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【第五部:聖なる村】第八章
神の記憶
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寝ずの番が続いた。
ハーレルと同じ部屋に寝台が用意され、横たえられたエルシャは、まる三日間、意識のない状態が続いた。肌の色は人とは思えないほど生気のない白となり、顔も手足も別人のようにむくんだ。うなされることはなかったが、動くこともなかった。
毎日数回医師が訪れ、体を診たり点滴を変えたりしていくが、フェランたちには、そこに何かいい兆しがあるのかどうか、皆目わからなかった。
皆交代で看病をしたが、実際にできることは、何もなかった。ただ何もせずにいることができず、とにかく祈りながらエルシャの冷たい手を握るばかりだった。
これまでの旅の途中で、これほどの恐怖と虚無感を感じたことはなかった。本当は叫び出したいほどの恐怖に駆られながら、皆努めてそれを表に出すまいとしていた。
エルシャを、失うかもしれない。
そんなことは、考えたこともなかった。
エルシャがいなくなったら、この先いったいどうすればいいんだろう?
そう思うと、途端に底知れぬ恐ろしさと混乱が襲ってくる。誰ひとりとして、エルシャなしでこの旅を続けられる自信はなかった。
油断すると飲み込まれそうになる絶望の淵で、皆何とか踏みとどまりながら、ひたすらにエルシャの回復を待っていた。
変化が現れたのは四日目だった。いつものように温かく絞った布でエルシャの顔を拭きながら、ナイシェは思った。
「……少し、顔色がよくなったみたい……」
気のせいだろうか。しかし、あんなにむくんでいた指先も、今朝は少し細くなったように見える。
過度の期待は禁物だ。そう思いながらも、いつものようにやってきた医師が診察のあと笑顔を見せたときには、思わず涙が溢れそうになった。
「どうやら、あれだけの大出血を、この青年は乗り越えつつあるようだ」
「じゃあ、エルシャは助かるんですか!」
「そうだね……。不測の事態が起きなければ、あと数日のうちに意識が戻るだろう」
不測の事態。
喜びもつかの間、悪夢が蘇る。
ハーレルを狙った敵は、仕留め損なったと思って再び襲ってくるかもしれない。エルシャが瀕死の重傷を負ったことを知って、これを機に一掃しにくるかもしれない。とにかく、状況が厳しいことに変わりはないのだ。一瞬たりとも、気を抜いてはならない。
医師が帰ったあとも、五人はハーレルの部屋にとどまった。宿屋と比べると粗悪な環境だが、全員の身の安全のためには、今は皆が一緒にいることが重要だった。
部屋の戸口のほうで、ナイシェが膝の上にラミを乗せて物語を離して聞かせている。ディオネとルイがこん睡状態のハーレルの衣服を着替えさせてやり、フェランがエルシャの体を拭いているときだった。ぴくりとエルシャの指が動き、その顔が歪んだ。
「エルシャ!? 気がつきましたか!?」
フェランが動いた手を取り顔を覗き込む。その頬はこわばり、苦痛に耐えるかのように歯を食いしばっている。
「エルシャ! 目を開けてください、エルシャ!」
フェランの声には応えず、エルシャは呻き声を漏らしながら首を横に振った。
「う……うぅ……」
その額に大粒の汗が浮き始める。エルシャが次第に呼吸を荒げながら、言葉を発した。
「Mon Salama……Mon Salama……Qardi veaz fuem yjr iboa duaa……Aief ad yu yjr qaevi……!」
はっとしてフェランが顔を上げた。同時にナイシェとディオネも振り返り、互いに目を合わせる。
「ナリューン語だわ!」
ナイシェが叫んで駆け寄った。
「ナリューン語で、うわごとを……!」
ルイは状況が飲み込めずにいた。
「ナリューン語って、なんだい? 今のエルシャの言葉が、みんなにはわかるのか?」
ディオネが説明した。
「ナリューン語っていうのは、神の民が、かけらを埋めると同時に自然に覚える言葉よ。あたしたちが、エルシャをすくうために記憶のかけらを埋めたから……」
するとラミが恐る恐る近づいてきて、ナイシェの服の裾を掴んだ。
「……ママに、似てる……」
小さな声でいう。
「ママも、いってた……。ちょっと違うけど、似た言葉……。ママもよく、寝てるときに、苦しそうにいってたよ……」
徐々に声が震え出し、服を掴む手がきつくこわばる。
「エルシャも、同じなの……? ママみたいに……いなくなっちゃうの……?」
ナイシェは身をかがめてラミを抱きしめた。
「大丈夫。きっと大丈夫よ。エルシャはいなくならないわ」
ルイは、ただならぬ雰囲気に、もう一度尋ねた。
「彼は……何ていったんだい?」
ディオネは小さく息をついた。
「『神よ……悪しき魂を鎮めたまえ。我らを導きたまえ』……彼は今、神の記憶を見ているんだわ」
ハーレルと同じ部屋に寝台が用意され、横たえられたエルシャは、まる三日間、意識のない状態が続いた。肌の色は人とは思えないほど生気のない白となり、顔も手足も別人のようにむくんだ。うなされることはなかったが、動くこともなかった。
毎日数回医師が訪れ、体を診たり点滴を変えたりしていくが、フェランたちには、そこに何かいい兆しがあるのかどうか、皆目わからなかった。
皆交代で看病をしたが、実際にできることは、何もなかった。ただ何もせずにいることができず、とにかく祈りながらエルシャの冷たい手を握るばかりだった。
これまでの旅の途中で、これほどの恐怖と虚無感を感じたことはなかった。本当は叫び出したいほどの恐怖に駆られながら、皆努めてそれを表に出すまいとしていた。
エルシャを、失うかもしれない。
そんなことは、考えたこともなかった。
エルシャがいなくなったら、この先いったいどうすればいいんだろう?
