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最終章
仮面の人
先ほど舞台の上の吉田障子を見上げた際に、三原麗奈が真っ先に抱いた印象は、濡れた鏡に映った自分であった。
決して相容れない、まるで対照的な人物であるにも関わらず、その他者を拒絶するような寂しげな態度が自分と重なった。
彼──彼女は表情のない厚い仮面で顔を覆った、とても繊細で孤独で臆病な、他人との壁を越えるのを諦めた、それでも普通の人であるようだった。
じゃあ、障子くんが「王子」ね──。
麗奈はギュッと手を握った。月の斜光が彼女の足元を照らしている。夜の校舎はどこまでも静寂に沈み、彼女に続く早瀬竜司の足音を除いて、人の気配は皆無である。
それであたしは──。
彼と彼女は同じ人を想っていた。
彼と彼女は同じあだ名を持っていた。
それが偶然とは思えない。
彼は今や彼女の姿をしていて、ともかく彼に会いたいと、奪われた身体を取り戻すよりも先ず彼と話がしたいと、そう願った。
だから麗奈は走った。
「だからよ、もう一旦みんなで外に出ちまおうぜ? な? 後は部長たちが何とかしてくれるからさァ!」
「そうだよ! 僕たちが動いた所で絶対に事態は好転しない、ううん、むしろ新平さんたちの邪魔になっちゃうよォ!」
そう頷き合ったのは木剣を片手にした長身の田中太郎と少し伸びたセーラー服姿の水口誠也だった。二人とも何とかして外に出たいと必死である。
「そりゃねぇぜ、お前ら。皆んな大変な目に遭ってるってのに、俺たちだけ逃げ出そうなんて漢じゃねぇよ」
「先輩の言うとおりです! 共に戦いましょう!」
超研のメンバーである鴨川新九郎と小田信長はいかにも真面目だった。この訳の分からない夜の校舎において、訳の分からないカボチャ男こと清水狂介の、訳の分からない指示を愚直にこなそうと言うのだ。
生徒会書記の宮田風花はどちらかといえば外に逃げ出したい派である。が、どうにもセーラー服と木剣という変態コンビの側に付くのは生理的に無理で、取り敢えず視線を冷たく細めたまま静観の構えでいた。
“苦獰天”のメンバーである山田春雄は逃げ出す気などない。されど率先して動くのは苦手であり、しきりに首を傾げながら、話がまとまるのを待っていた。
“火龍炎”の参謀である長谷部幸平はといえばどこ吹く風といった態度。したり顔で木椅子に腰掛け、ズズッとコーヒーを啜っている。
「そもそも鈴木夏子が誰だか分かんねぇって! 唯一の生き残りだかを探すのだって不可能過ぎんだろ! なぁ新九郎、ここはあの夜の校舎だぞ? お前だって本当は分かってんだろ? 危険なんだよここは!」
「そーだ、そーだ!」
「確かに危険だけど、でも俺たちで力を合わせれば何とかなるだろ。狂介の適当なチーム編成は無視してさ、全員で一人ずつ探しに行こうぜ」
「てかあの清水狂介って男の言うことも信用ならねぇよ。なんでアイツはあそこまでこの夜に詳しい? 部外者の癖にリーダー面してんのも気に入らねぇし、あのカボチャの仮面は何なんだ? つーか何で俺たちまで仮装しなきゃならねぇんだ? ふっざけてんじゃねぇぞコラァ!」
そう心の奥底から絶叫した太郎はその実、狂介が先ほど手渡してきた中世の暗黒騎士の鎧の仮装を愚直に着こなしていた。ガチャリ、ガチャリと、木剣を振るごとにうるさい。「そうだ!」と怒りの露わにした誠也もまたセーラー服姿に猫耳猫髭尻尾と猫娘らしき格好に加え、猫の手のポーズまで決めている。ちなみに先ほど睦月花子の手によって死地に連れ去られようとしていた誠也だったが、カボチャ男たる清水狂介に「邪魔だ」と判断され、幸か不幸か舞台に蹴り返されていた。
