天使の報い

忍野木しか

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第三章

見つめる者

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 終わりを示す音を聞いた。
 終わりを示す光を見た。
 終わりを示す熱に触れた。
 弛緩し硬直する肉の軋み。最後の瞳に浮かぶ涙。温もりの跡の無い肌。
 聞き慣れた音であった。
 ──焼け焦げた校舎。人のいない駐輪場。白髪の天使の視線の先。
 見知った光であった。
 ──寂れた花壇を見つめる者。白い肌に浮かぶ漆黒の瞳。曇り空に揺れる長い髪。
 幾度とない感触であった。
 ──忌まわしき存在の微笑み。音の無い黒髪。熱の無い己の身体。

 白髪の天使。新実和子は鼓動を早めた。人に落ちる前の感覚。よく知った筈のそれに激しい苦痛が伴う。
 あり得ぬと、新実和子は目を見開いた。
 あそこからの消滅の回避はあり得ぬと、新実和子は胸を押さえた。
 長い黒髪の存在は、人に落ちた宮野鈴は、抗えぬ厄災の炎に焼かれ、その存在の終わりを迎えた筈であると、新実和子は一歩後ろに下がった。
 もしも、あの厄災を回避する方法があったのだとすれば……。
 ──校庭を走る存在。ショートボブの天使の跳躍。寂れた花壇に集まる天使たち。
 万が一にも、あの状況からの蘇りが有り得たのだとすれば……。
 ──曇り空の下の焼けた校舎。長い黒髪の天使の微笑み。土に塗れていくショートボブの天使。
 与えた筈の厄災は、既に、宮野鈴の手によって導かれた結果であったということか……。宮野鈴の漆黒の瞳が、長い黒髪の存在の微笑みが、抗えぬ筈の天使の報いをコントロールしていたということなのか……。
 あり得ぬ。
 新見和子は否定した。
 否、それは絶対にあり得ぬ、と、偶然の産物であろう、と新見和子は唇を歪めた。
 男の狂気に汚される女を見つめ続ける行為は、天使を人へと落とすのだ。あの時、宮野鈴が瞳を閉じた為に、白髪の天使は確実な終わりを見送ることが出来なかった。そう、つまり宮野鈴は、万が一の確率で生還した偶然の産物なのである。
 だが、それでも、終わっていた筈だった。あの場から生還できたとして、それでも、宮野鈴の消滅は免れなかった筈だった。人に落ちた天使は完全な人では無い。冬空の下で汚された不完全な存在。天涯孤独の死にかけの少女があの状況から生き残る術などはない筈だった。それこそ、自らが導いた結果でもない限りは……。
 長い黒髪の天使。宮野鈴はゆっくりと歩き始めた。サラリと流れる細い線の光。曇り空に煌めく白い肌。
 何やら花壇を掘り漁るのに夢中なショートボブの天使は、宮野鈴の音のない歩行に気付いていない。ショートボブの天使に付き従う二つの存在。ダークブロンドの天使と赤い服の天使は、宮野鈴の微笑みに警戒心を抱いているのか、ショートボブの天使を守るようにその間に入って地面に散らばる土を片付けていた。
 白髪の天使。新実和子は動いた。長い黒髪の天使の行動は読めない。だが、宮野鈴が導いてきたであろう二つの存在を、白髪の老人と肩の広い男を、速やかに排除する必要があった。
 梅雨の空を動かさない歩行。白い髪の天使を認知する人はいない。夏の訪れを止められる者はいない。


