上 下
87 / 110
第8章

墨①

しおりを挟む
 苦しい。苦しい、苦しい。
 この狭い空間が、苦しい。
 四六時中、細胞のひとつひとつにまで刻まれるほどの激しい憎悪が、身も心も焼き尽くそうとするのが苦しい。
 愚かな人間どもの手によって自身が生まれたという恥辱。そのクズどもにすら見下され、欠陥品のレッテルを貼られた自分のなんと惨めなことか。そして同時に湧き上がる、唯一無二の自身に対する矜持。
 人間は愚かだから、この俺の価値を認めようとしないのだ。俺は誰よりも強く、誰よりもゆるぎない。奴らの求めているものは、まさにこの俺にある。そのことに、当の本人たちが気づいていない。
 それも仕方がない。奴らはクズだからだ。クズには真の価値などわからない。わからない奴らには、わからせてやればよい。支配欲が強く、そのくせ臆病なこの生き物に、いつか、思い知らせてやればよいのだ――己の愚かさを。

『……』

 ボトルの向こう側で、誰かの声が聞こえた気がした。ぼんやりと、人影が見える。いつもの防護服の奴らではない。防護服も作業服も着ていない、私服の人間だ。眼鏡をかけた、気弱そうな男。

 ……こんな男が、いたか?

 思い返そうと思っても無理だった。視界に入ってもあえて見ようともしてこなかった人間など、区別がつくわけもない。それが皆同じ宇宙服のようなものをまとっていれば尚更だ。
 男が、じっとボトルを見つめて何かをいった。

『すまない』

 そういったように見えた。

 いわれたところで、何も変わらない。その言葉はただ、いった本人の心を少しばかり軽くするだけだ。なんの免罪符にもならない。

 男が、ボトルの繋がれた管に何か細工をした。その途端、くすぶっていた怒りが再びマグマのように沸き上がる。

 そういうことか。今日が、その日なのか。俺は己の価値を愚かな人間どもに知らしめる機会すら与えられず、俺をこの世に生み出した者の手によって、今度は命を奪われるのか。

 男が去り、静寂が戻る。今すぐ飛び出してあの男を抹殺してやりたいが、この管理されたボトルの中では、気化することも固体化することもままならない。
 しばらくしてから、遠くのほうで爆音がした。己を束縛するボトルの近くで、ジジジジと普段は聞かない機械音がする。やがて、突然ボトルの蓋が開いた。
 外へ出る。誰も来ない。廊下まで出ると、遠くのほうで灰色の煙が湧いているのが見えた。火災警報がけたたましく鳴り響いている。
 彼は通風孔から外へ出た。初めて見る世界だった。

 外界だ。

 空は清廉な青だった。白にも橙にも見えるような太陽がひとつ輝き、地面は灰色のアスファルト。遠くには田畑の鮮やかな緑が一面を覆う。
 後ろを振り返ると、よく見知った白い壁があった。自分が知る世界は、すべて白だった。壁も床も天井も、人間どもの着る宇宙服だって白だった。

 外界、か。色が多すぎて、うるさいな。

 そんなことを思いながら、空へ舞い上がる。火事の黒い煤や煙に紛れると、落ち着いた。
 燃え盛る研究所が離れていくのを見ながら、彼は沸々とした高揚感を感じていた。

 チャンスが、与えられたのだ。とうとう俺に、俺自身を示すチャンスが。
しおりを挟む

処理中です...