憤慨の形相の宮田風花もまた魔女っ娘らしきフードに長い杖という格好。新九郎と信長もまた訳の分からないままにオオカミ男とネズミ男に様変わりしている。長谷部幸平は相変わらずのミイラ男。この場でまだ仮装していない者は暴走族である山田春雄ただ一人だった。
「なぁ、取り敢えず移動しないか?」
一番端にいた春雄がボソリと呟く。すると六人の視線が仮装していない彼に向かう。まるでノリが悪い彼をなじるような、凍えるような視線である。
春雄は下を向くと、ハァと深くため息をついた。そうして渋々といった感じで、狂介に手渡されたオペラ座のファントム衣装に身を包んでいった。黒いコートを羽織り、紅い薔薇を胸に挿し、白い仮面を片手に取る。そうして仮面で顔を覆う──。
「あ?」
すると、突然、空気が変わった。
うっすらとボヤけた視界の先に違う広間が現れた。
「え……?」
いいや、そこが学校であるという点は間違いなさそうだ。彼の立つ舞台の高さにも変わりはない。ただ、先ほどよりも随分と天井が低く、縦に長かったはずの広間が今は横に長い。並べてあった木椅子は消え去り、代わりに錆びたロッカーや衣装棚、積み上げられた段ボールなどが壁際に並べられている。広間は明るく、特に広い窓から流れる陽射しが眩しく、慌てて仮面を剥ごうとした春雄はうっと目を細めた。
「ああ、それはそのままで」
男の声がした。これといった特徴のない、しかし彼の知る集まった者たちの誰とも違う、声変わりが始まったような少年の声だった。
「えっと……何?」
風花が肩をすくめる。突然変わった講堂の空気に戸惑っていたのは春雄だけではない。皆、オロオロとして舞台の上に立ちすくみ、そして広間の壁際に立つ誰かをそっと見下ろしていた。
「誰……ですか?」
「俺は誰でもない」
そう男が首を振る。どうしてか顔の特徴を掴むのが難しい。それほどの距離でもないのに、背が高いのか低いのか、細みであるか太めであるか、そもそも本当に男なのかの判断も付かない。ただ、声は男のもの。しかし口元の艶ボクロが、歳のそれほど変わらないであろう男に、何やら妖艶な雰囲気を備えさせていた。
「あの……」
「関わるつもりはなかった。けど頼まれてね。それが面白い男だったから、ほんの一度きり、手助けしてあげようと思ったんだ」
「いや……いや、ここって旧校舎だろ? 一体いつの時代だ? お前も巻き込まれたのか? なぁ、お前もこの学校の生徒なんだろ?」
誠也は慌てて、男に詰め寄ろうとする太郎を止めた。なるべく関わらない方がいいと誠也も判断したのだ。彼はともかく早く外に出たかった。
「その仮装を解いてはいけないよ」
ざわり、ざわり、と青々と茂った木の長い枝が靡くような音がする。
静寂の彼方から、学校を彩る生徒たちの喧騒が、壊れたオルゴールのように途切れ途切れに響いてくる。
「ここは記憶の校舎だ。君たちとは演劇部の記憶として繋がっている。だから塗り潰された戦後の校舎の隙間にこうして君たちを招くことが可能となったんだ」
男は飄々としていた。まるで舞台の上の彼らが古い知人であるかのように、決して顔を下げず、太郎たち七人を一人一人見つめていった。そうして包帯の巻かれた長谷部幸平をジッと見つめる。ほんの一瞬、男は肩を震わせた。
「最後のピースが揃ったね」
幸平は微笑んでいた。包帯で巻かれた全身。その隙間。僅かに覗いた片目と口元にさも嬉しそうな、楽しそうな、人ではないような笑みが浮かんでいた。
「これで完成だね」
風花は舞台の下の男に目を細めた。男の顔がハッキリと窺えたような気がしたのだ。だが、やはり誰かは分からない。ただ、口を紡いだ男はすでに後悔しているようだった。どうしようもない何かに怯えているようで、どうしようもない運命を嘆いているようで、艶ボクロの斜め上の、半開きとなった唇が、どうにも印象的だった。