 山本恵美は陰鬱な瞳に憎しみの光を込めて空き教室の椅子に座る老人を睨んだ。繋がりを軽蔑するかのような、否、崇拝するもの以外を見下し拒絶するかのような冷たい瞳。
 椅子に座ったまま陰気な女を見上げる老人。大場浩二はかつての陰気な娘を思い出していた。太った体。パグ犬のような頰。美しかった姉とは似ても似つかない表情。ただ、かつては虚なだけであった筈のその瞳には、人並みの感情が宿っているようだった。その違いに浩二は微かな違和感を覚えた。
「よぉ、恵美ちゃん、久しぶり」
「どなたにございましょうか?」
「俺んこと覚えてねぇのかい? 大場浩二ってんだ、お前さんの親父さんの友達さ。昔よくよぉ、お前さんの家に顔出したじゃねーか?」
「……覚えておりませんわ、そんな昔の話」
 ピクリと縦に動く恵美の眉。強まる憎しみの光に、浩二は、恵美が自分の存在を覚えている事を確信した。だが、違和感は強まる。いったい何故、彼女の瞳はそれほどまでに憎悪の炎で揺らめいているのだろうか。
「そうかい。まぁ随分と、随分と時間が経っちまったもんなぁ、あの頃からよ。俺もほら、この通り、歳ぃ取っちまったよ、はは」
 浩二は薄くなった白い髪を後ろに撫で付けた。かつての黒々とした剛毛を思い出す老人。
 恵美は、そんな昔話など全く興味がないとでも言うかのように、野良猫を追い払うような仕草で丸い手を前に振った。
「で、ワタクシに何の用でございましょうか、大場さん」
「おいおい、つれねぇなぁ。老人のたわいない昔話に笑顔で付き合ってあげようってのが、大人のマナーってもんだろうが」
「大場さん、今、平日の昼間にございますわよ? ワタクシは忙しいのです。用がないのであれば失礼させてもらいますわ」
「忙しいって割にゃあ、学校が静かじゃねーか。生徒たちゃ、いったい何処で何してるんで?」
「アナタには関係のない話にございます!」
「……そうだったな。おらぁ教師じゃねぇもんな。そうさ、おらぁ警察だよ。元、だがな」
 スッと目を細める老人。恵美は、老人を見下ろすように空き教室の真ん中で立ち竦んだまま、浩二の鋭い眼光を睨み返した。
「何なんですの、アナタ、非常識ですわよ! 用がないのならば今すぐこの学校から出て行きなさい!」
「用ならあるさ、アンタになぁ、恵美ちゃん」
「ならばさっさとその用を言いなさい!」
「ずっとよぉ、アンタに聞きたかった話があんだ」
「早く言えと言ってるんです!」
「恵美ちゃんよぉ……。リンゴに毒薬振り撒いたの、アンタかい?」
 静寂。恵美は老人の言葉の意味を思案するかのように口の動きを止めたまま首を傾げた。そして、徐々にその弛んだ頰が怒りの赤に染まっていく。
「な、な、な……」
「あの時、お前さんが子供の頃に、毒薬を、TEPPを、お前さんの家のリンゴに散布させたのは、恵美ちゃん、お前かって聞いてんだよ」
 言葉を失う中年女性。胸元から頭の天辺まで赤く上気させた恵美は全身を細かく震わせた。その瞳は憎悪と怒りの涙にギラつく光を放っている。
 老人は無言で恵美の顔を見上げたまま話を続けた。
「毒物に指定される前に、殺虫用の農薬として買ったっていうその毒はよぉ、お前さんの実家の倉庫に眠ってた。鍵の掛かった小さな倉庫だ。持ち出された形跡はあったが、荒らされた様子は無かった。お前さんの家の誰かが、誤って散布しちまったんだろうって結論に至るのは早かったさ」
「……」
「お前さんの祖父、正人の親父さんはな、初めはよ、散布なんて絶対にしてはいないって証言してたんだ。だがな、明くる日によぉ、急に証言を覆しやがった。自分が誤って散布したんだと、180度証言を覆して謝罪したんだ。おかしかったぜ、ありゃあ。……まるでよぉ、誰かを、誰かを庇ってるみたいだった」
「お、お……」
「お前さんの家の誰かが散布したのは確かなんだ。だがな、どんなに間違っても、正人や、まして弘さんが散布するわきゃねぇ。そんな間違いを犯すような人たちじゃあ無かった」
「お、お、お前が……」
「なぁよぉ、恵美ちゃん……お前さんだろ? お前さんが、毒撒いたんだろ? 知ってか知らずかは知んねーが、恵美ちゃん、お前さんがあの農園をぶち壊しちまったんだろ?」
 浩二は骨と皮ばかりになった腕に力を込めた。感情的になり過ぎている自分を諌めようと深く息を吐く老人。こんな話をしに来たのではなかったのだ。もっと慎重に、控えめに、会話と会話を重ねる中で、山本恵美という存在を見極めようと浩二はこの学校を訪れたのであった。
 憎悪と怒りの瞳。太った体を震わせる熱。過去と今を行き来する涙。
 かつての空っぽだった少女は感情に満ち溢れた中年女性へと変わっていた。その事が浩二を動揺させたのだ。
 ダンッと太い足を一歩前に進める中年女性。激しい感情と涙に顔を歪めた恵美は、丸い指の先を老人の顔に向けると叫び声を上げた。
「お、お、お、お前だ!」
「あ?」
「お前だろ! お前が、お、お、お前がやったんだろ! おじいちゃんを、パ、パパを返せ!」
 梅雨空を映す窓を揺らす中年女性の叫び声。そのまま倒れ込むようにして浩二に駆け寄った恵美は、その白髪頭を力無く叩いた。パシ、パシと土埃を叩くような弱々しい音が空き教室に響く。
 呆然と口を開けたまま固まる老人。されるがままに叩かれながら、浩二は、何とか唾を飲み込もうと喉を動かした。
「な、何だって……? 俺なわけねぇだろうが?」
「返せ! 返せ! 返せ!」
「待て、恵美ちゃん、落ち着けって! 何でだ、どうしてそうなっちまうんだ?」
「お前が薬を撒いたんだろ! だって、だって、お、お姉ちゃん言ってたもん! お前がやったって! パパを、パパを返してぇ!」
「お、お姉ちゃんだって?」
「返せ! 返せ! 返せ!」
 浩二は混乱した。まとまらない思考。何故、あの天真爛漫だった姉の話が今出てくるのか。
「な、何をやってるんですかっ!」
 騒ぎを聞き付けた臼田勝郎が空き教室に飛び込んだ。その後ろから空き教室を覗くお団子ヘアとポニーテールの女生徒たち。
「返せ! 返せ!」
「お、落ち着いてください、山本先生。おい、貴様! 山本先生に何を言った!」
「お、おらぁ、別に……」
 生暖かい風が吹いた。いつの間にか空いていた窓。白いカーテンが梅雨の風に揺れると、教員机に置いてあった誰かのノートがパラパラと捲れていく。色とりどりのクレパスの花々。
 わっと飛び上がった恵美は机の上のノートに飛び付いた。そのまま床に蹲る太った中年女性。ギロリと浩二を見下ろした勝郎は、廊下で手を握りしめる女生徒二人を呼ぶと、床に蹲って震える恵美に駆け寄る。呆然と椅子に座ったまま浩二はその様子を眺めた。


