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【第四部:神の記憶】第三章

記憶を失った理由

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「先生、フェランの具合はどうなんでしょうか」

 ヘッセ医師を宿の外まで見送りながら、エルシャが尋ねる。

「さっきいったとおりだよ。一時的なものだ。けがのほうは、あと五日間ぐらいは様子を見る必要があるから、その間はこの町を動かんほうがいいと思うね」
「記憶は、いつごろ戻りますか」
「早ければ三日ほどで戻るときもあるが、遅いと数か月ということもありうる。ただ……」

 医師は考え込むような顔つきになった。

「フェラン君の場合は、少し気になることがあってね。普通、記憶を失った者は不安がって早くすべて思い出したいというものだが、彼はあのままでもいいといっている。この精神状態が、ひょっとすると回復の妨げになるかもしれん」
「というと……?」
「私の知る限りでは、記憶を取り戻したいと願うほど回復は早く、反対に望まないほど回復は遅い。フェラン君は無意識のうちにだろうが記憶を取り戻すことに消極的になっている。おそらく……私の推測では、フェラン君は失った記憶の中に思い出したくないことがあるのではないかね」

 エルシャはしばらく考え込んだ。忍耐強く精神力のあるフェランのことだから、人知れずに我慢してきたことが数多くあったに違いない。しかし、それでも一番考えられる出来事はひとつしかなかった。十三年前の、母親の無残な死だ。

「……確かに、あったと思います」

 エルシャがそう答えると、ヘッセ医師は小さなため息をついた。

「彼にすべて思い出させることがいいのかどうか、私にはわからんがね。もし思い出させたいのなら、ひとつだけ忠告しよう。記憶をなくした今の彼には、あまりいい思い出を与えないことだ」
「どういうことですか?」
「記憶を取り戻すと、すべて忘れていたころの記憶が反対に消えてしまうことがある。今、忘れたくないような思い出を彼に作ると、それが無意識のうちに記憶を取り戻す妨げになるかもしれんからな」

 エルシャは眉をひそめて話を聞いていたが、やがてため息交じりにうなずいた。

「……わかりました、ありがとうございます」





「ところでさ、僕とエルシャは親友だったっていってたよね。どれくらいの付き合いなの?」

 その晩、ナイシェの手料理を囲みながら、絶えず話しているのはフェランだった。

「ちょうど十三年前だな。ずっと一緒に暮らしていたんだよ。表向きは、おまえは俺の従者ということになっていた。身寄りのないおまえを引き取るには、それしかなかったからな。旅に出たのは、今から半年ちょっと前だ」

 なくした記憶について尋ねるのはいい傾向なのかもしれないと思い、エルシャはなるべく詳しく答えた。フェランが五歳のとき記憶を失ってアルマニアの南の野原に倒れていたこと、神の命令によってサラマ・アンギュースを探す旅に出たこと、その途中で会った人々のことを話した――フェラン自身が予見の民シレノスであることだけ、伏せて。

「サラマ・アンギュースだって? また大変な仕事を引き受けたものだ。どうやって見つけるつもりなんだい?」
「おまえは嫌ではないのか? サラマ・アンギュースといえば、いい噂は聞かないだろう」
「噂? 神様の力を授かってる、ってことじゃなくて? ほかに何かあるの?」

 フェランはずっと宮殿で過ごしていたから、かけらの継承の仕方などの詳しい噂も記憶から抜け落ちたままのようだ。神の民への偏見がないことに安堵する一方、一抹の不安がよぎる。彼は、自分の母親の死に際も、そしてハルの母親の死にざまも、すべて忘れ去っているのだ。確かに、ずっと思い出さないままでいたほうがフェランにとっては幸せなのかもしれない。しかし、それは正しいことなのだろうか。過去を思い出したとき、彼は以前と同じように、神の民の真実を、母親の死を、受け入れられるのだろうか。

「ちょっとエルシャ、聞いてるの?」
 フェランの声で我に返る。
「ほら、ハーレルって男を探してるって話だよ。早く追いかけないと逃げちゃうよ?」

「あ……ああ、だが今はおまえの頭のほうが心配だからな。ヘッセ医師は、もう四、五日はここを動かないで様子を見たほうがいいといっていた」
「そんなに? ちょっとくらい外へ出たりするのは構わないよね」
「まあ、目の届くところならな。大して行くところもないと思うが」

 するとナイシェが提案した。

「なら、私、買い物に行くときとかフェランに付き合ってもらうわ。それなら安心でしょ?」

 エルシャはもちろんとうなずいた。
 その日の夜は、フェランが変調を訴えることもなく無事に過ぎた。フェランは一日の疲れからかすぐ眠ったが、残りの三人は不安や動揺でなかなか寝付けなかった。外見はまったくいつもどおりのフェランが、突然別人のようになってしまったのだ。それも、どうやら原因は母親の死にあるらしい。こればかりは、他人の手ではどうすることもできない。そんな懸念が、三人の心の片隅に根付いていた。
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