25日の恋人

月波結

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Day 4|夏の匂い

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 昨日、帰ってからお風呂に入ると、もうシャボンのコロンの香りはしなかった。
 あの人が肩が触れそうなほど近くを歩いてた、その数時間の間にそれは消えてしまったんだろう。胃の中の、重いスフレが消化されていくように。

 ◇

『おはよう』

 スマホの着信で目が覚めた。
 誰だ? それは太陽からのメッセージだった。

『朝からどうしたの?』
『どうしてるかなと思って』
『寝てました』

 既読から返信が届くまでに、少し間ができる。
 朝寝坊なわたしに呆れてるのかもしれない。

『俺に会えなくて暇じゃない?』
『太陽こそ』
『暇だけど、ガキ共がうるせーもん。のんびりできない』

 意外に子供が好きなのかもしれないと思うと、ふふっと笑みがこぼれる。意外な一面だ。

『電話で話したいけど、夜電話してもいい?』

 ドキッとする。
 今日も夕方から会う約束をしてる。
 時間が重ならないといいなと思う。⋯⋯わたしは、いけないことをしてる。
 もっと自覚すべきだ。

 ◇

「こんな時間から出かけるの?」
「だって日中は暑いんだもん」
「まぁ、そうか。あんまり遅くならないようにね」
「夕飯は食べてくるかも。連絡するね」

 化粧をしながら、ママと話をする。
 ママだって気付いてるだろうに、「彼氏と?」とは訊かない。訊かれても困るけど。
 まさか二人も彼氏がいるなんて、とても言えない。

 小鳥の尾羽根は今日も健全で、迷ったけどコロンも着ける。UVカットジェルをしっかり塗る。
 日傘は⋯⋯さすがに置いていく。夕方からの外出に、さすがに必要ないだろう。

 彼の、華奢な日傘を持ってくれる手が好きで、ちょっと躊躇う。綺麗な手を思い出す。
 あの指先に、今日も触れる。

 ◇

 学校の近くに市立の大きな図書館があって、夏の間は開館時間が長い。
 夕方7時までの開館時間に間に合うよう、6時に待ち合わせした。
 駅から図書館まで、細くて長い急な坂を歩く。
 自転車に乗った人とすれ違う。細い風が吹く。
 もう6時なのに、真昼みたいに明るい。

「ごめんね、駅まで迎えに行けばよかったよ。気が利かなかった。あの細い道、ひとりで歩くの怖くなかった?」

 そんなに心配しなくてもいいのに、と苦笑する。
 大切に思ってくれてるんだな、と安心する。
 もう、わたしはこの人の腕の中にいる。まだ抱きしめられたことはないけど。
 安心感で、顔を見ただけで胸がいっぱいになる。

「とりあえず、図書館に入ろうよ。少しは涼しいんじゃないかな?」
「そうだね、とりあえず入ろうか」

 彼の方もホッとした顔をした。
 緊張してるのは実は彼も一緒で、持て余す気持ちは、彼から伝染したのかもしれない。
 樽の中で熟するワインのように、心におりが沈んでいく。静かに、微細な泡を立てて。

 こういう想いの増し方はすごく良くない気がして、繋いだ手を固く握る。
「どうしたの?」という顔をして、彼がこっちを向いた。

「ああ、大学の近くはまずかったかな? 知り合いに会いそうで怖い?」

 そんなことはちっとも思い浮かばなかったので、驚きが顔に出てしまう。
 そうだ、確かにそうだ。
 友達に会ってしまったら、なんて言おう。
 繋いだ手の言い訳は、できない。

「えっと⋯⋯ここでは手を離さない? そしたら、偶然会ったことにできるから」

 優しい目尻がほんのちょっと下がるのを、見逃せなかった。
 わたしたちは”25日間だけの恋人”だ。”恋人”である以上、手を繋ぐ権利は彼にあるはずだ。

 でもひとつだけ、約束がある。
 この契約は誰にも言わないこと――。
 言えないし、言わない。期限が来れば終わっていくものだ。
 彼だって、それはよくわかってる。

 ギュッと、痛いくらい手を握られて「きゃっ!」と振りほどく。
「冗談だよ」と寂しそうな目をして、彼は図書館の中に消えていった。

 てっきり同じテーブルで本を読むつもりだと思っていた、わたしは焦った。
 彼は高い書架の間に消えた。
 いくつかの谷間を探してみたけど、どこにもその影は見当たらない。

 あとできっと探しに来てくれると信じて、階段近くの席で、本を読む。

 読んでいたのは『ノルウェイの森』だった。深くて悲しいその小説を読んだのは、数年ぶりだった。
 あの頃は、心が冷たく凍ってしまいそうなその小説を、もう一度開くことはないと思っていた。

 どうしてだろう、もう一度開くつもりになったのは。
 主人公と同じような恋の苦しみを、味わいたくなったのかもしれない。
 その自分の心境の変化に戸惑う。
 わたしが好きなのは、太陽なのにな、と思う。

 太陽は、名前の通り明るくて、目が眩みそうになる。毎日、空から降り注ぐ真夏の日差しのように、わたしをジリジリ焦がしてしまいそうだ。

 そんな彼に「付き合ってほしい」と言われたのは、丁度これくらいの時間で、季節は春で、桜が散ったあとのキャンパスには蒸れた緑の匂いがした。
 男の子に告白されたのは、初めてだった。
 それまで”見つめる専門”だったわたしは、初めての彼を手にした。