 これはヤバイぞ……。
 カーテンの閉められた薄暗い体育館で膝をつく生徒たち。啜り泣く声に埋め尽くされた空間。小さな蝋燭の灯火のみがゆらゆらと黒い影を動かし続けている。
 山下克也は息を呑んだ。それはおよそ学校で見られるような光景では無かった。
 暗い空間で背中を丸めて両手を合わせる者たち。罪を噛み締めるかのような涙の重低音。壁を埋め尽くす白い紙の一枚一枚には黒い文字で名前が刻まれていた。
「黙祷」
 誰かの声が空間を木霊した。ビクリと広い肩を震わせる男。啜り泣く声が大きくなると、胸が締め付けられるような圧迫感に、克也は呼吸を早めた。
 スッと音もなく歩み始める女性教員。克也は声を失ったまま野村理恵の後に続く。
 暗いステージ横の壁。体育倉庫の扉を開けた理恵が中に入っていくと、克也も無言でその扉を潜った。
「こ、これは……」
 薄暗い電球に照らされた机。その上には包装された錠剤が山のように積まれている。
「これは……何ですか?」
 克也は何とか微笑みを作ろうと頬を歪めながら理恵を振り返った。
「それは、終わらぬいたみを終わらせる為のものです」
「終わらぬ……痛み? 終わらせるだって?」
「はい……やっと我々は、いたみから解放されて自由になれるのです……」
 やっと微笑みを浮かべた理恵の頬を涙が伝う。その瞳は暗いままだった。
 カッと顔を赤らめた克也は、恵美の細い腕を掴むと声を荒げた。
「何を考えているんだ、貴方は!」
「いっ」
「馬鹿なことを考えるじゃない!」
 恵美の腕を掴んだまま克也は机の上の錠剤を叩き落とした。床に散らばる錠剤の束。小さな悲鳴をあげる女性教員。
「やめて! 離して!」
「絶対にダメだ! こんな、こんなことは……あり得ない! 理恵先生、少し頭を冷やしなさい!」
「いやあ! 痛い! やめてえっ!」
「理恵せんせ……」
 ガンッと強い衝撃が克也の後頭部に走った。グニャリと黒く歪む視界。背中を打ちつける何か。冷たい倉庫の床に仰向けに崩れ落ちた克也は、混乱したように手足をバタつかせた。
 徐々に薄れていく意識。熱を失っていく体。克也は最後に暗い電球の光に揺れる白い影を見た。
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