赫い影が凄まじい速度で校舎を覆っていく。
太古の慄えに侵食される夜に逃げ場などない。
それでも傲慢な男が一人。
小野寺文久はそっと壁に手を当てた。
鈍色に煌るダマスク柄の豪奢な扉が現れる。その先に別の時代が現れる。戦前の校舎は陽に浮かんだヒノキ材の匂いが強かった。文久に続いてサラ・イェンセン、そして姫宮玲華が扉を抜けると、また別の扉が彼らの前に開いた。扉を抜け、時代を越える。延々と進み続ける以外に道はなかった。
こりゃあ袋の鼠だぜ──。
文久はチッと舌を鳴らした。今更ながら戦後の校舎をチョークで塗り潰したとある青年への怒りに身が燃ゆる思いがした。戦中から戦前の校舎においてもまだ数十年分の逃走経路がある。しかし外に出ることは難しい。今や七人目のヤナギの霊と化した太古の魔女から完全に逃げ去るためには空襲の時、その一点に向かわねばならず、それこそ火に飛び込むようなものだった。
「来たぞ」
雪原に散った鮮血のように赤い唇が震える。
姫宮玲華はうら若な少女の表情で、全てを悟った老婆の影を瞳に落とし、前を進む文久に警告した。しかし、とうの文久はすでに前にいない。彼はすでに彼女の真後ろで、彼女が察するより遥か昔に、迫り来る太古の魔女への反撃の雷を轟かせていた。
文久はずっと無言だった。そんな彼にいそいそとサラが付き従う。始まりの魔女である玲華は時おり落ちそうになる意識を何とか安定させながら、現状を打破する方法を、最悪の魔女から逃げおおせる手段を、必死になって考えた。彼女の果てない人生において、立ち向かうよりも逃げ続ける時間のほうが、遥かに長かった。
「そうだ……ルーヴァスだ!」
玲華はあっと長い脚をふらつかせた。すると文久の広い肩に支えられる。玲華はまごまごと礼を言い、ギッとあからさまに燃え盛るサラの視線を無視して、背の高い文久の顔を見上げた。彼の左目は空色に薄まっていた。
「ル……ルーヴァスだ。カリアス・ルーヴァスという痩せた男がいた筈だ。あ、あの男は魔女狩りなんだ。奴ならばロキサーヌも……」
「間抜けな女だ」
文久は呆れ果てたような冷たい顔で、玲華の細い体をドンと突き飛ばした。わっとバランスを崩した彼女の長い黒髪が校舎に広がる。そんな彼女に対して、嫌悪感を露わにさせたサラは、それでも自分に向かって倒れてくる玲華の体を抱き止めるのを躊躇わなかった。サラの柔らかな胸の中でしばし目をパチクリさせた玲華はすぐにカッと頬を赤くした。
「貴様!」
「あんな雑魚であの化け物が止められるか」
「雑魚だと?」
玲華はポンポンとスカートの裾を払うと、前髪を撫で合わせ、彼女を振り返ろうともしない文久の後をツカツカと追い掛けた。
「おい小僧、貴様は魔女狩りを知らんだろうが」
「エリザベート様! イイ加減ニシテクダサイ!」
「あれは相当に厄介な男だぞ。人を遥かに凌駕した力を持ち、そして不死身だ。さらに執念深く、魔女を殺す技術に長けた……」
「アレは鬼だ。不死身じゃねぇ」
怒れるサラともみ合いになった玲華は白い息を吐き出した。すでに数え切れないほどの扉を抜けた先は雪化粧の渡り廊下である。ただ、それも束の間のこと。ギィギィとなる木板の扉を抜けるとそこは湿っぽい夏の夜の校舎だった。
「いいや、あの男は不死身だ。私と同じ、二千年前から生きている」
「そういう肉体なのさ。だが、殺せる」
「ならばやってみろ!」
「文久サマハ既ニ、アノ男ヲ殺シテイル」
「何だと?」
「ルーヴァスハ既ニ死ンダ。文久様ノ手ニヨッテ」
雷鳴が、時折、潜り抜けた時の扉の向こうから響いた。
さらに雷光が届くと、パッと一瞬開いた黄金色の斜線が、玲華の青白い顔を夜の校舎に浮かび上がらせた。
「……くだらん妄言だ。どうすればあの男を殺せる」
