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三章 正編
三二話 氷と酸
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真っ暗な闇の中で、淡い光を纏った存在がぽつりと浮かんでいた。
ルイーズを縛っていた鎖の拘束が解け、ようやく自由を得た彼女の耳に届いたのは、こもりがちで不鮮明ながらも、胸の奥に響く愛しい人の声だった。
微かにしか聞こえない。けれど、その声音を聞き間違えるはずがない。
だけど、見えない。愛しい人の顔が、まるで霧の向こうにあるように、見えなかった。
もっと、はっきりと。
貴方の声を、貴方の姿を。
そして、貴方と言葉を交わしたい。
その存在を確かめるように、ルイーズは震える手を伸ばす。
指先が頬に触れた。少し冷たい、けれど確かな熱を持った肌。
生きている。ここに、彼がいる。助けに来てくれた。それだけで、胸が張り裂けそうになるほど嬉しかった。
だけど、貴方は残酷だ。
──ねえ、ジル様。
どうして、私を助けに来たのですか?
仲間だから?
それとも、ロラン様やドナシアン様の命令で?
貴方は、どんな想いでここへ来たの?
どんな顔で、私の名を呼んだの?──
ルイーズがジェルヴェールに抱く想いは、会えなかった日々の積み重ねなど比にならないほど、急速に、そして確実に胸の奥から溢れ出していく。
彼の姿を見るたび、声を聞くたびに、心がジェルヴェールを求めてしまう。
ただ会えるだけで幸せだったのに、望んではいけない願いが次々と生まれていく。
この暗闇の向こうで、今、彼はどんな表情をしているのだろうか。
──どうか……ほんの少しだけでいい。今だけは、わたくしのために。わたくしのことを想って助けに来てくれたのだと、そう期待してもいいでしょうか。
ジェルヴェールの声が、彼女の異変を察知し問いかけてくる。
その声に応えようとルイーズは口を開くが、声は出ない。漏れ出たのはただの息だけだった。
そのとき鼻を衝く、肉が焼けるような臭い。
「げほっ……がっ……」
ジェルヴェールの苦しげな咳き込みが響いた。
すぐさまルイーズは状況を悟る。敵の攻撃が、彼に届いたのだ。
直後、目前で交わされる攻防。
ジェルヴェールと敵──No.5、“ノクス”との死闘が始まった。
すぐに加勢したかった。けれど、今の彼女では、気配を感じ取ることしかできず、まともな攻撃は望めない。
それでも、傍にいるだけではいられなかった。
──ライ、来て。
心の中でルイーズは小さく呼びかける。
先ほどまで彼女を縛っていたストレンジの鎖は解かれ、ピッピコへと繋がるゲートが開いた。
──ライ、わたくしにかけられた状態異常を解除して頂戴。
ルイーズは心の中でライに命じ、身体にかけられていた状態異常を解除させた。
「……ッ!?」
その瞬間、視界がぱっと開ける。
見えたのは、敵と交戦するジェルヴェールとサビーヌの姿。中でもジェルヴェールの様子は酷かった。喉元が溶け始めているのか、首から胸元にかけて真っ赤な血が滴っている。
──このままじゃ、ジル様が……!
ルイーズは咄嗟に水砲を撃ち放ち、敵ノクスの動きを遮った。
ジェルヴェールから引き離すように、次々と水の弾丸を放ち続ける。
「ライ! ジル様の傷を癒して!」
ノクスの注意を引きつけている間に、ルイーズはライへと命じてジェルヴェールの回復を急がせた。
本来、ピッピコを外で顕現させるのは禁じられている。だが今は緊急時。許可が降りていようがいまいが、そんなことを気にしている暇はなかった。
「へぇ……やってくれるじゃねぇか、女ァァ!」
一騎打ちに割って入ったルイーズに、ノクスは怒気を孕んだ声を上げる。
その瞬間、標的はジェルヴェールからルイーズへと切り替わった。
──それでいい。狙い通りよ。
ジェルヴェールから敵の目を逸らす。それがルイーズの狙いだった。
「っ……はぁ、はぁっ……!」
誤算が生じた。攻撃を数発放っただけで、ルイーズの身体は限界を迎えつつあった。
肩が大きく上下し、息は荒く、脚が震える。視界も滲み、力がまるで入らない。
そのまま、膝が崩れ落ちた。
「まさか……」
「くくっ……ようやく気づいたか? あんたのことは一番警戒してたからな。ただ捕らえて鎖で縛っただけ、なんて思ったか?」
ノクスの声が嘲るように響く。
ルイーズは奥歯を噛みしめ、悔しげに顔を上げた。
「体力と能力を奪われていたとは気が付かなかったわ……」
「それだけじゃねぇ。あの鎖には毒も仕込まれてる。蚊の針を参考にしてな、刺されても気づかねぇように工夫されてるんだとよ」
その言葉に、ルイーズは目を見開いた。
先ほどからひどく鼓動が速くなり、じっとりと額に汗が滲んでいた理由が、ようやく腑に落ちた。
「どうやらその毒は、あんたの“ペット”でも除去できねぇらしいな。解毒できるのはこの薬だけだ」
そう言って、ノクスは懐から一本の注射器を取り出して見せつける。
中には不気味な光を放つ青緑の液体が揺れていた。
「死にたくなきゃ、大人しくこっちに来い」
その誘いに、ルイーズは悔しげに奥歯を噛みしめる。
彼らはルイーズを「依代」として利用するつもりなのだ。毒を仕込んでいたのは、ただ逃がさないため。
つまり、すぐに殺すつもりはない。だが、毒が体を蝕んでいくのは時間の問題。持って数日といったところか。
「お断りするわ」
即答だった。
それにノクスは、思いのほか冷静な声で応じた。
「お前がこっちに来れば、他の連中からは手を引く。俺たちはこれで撤退するつもりだ。それでも拒むのか?」
先程までの怒声や狂気じみた様子から、単純で激情型の男かと思っていたが、違う。
感情が顔に出やすいだけで、決して馬鹿ではない。
そして何より、敵はルイーズ性格をよく理解していた。
単に目の前の戦力だけを見て動いているわけではない。
恐らく、ここに来たのはジェルヴェールとサビーヌだけではない。
他の仲間たちも、別の戦場で戦っている。彼らのことを考えて、ルイーズが動くと判断したのだ。
──わたくし一人が向こうへ行けば、他のみんなは助かるかもしれない。
そんな思考が脳裏によぎった。
「断る」
ルイーズではない誰かの声が空気を裂いた。
次の瞬間、ノクスが立っていた場所に鋭い氷の針が無数に出現し、地面から突き刺すように噴き出した。
ノクスは舌打ちしながらも、それを軽やかに避けて距離を取った。
「完全復活したか。だが、それでいいのか?断ればその女は確実に死ぬ。今ここで俺たちに渡しておいて、後で奪い返すって手もあるぜ?」
「彼女は貴様などには渡さない。そして、死なせもしない」
ジェルヴェールの声は静かで、だが確かな決意を帯びていた。
「俺から解毒剤を奪うつもりか?」
ノクスの挑発的な声を無視して、ジェルヴェールはルイーズのもとへと歩み寄った。
彼の瞳は真っすぐに彼女だけを見ていた。
「ありがとう、ルイーズ嬢。君のおかげで助かった」
「ジル……さ、ま……わたくし……っ」
立ち上がろうとしたルイーズを、ジェルヴェールは躊躇なく抱き上げた。
お姫様抱っこされる形になり、ルイーズの頬は一気に赤く染まる。
「あ、あの……ジル様!?」
「君は誰にも渡さない」
ジェルヴェールは軽やかにルイーズを抱えたまま壁際へと移動し、そっと降ろした。
その間もノクスの視線は鋭く、機を窺っている。
「俺が片をつける」
「え?し、しかし相手は手強いですわ。お一人では……」
「確かに手強い。俺も己の未熟を思い知らされた」
「なら──」
「だが、だからといって、ここで引き下がるわけにはいかない」
ジェルヴェールはゆっくりと振り返り、ノクスと正面から対峙する。
ルイーズは声をかけようとしたが、その背に宿る覚悟に、言葉を失った。
「お別れのキッスは済んだか?最後になるかもしれないし、もうちょっと名残惜しんでくれてもいいんだぜ?」
ノクスが嗤いながら挑発する。
「必要ない。俺は死なない。お前から解毒剤を奪い、ルイーズ嬢も救ってみせる」
「可愛げがねぇな。なら、やれるもんならやってみな!」
ノクスとジェルヴェール、両者の殺気が空気を震わせる。
次の瞬間、動いたのはジェルヴェールだった。
氷の剣を手に、一気に距離を詰める。
「意気込んだ割には、芸がない攻撃だな!」
「安心しろ。趣向は変えてある」
「……なにっ!?」
ノクスの周囲に、突如として二十本もの氷剣が現れた。
まるで陣を敷いたかのように囲み、四方八方から一斉に襲いかかる。
「舐めるなよ!」