そう思うと、途端に底知れぬ恐ろしさと混乱が襲ってくる。誰ひとりとして、エルシャなしでこの旅を続けられる自信はなかった。
油断すると飲み込まれそうになる絶望の淵で、皆何とか踏みとどまりながら、ひたすらにエルシャの回復を待っていた。
変化が現れたのは四日目だった。いつものように温かく絞った布でエルシャの顔を拭きながら、ナイシェは思った。
「……少し、顔色がよくなったみたい……」
気のせいだろうか。しかし、あんなにむくんでいた指先も、今朝は少し細くなったように見える。
過度の期待は禁物だ。そう思いながらも、いつものようにやってきた医師が診察のあと笑顔を見せたときには、思わず涙が溢れそうになった。
「どうやら、あれだけの大出血を、この青年は乗り越えつつあるようだ」
「じゃあ、エルシャは助かるんですか!」
「そうだね……。不測の事態が起きなければ、あと数日のうちに意識が戻るだろう」
不測の事態。
喜びもつかの間、悪夢が蘇る。
ハーレルを狙った敵は、仕留め損なったと思って再び襲ってくるかもしれない。エルシャが瀕死の重傷を負ったことを知って、これを機に一掃しにくるかもしれない。とにかく、状況が厳しいことに変わりはないのだ。一瞬たりとも、気を抜いてはならない。
医師が帰ったあとも、五人はハーレルの部屋にとどまった。宿屋と比べると粗悪な環境だが、全員の身の安全のためには、今は皆が一緒にいることが重要だった。
部屋の戸口のほうで、ナイシェが膝の上にラミを乗せて物語を離して聞かせている。ディオネとルイがこん睡状態のハーレルの衣服を着替えさせてやり、フェランがエルシャの体を拭いているときだった。ぴくりとエルシャの指が動き、その顔が歪んだ。
「エルシャ!? 気がつきましたか!?」
フェランが動いた手を取り顔を覗き込む。その頬はこわばり、苦痛に耐えるかのように歯を食いしばっている。
「エルシャ! 目を開けてください、エルシャ!」
フェランの声には応えず、エルシャは呻き声を漏らしながら首を横に振った。
「う……うぅ……」
その額に大粒の汗が浮き始める。エルシャが次第に呼吸を荒げながら、言葉を発した。
「Mon Salama……Mon Salama……Qardi veaz fuem yjr iboa duaa……Aief ad yu yjr qaevi……!」
はっとしてフェランが顔を上げた。同時にナイシェとディオネも振り返り、互いに目を合わせる。
「ナリューン語だわ!」
ナイシェが叫んで駆け寄った。
「ナリューン語で、うわごとを……!」
ルイは状況が飲み込めずにいた。
「ナリューン語って、なんだい? 今のエルシャの言葉が、みんなにはわかるのか?」
ディオネが説明した。
「ナリューン語っていうのは、神の民が、かけらを埋めると同時に自然に覚える言葉よ。あたしたちが、エルシャをすくうために記憶のかけらを埋めたから……」
するとラミが恐る恐る近づいてきて、ナイシェの服の裾を掴んだ。
「……ママに、似てる……」
小さな声でいう。
「ママも、いってた……。ちょっと違うけど、似た言葉……。ママもよく、寝てるときに、苦しそうにいってたよ……」
徐々に声が震え出し、服を掴む手がきつくこわばる。
「エルシャも、同じなの……? ママみたいに……いなくなっちゃうの……?」
ナイシェは身をかがめてラミを抱きしめた。
「大丈夫。きっと大丈夫よ。エルシャはいなくならないわ」
ルイは、ただならぬ雰囲気に、もう一度尋ねた。
「彼は……何ていったんだい?」
ディオネは小さく息をついた。
「『神よ……悪しき魂を鎮めたまえ。我らを導きたまえ』……彼は今、神の記憶を見ているんだわ」
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