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一章 篇首
一話 想起
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「ルイーズ、大丈夫かい!?」
沈殿していた意識が、ゆっくりと浮上していく。
ルイーズは正面を見据えた。そこには、慌てた様子で駆け寄る髭を蓄えたダンディな男性と、その隣で鋭い視線を向けるスレンダーな美女が立っていた。
「お嬢様、こちらを」
背後から、純白のハンカチが差し出された。ぼんやりと立ち尽くしたままのルイーズは、手渡された布の主を確かめるように顔を上げる。
そこには、白髪を一房に束ね肩へと流し、きちんとした執事服に身を包んだ長身の老紳士が控えていた。
執事は、涙に気づいていない彼女の頬にハンカチをそっと添える。
一滴の涙がルイーズの頬を伝い落ち、真っ白な布地に静かに染み込んだ。その瞬間、ようやく彼女は自分が涙していたことに気づいた。
「……取り乱して、申し訳ございません」
ハンカチを受け取り、涙を拭いながらルイーズは目の前に立つ二人へと頭を下げた。
彼らは、この世界におけるルイーズの“両親”──マルセルとコーデリアだった。
ルイーズには、この世界とは異なる記憶がある。ある、というよりも……思い出してしまったのだ。
「見損ないましたわっ!」
甲高い怒声が室内に響いた。普段はタレ目がちな母・コーデリアが、珍しく目を吊り上げて父・マルセルを鋭く睨んでいた。
彼女の怒気に当てられて、マルセルの顔から血の気が引いていく。
コーデリアは扇子を優雅に開きながら、静かにルイーズへと歩み寄った。
「ルイーズ、大丈夫? 突然あんな話を聞かされても、気持ちが追いつかないでしょう」
心配げに眉をひそめる彼女の姿に、ルイーズは息を飲んだ。母の指がそっと自分の髪を撫でる。
「今日はもう、お部屋でゆっくり休みなさい」
「え、でも……お話が──」
「大丈夫よ。今はあなたの心のほうが心配だわ」
その眼差しは限りなく優しく、慈愛に満ちていた。
まるで海の女神が目の前に現れたような感覚に、ルイーズは一瞬言葉を失う。
実際、コーデリアは社交界でも“海の女神”と称されるほどの美貌を誇っていた。
アクアマリンのように柔らかく波打つ髪、妖艶さを湛えた菫色の瞳。その右目尻にある泣きぼくろは、さらにその魅力を際立たせていた。
「まだ話は終わって──」
「あなた? まさか、まだルイーズに何か言うつもり?」
マルセルが慌てて口を開いたが、コーデリアの冷ややかな声がそれを遮った。
穏やかで温厚なはずの彼女から発せられる静かな怒気に、マルセルは言葉を失う。
その笑みの裏に浮かぶ般若のごとき気迫が、場を静まり返らせた。
「お父様、お母様」
ルイーズが落ち着いた声で呼びかけると、二人は彼女へと視線を戻した。
「お言葉に甘えて、わたくしは部屋で休ませていただきますわ」
スカートの裾を持ち上げ、優雅にカーテシーをしてからその場を後にする。
部屋を出る間際、背後からマルセルの言い訳混じりの声と、なおも続くコーデリアの叱責が聞こえてきたが、ルイーズは立ち止まることなく歩みを進めた。
止めなかったのは、ほんの少しの意趣返しだった。
父が口にした“ある言葉”が、彼女の記憶を呼び起こしたのだ。
涙の理由もそこにある。懐かしくも辛い、“前の世界”の記憶が、彼女の中で鮮明に蘇った。
部屋に戻ると、使用人たちに「一人になりたい」と伝えて下がらせた。
「……やっぱり──」
呟きながらルイーズは姿見の前に立つ。そこには先ほどまで傍にいたコーデリアと、瓜二つの少女が映っていた。
違うのは、コーデリアの柔らかいタレ目に対して少女の目尻はキュッと吊り上がり、泣きぼくろがないことくらい。自分の姿に、ルイーズは静かにため息をついた。
──前世、日本。
脳裏に、ふいに言葉が浮かぶ。この世界とは異なる場所。
ルイーズが生きていた、かつての人生。
日本という島国で、彼女は過酷な日々を送っていた。朝から晩まで働き詰めで、心と身体をすり減らしていたが、ひとつだけ心の拠り所があった。
それが、ソーシャルゲーム『ストレンジ♤ワールド』──十代から三十代の女性を中心に人気を博した乙女ゲームだった。
リリースと同時にアニメ化され、さらに舞台やミュージカル化まで果たしたその作品は、彼女の生きがいでもあった。
ミュージカルの公演日。運よく公式サイトの先行抽選で最前列の席を引き当てた彼女は、開演直前に会場へと足を踏み入れていた。
だが、そこで大きな地震が彼女を襲った。
地鳴りとともに揺れる劇場。崩れ落ちたのは、壁際に設置されていた巨大スピーカーだった。
その重みに押し潰されたのが、彼女の最期の記憶。
「わたくし、やっぱり──」
ルイーズは、姿見の鏡に映る自身の姿をじっと見つめた。
そこにいるのは、『ストレンジ♤ワールド』に登場する少女。
「……あの“頭脳派悪役令嬢”だわ」
ルイーズ・カプレ。
カプレ公爵家の末子。第一王子の婚約者候補にして、後に第三王子の婚約者兼、物語の悪役令嬢として登場する少女──その姿が、鏡の中に確かに存在していた。
沈殿していた意識が、ゆっくりと浮上していく。
ルイーズは正面を見据えた。そこには、慌てた様子で駆け寄る髭を蓄えたダンディな男性と、その隣で鋭い視線を向けるスレンダーな美女が立っていた。
「お嬢様、こちらを」
背後から、純白のハンカチが差し出された。ぼんやりと立ち尽くしたままのルイーズは、手渡された布の主を確かめるように顔を上げる。
そこには、白髪を一房に束ね肩へと流し、きちんとした執事服に身を包んだ長身の老紳士が控えていた。
執事は、涙に気づいていない彼女の頬にハンカチをそっと添える。
一滴の涙がルイーズの頬を伝い落ち、真っ白な布地に静かに染み込んだ。その瞬間、ようやく彼女は自分が涙していたことに気づいた。
「……取り乱して、申し訳ございません」
ハンカチを受け取り、涙を拭いながらルイーズは目の前に立つ二人へと頭を下げた。
彼らは、この世界におけるルイーズの“両親”──マルセルとコーデリアだった。
ルイーズには、この世界とは異なる記憶がある。ある、というよりも……思い出してしまったのだ。
「見損ないましたわっ!」
甲高い怒声が室内に響いた。普段はタレ目がちな母・コーデリアが、珍しく目を吊り上げて父・マルセルを鋭く睨んでいた。
彼女の怒気に当てられて、マルセルの顔から血の気が引いていく。
コーデリアは扇子を優雅に開きながら、静かにルイーズへと歩み寄った。
「ルイーズ、大丈夫? 突然あんな話を聞かされても、気持ちが追いつかないでしょう」
心配げに眉をひそめる彼女の姿に、ルイーズは息を飲んだ。母の指がそっと自分の髪を撫でる。
「今日はもう、お部屋でゆっくり休みなさい」
「え、でも……お話が──」
「大丈夫よ。今はあなたの心のほうが心配だわ」
その眼差しは限りなく優しく、慈愛に満ちていた。
まるで海の女神が目の前に現れたような感覚に、ルイーズは一瞬言葉を失う。
実際、コーデリアは社交界でも“海の女神”と称されるほどの美貌を誇っていた。
アクアマリンのように柔らかく波打つ髪、妖艶さを湛えた菫色の瞳。その右目尻にある泣きぼくろは、さらにその魅力を際立たせていた。
「まだ話は終わって──」
「あなた? まさか、まだルイーズに何か言うつもり?」
マルセルが慌てて口を開いたが、コーデリアの冷ややかな声がそれを遮った。
穏やかで温厚なはずの彼女から発せられる静かな怒気に、マルセルは言葉を失う。
その笑みの裏に浮かぶ般若のごとき気迫が、場を静まり返らせた。
「お父様、お母様」
ルイーズが落ち着いた声で呼びかけると、二人は彼女へと視線を戻した。
「お言葉に甘えて、わたくしは部屋で休ませていただきますわ」
スカートの裾を持ち上げ、優雅にカーテシーをしてからその場を後にする。
部屋を出る間際、背後からマルセルの言い訳混じりの声と、なおも続くコーデリアの叱責が聞こえてきたが、ルイーズは立ち止まることなく歩みを進めた。
止めなかったのは、ほんの少しの意趣返しだった。
父が口にした“ある言葉”が、彼女の記憶を呼び起こしたのだ。
涙の理由もそこにある。懐かしくも辛い、“前の世界”の記憶が、彼女の中で鮮明に蘇った。
部屋に戻ると、使用人たちに「一人になりたい」と伝えて下がらせた。
「……やっぱり──」
呟きながらルイーズは姿見の前に立つ。そこには先ほどまで傍にいたコーデリアと、瓜二つの少女が映っていた。
違うのは、コーデリアの柔らかいタレ目に対して少女の目尻はキュッと吊り上がり、泣きぼくろがないことくらい。自分の姿に、ルイーズは静かにため息をついた。
──前世、日本。
脳裏に、ふいに言葉が浮かぶ。この世界とは異なる場所。
ルイーズが生きていた、かつての人生。
日本という島国で、彼女は過酷な日々を送っていた。朝から晩まで働き詰めで、心と身体をすり減らしていたが、ひとつだけ心の拠り所があった。
それが、ソーシャルゲーム『ストレンジ♤ワールド』──十代から三十代の女性を中心に人気を博した乙女ゲームだった。
リリースと同時にアニメ化され、さらに舞台やミュージカル化まで果たしたその作品は、彼女の生きがいでもあった。
ミュージカルの公演日。運よく公式サイトの先行抽選で最前列の席を引き当てた彼女は、開演直前に会場へと足を踏み入れていた。
だが、そこで大きな地震が彼女を襲った。
地鳴りとともに揺れる劇場。崩れ落ちたのは、壁際に設置されていた巨大スピーカーだった。
その重みに押し潰されたのが、彼女の最期の記憶。
「わたくし、やっぱり──」
ルイーズは、姿見の鏡に映る自身の姿をじっと見つめた。
そこにいるのは、『ストレンジ♤ワールド』に登場する少女。
「……あの“頭脳派悪役令嬢”だわ」
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