 テーブルの端を、トントンと指で叩く音がして顔を上げると、そこには遥夏くんがいた。反射的に、俯く。
 屈んだ彼のTシャツの襟元に、細い鎖骨が見えた。

「閉館するよ。ずっと読んでたの? 古い小説だね」
「うん、久しぶりに」
「閉館に気が付かないほど、没頭してたんだ?」

 小説の中のふたりが、まだしあわせでいるところを読んでいた。そこから太陽のことを思わず考え始めて、読んでしまったページは右側に、まだ厚みはなかった。
 まるで彼らのしあわせが長く続かなかったかのように。

「閉館の音楽鳴ってたんだね、ほんとだ、気付かなかった。早く出よう」
「⋯⋯怒ってる?」
「どうして?」
「さっきから、目を見てくれないから」

 太陽のことをずっと考えてたなんてことは、絶対に言えない。
 わたしは前髪に手をやって直すふりをしながら「怒ってないよ」と言った。

 貸し出しの処理をしてもらって、建物を出る。
『ノルウェイの森』はそのまま持ち帰ることになった。

「ごめんね、ひとりにして」
「あー、最初はビックリしたけど。なんて言うか、そういうのは先に言ってくれる人かと思ってた」
「本屋とか図書館てダメなんだ。うち、親があんまり本を好きじゃなくて、子供の頃からたくさんの本に憧れてたからさ」

 サンダルの先を見ながら、へぇ、と相槌を打つ。へぇ、はないんじゃないか、と思ったけど、やり直しはきかない。
 顔を上げて聞く姿勢に入る。

「あ、ごめん! つまんない話した!」
「そんなことないよ、遥夏くんのこと、もっと知りたいよ。だってほら、全然知らない、し⋯⋯」

 声が段々小さくなる。
 俯きがちになったところを、おでこがコツンと音を立てる。優しい音だ。
 彼の額が、わたしのそれに当たった。
 ――キスしてしまう。目がチカチカした。

「聞いても楽しい話じゃないよ。僕の両親は一言でいうと無学で、読書とか勉強に一切、興味のない人たちなんだ。ひとつ下の弟は、小さい頃から野球をやってて、親はその練習やら試合の応援やらに夢中だったな、週末になる度。だからさ、大学に入る時に家を出ちゃった。誰も止めなかったし」

 ああ、それで帰省の話も出ないのか。
 彼の寂しさは、街灯の明かりが作る彼の影の中に、ひっそり佇んで見えた。

「でもわたしがいるし。えっと、できるだけ、期間内はもれなく」
「無理しなくていいよ」と彼は弱々しく笑った。
「そんなわけで、寂しいのはひとより慣れてるんだ」

 そんなことになれる必要はないのに、と思うと急に足が止まって、彼の手を強く引いた。
 半ば、抱きしめるような形になる。
 8月の夕方7時過ぎは、まどろむ夢の入口のようにまだ明るさを隠しきれずにいた。

「寂しくないよ、ひとりにしないから」
「案外、母性本能強いタイプ?」
「かもしれないし、⋯⋯遥夏くん限定かもしれない」
「聞かなきゃ良かったね、つまらない話なんて」

 彼の胸は、汗ばんでしっとりしていた。
 夏の乾いた暑さの中で、心の場所だけが、湿度が高かった。
 埋めた顔を上げて、彼を見る。
 彼がまた、コツンと額をぶつける。

「痛いよ」
「良かった、夢じゃなかったみたいだ」

 そんな寂しいことを言わないでほしいな、と切なく思う。好きになっちゃうと困るんだ。
 わたしには、帰る胸があるから。

 図書館脇の公園のベンチに腰を下ろす。
 最近は珍しい噴水が、ささやかに水音を響かせる。
 夜の中に、わたしたちはいた。
 虫の音が、わたしたちを包む。

「暗くなっちゃったね。ご飯、食べに行く?」
「⋯⋯もう少し、このまま」
「蚊に刺されるかもよ?」
「もう! ムードないなぁ」

 ははっと声を立てて笑う、彼の横顔を見る。
 さっきまでの寂しさは影を潜めて、なんだか安心する。心の中がざわざわして、落ち着かなかったからだ。

「好きなの? 熱心に読んでたけど、その本」
「ああ、遥夏くんが消えちゃったから、手軽に読める本を手に取ったつもりだったんだけどね、ハマっちゃったみたい」

 思ったより大きな声が出てしまって焦る。何を焦る必要があるのか、考える。
 夜の公園は、静けさだけが底辺を漂って、わたしたちはその中にじっと身を縮めていた。

「こっち向いて?」

 荷物を抱いたまま、上半身を捻って彼を見る。
 大事なものを真綿でくるむように、彼の腕がわたしを包んだ。

「さっき、してくれたでしょう?」
「うん⋯⋯」

 そうか、自分で蒔いた種だったのか、と気付いたのは遅かった。

「お願いだから、もっと寄りかかって。じゃないと折れるほどきつく抱きしめちゃうかもしれない」
「⋯⋯折れるほど、か弱くないよ?」
「黙って、虫の声でも聴いてて?」

 聴こえるのは心臓の音だけだった。
 ドクドク、強く脈打つのはどちらの心音なのかわからなかった。どんなに耳を澄ませても、聴き分けることができなかった。

 夏の、香り――。
 吹くはずのない風が、うなじを通り過ぎたような気がした。

 急に思い出して、彼を両手で退ける。
 彼は思い切り「あ」という顔をした。
 申し訳なさでいっぱいになる。でも、思い出してしまった。今夜、電話がかかって来ることを。

「ごめんね、用事を思い出したから、帰る。また明日」
「明日も会える? 送って行くよ」
「大丈夫、坂は下りるのは早いから。明日も会えるよ、さっき約束したじゃない」
「あとで連絡する」

 彼がそう言った時には、わたしはもう身を翻して駅への道を歩き出していた。
 おかしなことに、涙が出そうだった。
 まったく何のための涙なのか、思い付かなかった。
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