「確かにアイツの肉体は特別だろう。だが、不死身からは程遠い。アイツが生き延びてこれたのはあの異様な執念深さと、そして単に頭が良かったからだ」
「答えになってないぞ! どうやってあの男を殺した!」
「百回試した」
「百……?」
「それだけさ」
文久の口元に皺が寄る。
簡単に倒せた相手はいない。だが、倒せなかった相手もいない。
「あの化け物も同じだ。今は無理でも、いずれは──」
その時、バチッと空気の爆ぜるような音が走った。瞬く間にゴロゴロと雷鳴が響き渡ると、感電した三人の体が夜の廊下に突っ伏した。
「強く流したつもりはないのだけれど。それとも何かあるのかしら」
薄青いドレスが闇に広がる。
白い帽子が夜に浮かび上がる。
ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーはスカーレットに煌めく唇を伸ばした。
その異様に大きなコバルトブルーの瞳で、片膝を付いた肩の広い男を興味深げに見つめた。
「────────““““立““””“”””──────────────」
その慄えが夜を侵食する。
抗えぬ太古の呪い。
廊下に倒れていたサラと玲華の両眼から血が溢れる。そうして感電していた二人の肉体が操り人形のようにフラフラと起き上がる。
文久もまた抗えぬ力に屈するが如く、ロキサーヌの前に立ち上がった。左右で目の色の違う彼の頬を伝う血は蛞蝓のように艶やかで、ポタポタと鼻から血を落とす様は惨めだった。だが、傲慢な表情に変わりはない。ロキサーヌはそれを強がりだとは思わなかった。
「まだ──何かあるのでしょう?」
実際のところ、文久の肉体に呪いは届いていない。太古の慄えといえども所詮は音の類である。ロキサーヌを目前とした時点で、文久は自身の周囲を真空の層で覆っていた。振動は真空を越えられない。そして女であるが故のロキサーヌの一つの特徴として、触れられる距離までは近付いてこないという事を、文久は分かっていた。
ただ、絶望的な状況に変わりはない。
「──────────────“““““”“““““死”””””“”“”“”─────」
二人の魔女の腕がだらんと下がる。
ゆらりと白銀のナイフを引き抜いたサラはそれを自身の首に向けた。玲華もまた白い歯を手首に当てている。鮮血が夜に弾けた。文久は愛用しているベレッタM92Fの銃口をこめかみに当てると、不敵な笑みを浮かべながら、そっと引き金に指を当てた──。
ダンッ──。
そうして弾かれたのはロキサーヌの胸だった。
ただ、驚いた様子はない。彼女は微笑みながら文久を見つめた。
「なんだ?」
意外そうな顔をしたのは文久だった。当然ながら彼に自殺しようなどという意思はない。死をまた偽装として、ロキサーヌを溶岩の海に落としつつ、この場を逃げ去ろうと考えていた。だが、どうやらその必要もなさそうだ。予想外の援軍が現れたのだ。
いいや、彼らは援軍などではない。
明確な、言ってみれば第三国からの、敵である。
ダンッ──。
二発目の銃弾が撃ち抜いたのは文久の額だった。
文久は口元に皺を寄せながら、自害しようとするサラと玲華を床に倒し、さらに濃い影で二人を覆った。
三発、四発、五発──。
ロキサーヌと文久の肉体に真っ赤な花が咲いていった。
されど表情は変わらない。
学舎を震わせる銃声がさらに十数発鳴り響く。やがて音が止む。濃い夜の静寂が再び校舎を包み込んでいく。
「クリア」
リーダーらしき細身の男が片手を上げた。それは四人からなる小隊だった。ダークネイビーの防弾ベストとヘルメット。全身が夜の闇に溶け込んでいるようだ。
彼らは特殊急襲部隊SATの精鋭だった。
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