31 / 56
第三章
恐れる者
しおりを挟む花のない春の花壇。青い朝日にまどろむ黒い土。
山本恵美は夢中で絵を描いた。閑散とした校庭に響き渡る笑い声の幻想。クレパスの花々がノートの白を埋め尽くしていく。
恵美は錯覚した。かつての寂しくも穏やかだった日々を。一人絵を描き続けた毎日を。
それは平穏であった。姉に勧められて入学した高校。理想と現実のギャップに苦しんだ学園生活。それでも、一人花壇に並ぶ花々の絵を描いている時間には確かな平穏があった。柔らかな滑り。溶けた蝋燭とも違う独特の香り。白い心を埋めていく色とりどりの景色。
美しく聡明な姉は恵美の唯一の自慢だった。理想であり憧れの存在。時には嫉妬した。疎ましいとさえ思うこともあった。だが、恵美は長い黒髪を靡かせる姉のことが大好きであった。
姉と共有する時間。平穏は無かったが、幻想はあった。姉のような人気者になれるという幻想。皆の中心で黄色い声を上げられるという幻想。
幻想であった。容姿や体型だけの問題ではない。何故だか恵美は幼い頃から異様に陰気で卑屈だった。生まれ持っての性格か、姉と過ごす日々の中で形成された人格か。恵美の胸の内には常に影があった。それが恵美を一人にした。
小鳥が花壇の土の上を歩く。青い雑草の影で何かを捉えたのか、小鳥は、清々しい春の空に飛び立っていった。
ノートに小鳥の絵を描き入れる恵美。七時のチャイムが鳴っても校庭は閑散としたままである。
絵を描きながら恵美は、いつの頃からか自分の容姿を嘲笑うようになった女生徒たちの顔を思い出した。そこに全身の骨が潰されて溶け出すかのようなかつての不快感はない。音のないモノクロの映画。ミミズを啄むスズメの茶色い羽。第三者の視点から眺める風景。
何故、彼女らは自分に興味を示すようになったのだろうか。
純粋な疑問であった。平穏な心に浮かぶ疑問は妄想に繋がる。
人気者の姉に嫉妬心を抱いた結果、その妹に嫌がらせをしてやろうという気を起こしたのだろうか。
嘲笑。冷笑。やがて物理的なものに変貌を遂げるイジメ。
恵美は自分を嘲笑う女生徒たちの顔を思い出して首を振った。
いや、単に面白かったからだろう。思春期の子供たちが日常に抱く憂愁。偶然、陰気な自分がその苦悩の捌け口として選ばれたという訳なのだ。
では、何故人気者だった姉までもがイジメの対象に選ばれたのか。
恵美はノートから視線を外すと遠い青空に浮かぶ白い雲を目で追った。
何故、姉がイジメられなければならなかったのか。
知的で可憐で活動的だった姉。慕われることこそあるとすれ、イジメの対象に選ばれる要素など何一つ持っていなかった筈の女生徒。
何故、彼女らは姉を嘲笑ったのか。あの誰からも慕われていた姉を……。
あれ、と首を傾げる恵美。鮮明な彼女の記憶に浮かぶ黒い影。
彼女らは、いったいどんな表情をしていたっけ……?
