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最終章
夢の校舎
あの人たちは誰──。
そう問うと「悪い奴らさ」と吉田障子は少しだけ悲しげな顔をした。
彼と走る校舎はいつもより広く感じた。
他の子たちの声はなく、外の景色は朝なのか夜なのか曖昧で、そこが夢の中なのだろうということは分かったけれども、どうにも怖いだとか嫌だとかそういった平凡な思いは浮かばない。自由に羽ばたきたいとも思わない。ただ目の前の不思議な少年のことをもっとよく知りたいと願った。
「大丈夫だよ。お姫様を守るのは王子様の役目だから」
見慣れた校舎が延々と続いた。走れども走れども終わりは無かった。だが、疑問を覚えない。何故なら夢の中だから。難しい事を考える必要はなかった。彼と走る時間が楽しかった。
「けど、待つばっかじゃ駄目なんだ」
千代子はまるで羽になったような心地で、風に流されるような勢いで、彼に手を引かれていった。疲れなんて知らない。憂いを忘れてしまう。
「時にはお姫様から積極的にならないと……王子様ってのは意外と面倒なのさ」
千代子はそこで吉田障子の額に煌めく汗を見た。彼は彼女とは違い、とても苦しげな顔をしている。二人を背負っているから疲れてしまったのだろうか──。千代子は心地よく走りながら、彼に強く手を引かれながら、オロオロとして、彼の頬を伝う汗を何とか拭えないかと考えた。
「先輩!」
よく通る声が追い付いてくる。
悪い奴らだ──。
千代子はやっと怖いと思った。
ギュッと前を走る彼の手を握り締めた。
すると彼は立ち止まる。
千代子はギョッとして今度は彼の腕を引いた。
だが、彼は動いてくれない。あの時の、猛犬に立ち向かう彼女の親友のように、彼は悪い奴らの前に立ち塞がった。
「やっと追いついたぜ、ゴラァ!」
その怒号は亜麻色の髪の美しい少女ではなく、奇妙な格好をした髪の長い少年のものだった。猫のように俊敏に飛び上がったかと思えば、気が付けば千代子の目の前で般若の形相をしていて、そうして彼女と手を繋ぐ障子の頬を殴った。
「きゃあああああっ──」
千代子は悲鳴を上げた。そのあまりにも甲高い叫び声に自分の方が驚いてしまう。こんなに大きな声を出したのは生まれて初めてだ──。千代子は何故だか少しだけ冷静となった。
髪の長い男の子が障子に馬乗りとなる。そうして彼の顔を何度も何度も殴り付ける。千代子は本能のままに髪の長い少年に突進した。同じように、亜麻色の髪の少女もまた、少年たちを止めようとした。
「オラァ! どうした!」
「や、やめぇ──」
「やめて!」
千代子と少女の視線が重なった。近くで見ると、秋の小麦のように晴れやかな髪をした彼女はまたとても美しい顔立ちをしている。でも思ったよりも大人しそう。むしろ自分と同じように気弱そう。だが、悪い奴らである。千代子はキッと少女を睨むと、オロオロとする少女を押し退けるようにして、彼に馬乗りとなった暴れん坊少年の腕をグーッと引っ張った。
「テメェの面だけはいっぺんぶん殴っときたかったんだわ」
「もう何度も殴ってんだろーが」
「余裕そうじゃねぇかオラッ!」
竜司は腕を振り上げた。
そんな彼の瞳を障子が下から覗き込む。
透明に霞ゆく瞳。空色の光。
かつての彼の記憶──ガリガリに痩せた少年の前で、茶髪の女が、大柄の男に殴り飛ばされる──障子はうっと空色の瞳を背けた。
巫女の力により竜司の意識が消失した。
障子はハァハァと呼吸を荒げながら彼を退かすと、まだ透明に近い瞳をさらに薄め、三原麗奈と視線を重ねた。麗奈の栗色の瞳。空色の光が彼女の心に差し込む。それは一瞬のこと──。
あっと障子は目を瞬いた。ズキズキと高まっていく顔の痛みに呻いた。オロオロと自分の手を見つめた。
やっと体を取り戻した──。
そう安堵するより先に、障子は親友である早瀬竜司と山本千代子、そして三原麗奈の姿を探した。
「まだ空襲の舞台だから」
麗奈は竜司の側にいた。その瞳は本来の彼女のものである空色に薄れている。障子には話したいことが山ほどあった。だが、彼女の瞳がそれを拒絶する。
「せ、先輩、あの……」
「ドカン」
麗奈はそう呟き、左の頬に手を添える。空色の瞳が微かに濁った。凄まじい衝撃が校舎を揺らした。
障子は小さく声を上げると、同様に悲鳴を上げた千代子の手を掴んだ。ゆらゆらとした炎に校舎が呑み込まれていく。ごうごうとした黒煙が空を包み込んでいく。幾度となく見た夢と同じ光景である。
「先輩!」
先ほどよりも強い声で呼んだ。身勝手な彼女への怒りは放り投げ、当然の如く麗奈を見捨てるような真似せず、彼女を振り返った。しかし障子は戦慄してしまう。
麗奈の影が黄金色に揺らめいた。炎の中に立つ彼女は夕暮れの人影のように朧げで、瞳の空色ばかりが煌々と異質な光を示している。そして消えたはずの醜い火傷跡が彼女の頬に浮かんでいる。その姿はそれまで彼女が見せてきたどの表情とも違う、脆さも、可憐さも、人懐っこさも、冷酷さもない、ただただ恐ろしい怪物であった。
「死ね」
麗奈はそう言うと、意識のない竜司を見下ろした。障子はすぐにハッとして二人の元に駆け寄ろうとした。だが、炎がそれを許さない。さらなる衝撃音が校舎を揺らすと、麗奈たち二人の影が遠ざかった。障子はヨロけながらも二人を追おうとする。そうして後ろに引かれる。障子は彼が握る小さな手を思い出した。その手は意外にも力強く、そして確かな意思がある。千代子は恐怖に震えながらも、炎に向かって進もうとする障子を必死になって止めようとしていた。
「絶対に助けに来るから!」
空色の光は薄まらない。しかし、今にも消えてしまいそうな人影が二つ。そして、か弱き存在が一つ。
先ずは千代子を避難させなければならない。
そう決断した障子は迫り来る炎に背を向けると、ギュッと千代子の手を握り返し、暗くも涼やかな夜に向かって走り出した。
小野寺文久の死亡を確認した特殊急襲部隊SAT第三班のリーダーはすぐに、第一班、第二班との連絡を試みた。
メンバーの一人が周囲の警戒にあたる。別の一人が空き教室を覗いていく。そして一人は外の状況を確認しようと窓に手を伸ばし──触れられないという不可解な事実に眉を顰めた。
「第三班、クリア。第一班、第二班、応答しろ。第三班、ターゲット無力化。第一班、第二班、応答しろ」
リーダーはコールを続けた。しかし応答はなかった。通信機に反応がないわけではない。ただ、まるで何処か深い穴の底と繋がっているかのように、何やら得体が知れない。彼の問いに対して返ってくる通信機からの答えは単色の静寂であった。
「第一班、第二班、応答し……」
「ひどいわぁ──」
隊員たちはすぐに警戒態勢をとった。メンバーの二人が廊下の前後を睨む。二人が空き教室の中に拳銃を構える。しかし人影はおろか、僅かな息遣いも確認出来ない。囁かれるような女の声がしたのは確かだった。外に誰かいるのではないかと、リーダーは静かに、触れることの出来ない窓に体を寄せた。そんな彼の背後で赤い影がゆっくりと立ち上がった。
「彼とのひと時を邪魔するなんて──」
バンッ──とSATのリーダーの頭が卵のように潰れた。
一瞬の出来事だった。
血塗れの女が月を見上げている。
首から上を失ったリーダーは数歩進み、彼女に向かって倒れた。
隊員たちは動揺したが、それでも迅速に対応した。立ち上がったロキサーヌの肉体にまた銃弾を撃ち込んでいった。だが、女が倒れる気配はない。
別の隊員の首がボトリと落ちると、残り二人となった隊員は素早く教室の影に身を隠した。そうして左右から彼女を挟み撃ちにする。おおよそ現実とは思えない状況においても精鋭である彼らは応戦を止めなかった。
「────“““““”動”””””””────────」
人の声ではない何かが夜闇に響き渡った。
途端に隊員たちは身体が動かせなくなってしまう。両眼から、耳から、鼻から血が滴り、ヌメヌメとした体液がゴボリと口から溢れ出る。
ロキサーヌの薄青いドレスは血に汚れ、それでもヒラヒラと月の光を透かせていた。
三人目の隊員の首を引き抜いた彼女は音もなく夜を進んだ。四人目の隊員は動かぬ体で打開策を探る。だがロキサーヌの、その異様に大きなコバルトブルーの瞳に見下ろされると、動揺のあまり呼吸を忘れた。
「悪くねぇ」
男の声がした。
傲慢な響きだ。
ロキサーヌの豊満な胸元から白銀の長剣が飛び出す。いったい何が起こっている──隊員は呆気に取られる。洋紅の唇からつっと流れ落ちる血ばかりが美しい。長剣が彼女の首元までグンッと捩じ上げられると、その噴き出した鮮血により隊員の視界が真っ赤に染まった。そんな赤い霧の隙間から、隊員は彼女の背後に立つ傲慢な男を見た。ただ、男の影はすぐに夜の闇に溶けてしまう。
小野寺文久か──。
隊員はすぐに身体が動かせるという事実に気付き、拳銃を構えた。銃声が闇夜に轟く。しかしロキサーヌは微笑んだのみ。銃弾を舌で受け止めると、その熱に唾液を絡ませながら、コバルトブルーの瞳を見開いた。
隊員は雄叫びを上げた。拳銃をかなぐり捨て、猛獣のように彼女に飛び掛かった。だが、そんな彼の絶叫もまた、永遠の静寂に呑まれてしまうのだった。
小野寺文久は青い瞳で夜を見渡した。
黒く塗り潰された戦後の校舎。燃え盛る空襲の校舎。静寂に沈んだ戦中の校舎──どうにも人影が多い。文久は口元に皺を寄せた。それは彼が関心を示した際に見せる傲慢な笑みであった。
「マリーか」
気が付けば銀髪の少女が彼の背後に立っている。
「今ノ私ハ、シャルロッテ、新品ノ私ダ」
そう胸を張り、少女は「アッアッアッ」と喉を詰まらせたような笑い声を上げた。本名をマリー・マードックという。年齢は四百歳と少し。太古の魔女とも、始まりの魔女とも違う。マリーもまた魔女の中で異質の存在であった。
「文久クン、準備ハネ、出来テイルンダヨ」
マリーは目元を覆う銀髪を乱し、そばかすの多い頬を赤く蒸気させながら、文久をギョロリと見上げた。そんな彼女をさも面倒臭そうにあしらった文久は廊下の隅に視線を移す。髪がボサボサと絡まった老婆が暗闇に紛れている。老婆は大陸の巫女だった。李林杏という。その両眼は冬雲の切れ間に覗く濃い空色に濁っている。
「おいリンシン、何があった」
「ヤナギの木、倒されました」
「そうかよ」
「対テロ作戦として、特殊部隊、派遣されています」
「数は」
「十二」
「他に来た奴はいるか」
「園田勇夫という小男が一人」
「クック、あの間抜けが」
文久はこの状況を好機と見た。
先ず記憶操作により彼自身を完璧に再現した人形を作り出す。そして銀髪の少女を見下ろすと、怒りの籠った王の声を響かせる。
「おいマリー」
「ナンデアロウ」
「ロキサーヌは殺せねぇぞ」
「何故デアロウ」
「アレは魂の形を変えられる」
「ソ、ソレダァ!」
マリーは飛び上がると、両手のひらでこめかみを擦りながら「イッイッイッ」と息を押し潰すようにまた笑った。
「純物質デモ壊セヌト。ソ、ソレ面白イ! 不可思議ナ女デアルナァ」
「他にあの女を殺す方法はあるか?」
「ウッウッウッ」
「おい! あの化け物の殺し方を考えやがれってんだ!」
「知ランナァ」
「ああ?」
「魂ノ形ヲ変エラレル、ト、恐ラク、海ノ底ニ沈メテモ死ナヌダロウ」
マリーは腹痛に呻くような体勢で笑い転げた。
文久はチッと舌打ちすると、大陸の巫女を振り返る。
「リンシン」
「はい」
「あの女にお前の力を見せろ」
「分かりました」
「安心しろ。次の世でもお前の面倒は見てやる」
「ありがとうございます」
「文久クン、私ハ何スル?」
「お前は帰れ」
マリー・マードックはつまらなそうに薄紫の瞳を細めた。その銀髪の下からジットリと視線を校舎に這わせる。
「嫌ダァ」
文久は、足にしがみ付いてくる少女を冷たくあしらいつつ、自身の複製を校舎に散りばめていった。
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ご感想、本当にありがとうございました。
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