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第三章
迎える者
しおりを挟む薄暗い廊下を歩く存在。静かな教室を覗くショートボブの天使。
沈黙する階段を駆け上った田中愛は、いなくなった生徒たちの姿を探した。音無く後ろに続くダークブロンドの天使。吉沢由里は湧き上がる感情の渦に涙を流し続ける。
今日は休日であっただろうか。
首を捻った田中愛はダークブロンドの天使の瞳を見つめた。細い首を横に振るダークブロンドの天使。困惑したように眉を顰めた田中愛は、ダッと4階まで駆け上がると、肩で息をしながら屋上へと続く階段を上がっていった。扉を覆う木の板。何だこれは、と木の板を取り外した田中愛は、鍵の壊れた扉を押すと共に灰色の空を見上げた。湿った梅雨の空気。曇り空を流れる風の匂い。
屋上を囲む正面の柵は壊れていた。火が屋上を包み込んだのであろうか、黒い焦げ跡が辺り一面に広がっている。取り外された柵の代わりに、黄色いロープがゆらゆらと風に揺れながら誰もいない校庭を見下ろしていた。
あんなロープでは危ないだろう、と腕を組むショートボブの天使。校舎に戻った田中愛は階段を駆け下りた。例え休日だろうと、半日授業だったのであろうと、職員室ならば誰かが残っている筈である。
薄暗い校舎には声がなかった。まるで、無理やり認知の距離を遠ざけられたかのような音のない世界。徐々に虚ろとなっていくダークブロンドの天使の瞳。
早く誰かに報いを与えないと。早く誰かの声を聞かないと。
田中愛は少し焦ったように短い黒髪を振った。生徒のいない校舎に天使の仕事はない。人のいない世界に天使の意義はない。与え導き見守るべき存在の声こそが、音の無い存在を現し震わし動かす鼓動となるのである。見下ろし見上げる存在である天使は、与えられ奪われる人の存在によって、やっとその不安定で曖昧な自我を保っているのだ。人のいない世界に天使はいない。
転がり落ちるようにして一階に駆け下りた田中愛は、保健室から響いてくる笑い声にホッと胸を撫で下ろした。世界から人がいなくなったわけでは無いのである。
額の汗を拭うかのような動作をした田中愛は、職員室へと続く廊下を振り返ると人の姿を求めて駆け出した。
「黙祷」
いったい何度目の祈りであろうか。
「黙祷」
どれほど捧げれば許されるのであろうか。
「黙祷」
いつ終わるのであろうか。
「終わりは訪れます」
誰かの音。天の声。神の囁き。祈りに俯く生徒たちが顔を上げる。
「もう、苦しまずともよいのです」
視線の先。蝋燭の灯火。暗い体育館に浮かぶ影。
「他を想ういたみも、自己を想ういたみも、もう、終わりにしましょう」
終わりにするとは何だろうか。いたみは、過去は、結果は、永遠に変えることの出来ない現実ではなかったのか。
「そうです、いたみが終わることはありません。この世を彷徨い続ける限り、進み続ける時間という厄災に縛られ続ける限り、蓄積し、蝕んでいく苦しみは、いたみは終わらないのです」
蝋燭の火がゆらりと揺れた。啜り泣く声の波。変わらぬ音が静寂と同化する。
「父を、母を、恋人を、友を、失っていく悼み。思考を、体力を、五感を、鼓動を、失っていく痛み。終わらないのです。止まらないのです。いたみは、苦しみは、終わらないのです。我々は、人は皆、等しく罪を背負って生まれてくるのです。この世に生まれるという罪。その罪の代償として、いたみという罰を背負わされるのです。我々の持つ思考は、感情は、背負わされた罰なのです。愛情も、友情も、決して免れぬ喪失という闇を彩る炎なのです。我々の体は決して逃れられぬ老いという罰に蝕まれているのです」
声の波が強くなる。静寂に掛かる重み。ふっと、蝋燭の火が終わりを迎える。
「終わらせましょう。終わらぬというのならば、終わらせましょう。背負わされた罪に対する罰は十分に受けました。もう、終わりにしましょう。我々はやっと救われるのです。終わりの救いに手を伸ばしましょう」
100人にも満たない生徒たち。俯き膝を付く存在の手元に送られていく錠剤とポリ袋。紙コップに満たされた水。青い輪ゴム。ゆっくりと進んでいく時間。蝋燭に再び火が灯る事はない。
白い紙に浮かぶ水の細波が止まると、錠剤を手に顔を上げた生徒たちは薄暗い影に立つ野村理恵の微笑みを見た。
「黙祷」
理恵の声。天使の微笑み。いたむ人。
形のバラバラな錠剤。睡眠薬を9錠、口に含んだ理恵はそれをゆっくりと噛んで飲み込むと、袋を被った。輪ゴムを頭に通すと、首元で袋の口が閉じられる。バタリと倒れ込むようにしてしゃがみ込んだ理恵は、丸い膝を両腕で抱えた。膨らんでは縮む透明な袋。生を刻もうとする吐息が袋の内を白く暗く染めていく。やがて、痙攣したように背中を逸らした理恵はバタバタと腕を振って暴れ始めた。ピクリピクリと折れてくねって跳ねる手足。空間を掴む指。床を叩く頭。失禁し硬直する体。
袋を被ったまま絶命した理恵に生徒たちは涙を流した。
「黙祷」
誰かの声が薄暗闇の静寂に木霊する。
山本恵美は悲鳴を上げた。
空き教室に響き渡る声。睨み合っていた臼田勝郎と大場浩二は驚いて恵美を振り返る。
「あ……あ……」
誰もいない廊下に太い指を向ける中年女性。二人の女生徒は不安げに顔を見合わせると、震える恵美の丸い背中をそっと撫でた。
「お、お、お姉ちゃん……?」
ダンッと床に両手をついて前傾姿勢に立ち上がった恵美は、転がるようにして廊下に飛び出した。音のない梅雨の校舎。廊下の先に揺れる長い黒髪。
「お姉ちゃん! 待って!」
恵美は走り出した。右腕に守られるようにして包まれたノート。白いページを彩るクレパスの花々。
絵を見て欲しかった。花の絵を褒めて欲しかった。昔のように優しく微笑んで欲しかった。最後にもう一度だけ、恵美は、大好きだった姉に抱き締めて欲しかった。
慌てて恵美の後を追う大柄の男と老人。なぜか廊下に転がっていたバケツに足を引っ掛けて転ぶ二人。掃除の準備をしていたショートボブの天使の怒った表情は二人の認知の外にある。
山本理恵の後ろ姿が廊下の向こうに消えると、立ち上がった勝郎はまた走り出した。笑い声の聞こえてくる廊下。保健室から出てきた新実三郎が驚いたような声を出す。
「臼田先生、どうしたんだい、そんなに慌てて?」
「に、新実先生、何故ここに? いえ、すいません、今は急いでまして」
「何かあったのかい? 僕も手伝うよ」
「山本先生がこのアホのせいで大変な目に」
「アホたぁ、言ってくれるじゃねぇか、先生ぇ」
白髪を後ろに撫でつけた老人。浩二の鋭い眼光に三郎は訝しげな視線を送る。
「どなたですかな?」
「山本先生ぇの知り合いさ」
「知り合い?」
「あぁ、親父さんと、だがよ」
「とにかくだ! 早く後を追わねば! 今、山本先生の精神は不安定な状態にある!」
走り出す勝郎と三郎。チッと舌打ちをして二人の背中を追う老人。その後ろに続くショートボブの存在。
騒ぎを聞き付けた太田翔吾と中野翼が保健室から顔を出した。
「なんだ、なんかあったのか?」
「さぁ?」
翔吾と翼は顔を見合わせた。保健室の中では、養護教諭の奥田恭子が島原健也の肩の具合に眉を顰めている。スッと廊下に出た赤い服の存在に気が付いた人はいない。
「どうするよ、教室戻るか?」
「うん、戻って勉強でもしようか」
「うへぇ、勉強なんてやってられっかよ。外、行かね?」
「今、一応授業中だぜ、太田くん。勉強しようよ」
「でもよ、誰も勉強なんてやってねーじゃん。今、皆んな体育館だろ?」
「ああ……うん。まぁ、あの人たちはもうどうしようもないさ。ねぇ太田くん、勉強ってのはさ、誰かがやってるからってしょうがなくやるもんじゃないんだ。自分の為にやるもんなんだよ」
思わず自分の口から溢れ出てしまう澄ましたようなセリフに、背中のこそばゆさを感じた翼は頬を赤くした。恥ずかしさに気落ちするひねくれ者。素直な男は力強く首を縦に振る。翔吾は、翼の言葉に深い感銘を受けた。
「さすが翼くん、良い事言うなぁ……」
「そ、そっすか」
「でもよ翼くん、体育館に集まってるアイツらはよ、俺はさ、どうしようもない奴らなんかじゃねーと思うぜ?」
「あ、う、うん、そうだね、ごめんよ」
「……久しぶりに体育館覗いてみるか。あの会はちょっとよく分かんなくなっちまったけど、アイツら心配だし」
「うーん……」
眉を顰めて腕を組むひねくれ者。今やほぼ一日中体育館で膝を付いて涙を流し続ける異常集団と、翼はなるべく関わり合いを持ちたくなかった。
「行こうぜ、翼くん」
「分かったよ、ちょっと覗いたら勉強だからね?」
やれやれと肩をすくめるひねくれ者。ニッと笑って翼の背中を叩いた翔吾は、体育館に向かって大股で歩き出した。
認知の外の涙。音のないダークブロンドの煌めき。吉沢由里はそっと太田翔吾の制服の裾を掴んだ。
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