ノートの花々に視線を戻す恵美。ゆっくりと青いクレパスで空を描いていく。
自分をイジメる彼女らの表情は本当に楽しそうだった。弱者をいたぶる優越感と、人が本来備えている嗜虐性に打ち震えるかのような恍惚の表情。その大きく横に開かれた唇を、恵美は今でも鮮明に覚えている。
だが、姉をイジメていた女生徒たちの表情がどうしても思い出せない。確かに笑っていた筈の彼女たち。その声と顔の記憶だけが黒い影に塗り潰されたかのように、どうしても思い出せない。
屋上と同じだ……。
サッと全身の血が凍り付く恵美。パンドラの箱は遠くから眺めることすら許されない。慌ててクレパスを握り締めた恵美は夢中でノートの余白を埋めていった。
「ほぉ、上手いもんですな?」
優しげな男性の声。驚いて全身の弛んだ皮膚を震わせた恵美は、頬の脂肪を震わせながら後ろを振り向いた。
「そろそろ花でも植えましょうか、山本先生」
朝日を浴びるウルフカットのカツラ。臼田勝郎の痩せこけた頰。無精髭のない顎にかつての漲る生気はない。
恵美はギロリと目に力を込めるとノートを閉じた。フンッと息を吐いて立ち上がる恵美。数人の生徒が視線を下げて校庭を歩いている。
「結構です!」
恵美は校舎に向かって歩き出した。苦笑しながらその後に続く勝郎。俯く生徒たちに挨拶をして校舎に入った恵美の頭の中から過去の幻想が薄れていく。それでも、喉の奥を圧迫されるような違和感だけは消えなかった。
大葉藍香は紅いルージュを片手にため息をついた。同棲する家出少年が職場までついて行くと言って聞かないのである。
「もぉ、龍ちゃんはお留守番だってばぁ」
「あ、藍香さん、頼むって、今日だけでいいからさ」
背の高い少年の懇願。上半身裸の日野龍弥は不安げに辺りを見渡した。壁の薄いアパートの一室。脱ぎ捨てられた衣服と化粧品の匂い。
二十時を回っていた。風俗店で働く藍香の出勤は夜である。その為、帰宅時間は明け方近くとなった。
白いカーテンの向こうの黒い窓を見た龍弥は、この世のものでは無い何かを見てしまったかのように頬を激しく引き攣らせた。そんな少年を無視してビニールバックを手に取る藍香。
「じゃね、大人しくしてるんだゾ」
「ちょっと、藍香さん!」
パタンと閉じられる木製の扉。慌ててウォークマンの電源を入れる龍弥。イヤホンから一昔前のJpopが流れ始めると、シーツの無いベットに腰掛けた龍弥は頭から毛布を被った。
三ヶ月ほど前から、龍弥はジッと、このアパートの一室に身を潜めていた。まだ一年生の頃に不良仲間と訪れた風俗店。そこで知り合った藍香という女性ならば自分を養ってくれるかもしれないと、あの日、龍弥は火事の見物に来た群集の間を抜けて寒空の下を必死に走ったのだった。
藍香はテレビを見なかった。当然新聞などは読まず、画面にヒビの入った携帯の用途もLINEかゲームのみである。世間を賑わせた放火事件すらも知らない藍香は無意識に隠棲的生活を送っていた。親はいない。友達もいない。世間との繋がりが薄い藍香が求めるものは体の繋がりである。風俗店で働くのも、家出少年を養うのも、その為であった。
龍弥が使っているウォークマンは前に住まわせていた少年が置いていったものだという。毛布の下で肩を丸めた龍弥は名前も知らないその少年に感謝した。
ブンッという微かな音がした。続いて聞こえてくる誰かの話し声。龍弥は震える指先でウォークマンの音量を上げる。
ガタリと何かが落ちる音が龍弥の骨を震わせた。誰かが歩き回るような床の振動。毛布の隙間から白い足を見た龍弥は鋭い悲鳴と共に飛び上がった。慌てて辺りを見渡す龍弥。だが、部屋には誰もいない。
部屋の隅で点滅する光。恐る恐る顔を上げた龍弥はブラウン管のテレビに視線を送る。家出少年の中にはテレビを見たがる者もいると藍香が捨てないでいる黒い箱。埃を被った地デジチューナーが放つ緑色の光。
な、な、何で……。
確かにコンセントは抜いておいた筈である。それにも関わらず、ブラウン管テレビは光を放っていた。
画面に映る焼け焦げた黒い校舎。死亡した少年Mというテロップと共に主犯格の少年Hという文字が流れる。慌ててテレビのコンセントを引き抜いた龍弥は毛布を被ってベットに蹲った。
も、もう止めろって……。お、お、俺のせいじゃねーって……。
部屋を歩く誰かの足音。再び点滅を始める光。
耳を塞いで目を瞑った少年は、ベットの上で震えながら眩い春の朝日を待った。
0
あなたにおすすめの小説
【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~
ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。
王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。
15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】
しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。
【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】
※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
※重複投稿しています。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614
小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる