十分に揺さぶられた感じは彼に伝わったんじゃないか。
 彼はまた指のストレッチをした。

「おかしな話だと思うだろうけど、今年の発表会はこの曲を弾こうと思って練習してたんだ。学校にも来てなかったのに。この曲か、夜想曲《ノクターン》一番。一番の方が陰鬱でメロディアスなところが好きなんだけど、ウケは二番の方が絶対的にいいでしょう?」
「一番は聴いたことないな」
「今度弾いてあげる。少し練習しないと」
 
 わたしたちふたりの仲は決して険悪ではなかった。暖かい親密な空気が間に満ちていた。
 いろいろな困難をともに乗り越えてきたことが、思っている以上にわたしたちの仲を近づけたのは間違いなかった。

 うやむやになっていた『SOS』を屋上に、机を並べて作った。もしも空からの捜索があるなら、これを目印にしてわたしたちを救ってくれるだろう。
 そう思って空を見上げると、太陽の欠片が瞳に刺さった。一瞬、なにも見えなくなる。
 わたしが見たいのは鏡の反射などではなかった。
 ふたりが無事に戻ってくる姿、その笑顔が見たかった。手を大きく振って帰ってくるのはいつになるんだろう?
 それを思うと胸は切なくなった。
 今日は信号もなかった。

「名璃子ちゃん、この前、渡辺さんが言ってた『栽培』、やってみない? 詳しくはないけど、ハツカダイコンは収穫まで短いらしいし、小松菜は真夏と真冬を避ければいつでも撒けるって。いろんなレタスの種を混ぜて撒いても面白そうだよ。――図書室でちょっと読んでみたんだ」
 そう言って毛布を肩からかけた彼は弱々しく笑った。
「渡辺さんも帰ってきてそれを見たら喜ぶと思うよ」
「そうかもね」
「……ちゃんと帰ってくるよ。ふたりは僕たちを置き去りにするようなひとだと思う?」
 わたしは彼の顔を仄かな明かり越しにぼーっと見ていた。
 佳祐と綾乃が帰ってこない理由なんていくらでもあるように思えた。なにより、ふたりはふたりきりでいることを選んだのかもしれない。光を送ってきたあと、ふたりで旅立ったのかもしれない。

「無理……」
「名璃子ちゃん」
 あの日と同じように毛布を巻いて隣に座っていた湖西は、わたしの顔を覗きこんだ。
なんて無理だよ。ずっと一緒だったの、小さい時から。なのにこんな形で離れていっちゃうなんて」
 湖西以外、誰も聞いている人がいないことをいいことに、わたしは大きな声でそれを言った。
「ずっと――楽しい時も、悲しい時も一緒だったんだよ。どうしてわたしだけ一緒にいたらいけないの?」
 ああ、このひとの前で泣いてばかりいる気がする。まだ知り合って間もないのに。
「僕が一緒にいるよ。約束する、どこにも行かない。楽しい時も、悲しい時も」
「確かにここにはいまわたしたちしかいないけど、でもそれって早すぎない? 知り合ってから何日も経ってないよ?」
「名璃子ちゃんが僕を知ってくれただけでいいんだよ。正直に言うと、僕が君と一緒にいたかったんだ。ふたりきりで」

 頭の中の情報整理が追いつかない。
 このひとは一体なにを言ってるの?
 なにが言いたいの?
 わたしの、なにを知ってるの?
「酷な言い方かもしれないけど、ここにいないひとのことをいつまでも考えたって仕方ないと思うんだよ、僕は。元々ここには僕たちだけだった。戻ったんだよ。それに僕たちの間にはピアノがある。ふたりで一緒にいよう。帰ってこないひとは当てにしないで」
 湖西の目には妙な説得力があって、わたしは彼の翳のある瞳に吸い込まれそうになる。

 佳祐と綾乃を忘れる?
 それはわたしにとって、これまでの人生の半分を無しにするってことだ。そんなこと簡単にできるわけがない。
「湖西くんにはわからないよ。わたしたち三人のこと」
 言ってから、思った。
『三』はやっぱりバランスの悪い数なんだ。『二』と『一』に分かれたいまの方が自然なんじゃないかと。
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