ノクスは舌打ちしながらも、滑るように氷剣をかわし、一部は酸で溶かして無効化する。
「この程度で……!」
彼が右手を前に突き出すと、五本の指先から酸で構成された無数の小球が、弾丸のようにジェルヴェールへ向かって飛び出す。
ジェルヴェールはそれらを氷剣で受け止め、溶けた部分を即座に補修しながら前進。
そのまま、あと数メートルという距離で、彼は手にした氷剣を投擲した。
「無駄だ──。な、に……!」
ノクスは片手を突き出して氷剣を掴むと、剣先からじわじわと溶かし始めた。
だが、それはジェルヴェールの思惑通り。剣先が溶けると同時に、氷剣は姿を変え、ノクスの拳を逆に氷で包み込む。
「くくっ、片手を封じたつもりか?こんな氷、すぐに溶かして──」
「その一瞬で、十分だ」
ノクスの意識が氷に囚われた拳へと逸れた刹那、ジェルヴェールは間合いを詰め、拳を突き出す。
ノクスは間一髪でその拳を躱した。
「っぶねぇ……だが、懐ががら空きだぜ……っ!」
体勢を崩しながらも、ノクスはジェルヴェールの隙を狙って腕を伸ばす。
しかし、それさえも計算の内だった。ジェルヴェールは拳を振り抜いた勢いのまま身体を反転させ、右足を軸に回転。
氷を纏わせた左足でノクスの脇腹へ鋭い回し蹴りを叩き込んだ。
「すご……い」
ルイーズは思わず息を呑む。無駄のない華麗な動きに、目を奪われた。
蹴りの直撃と共に、ノクスの脇腹には氷が貼り付き始めている。
「けっこうやるじゃねぇか……」
ノクスは脇腹を押さえながら、広がり始めた氷を酸で焼き切る。
一度距離を取ると、低く笑いながら顔を俯かせた。
「クククク……じゃあ、こっちも少し本気を出すとしようか」
顔を上げた瞬間、ノクスは地を蹴り、猛然と突進してくる。
その動きは先程とは比べものにならない。鋭さと速度が段違いだ。
迫る拳を、ジェルヴェールは氷を纏った両腕で受け止めるが──
「ぐっ……!」
受け止めたはずの一撃の重さに、ジェルヴェールは後方へと吹き飛ばされる。
追い打ちをかけるように、ノクスが迫る。
怒涛の連撃が、ジェルヴェールのガードを削るように叩き込まれた。
氷の防御が徐々に削られ、補修が追い付かなくなってきた。
なんとか距離を取ろうと、ジェルヴェールは後方へ跳ぶ。
だが、それすらもノクスは読んでいたかのように地を踏み込み、瞬時に懐へ潜り込んでくる。
「終わりだッ!」
ノクスの拳が横から振るわれ、ガードの甘くなったジェルヴェールの顔面を狙う。
「……っ!」
ジェルヴェールはとっさに上半身を仰け反らせ、バク転するように身を反転。
地を蹴って両手で体重を支えると、襲いくる拳を左膝で受け流し、その反動を利用して右足を振り上げる。
回し蹴りがノクスの頭部を襲った。
「なかなかやるじゃねぇか……!」
ノクスは咄嗟に左腕で蹴りを受け止める。
両者の動きは次第に速さを増し、戦闘は更なる激化を予感させる。その時だった。
ドゴォォォォン!
突如、天井が大音響と共に崩れ落ちた。
舞い上がる砂埃と共に、瓦礫が部屋中に降り注ぐ。
ルイーズを縛っていた鎖の拘束が解け、ようやく自由を得た彼女の耳に届いたのは、こもりがちで不鮮明ながらも、胸の奥に響く愛しい人の声だった。
微かにしか聞こえない。けれど、その声音を聞き間違えるはずがない。
だけど、見えない。愛しい人の顔が、まるで霧の向こうにあるように、見えなかった。
もっと、はっきりと。
貴方の声を、貴方の姿を。
そして、貴方と言葉を交わしたい。
その存在を確かめるように、ルイーズは震える手を伸ばす。
指先が頬に触れた。少し冷たい、けれど確かな熱を持った肌。
生きている。ここに、彼がいる。助けに来てくれた。それだけで、胸が張り裂けそうになるほど嬉しかった。
だけど、貴方は残酷だ。
──ねえ、ジル様。
どうして、私を助けに来たのですか?
仲間だから?
それとも、ロラン様やドナシアン様の命令で?
貴方は、どんな想いでここへ来たの?
どんな顔で、私の名を呼んだの?──
ルイーズがジェルヴェールに抱く想いは、会えなかった日々の積み重ねなど比にならないほど、急速に、そして確実に胸の奥から溢れ出していく。
彼の姿を見るたび、声を聞くたびに、心がジェルヴェールを求めてしまう。
ただ会えるだけで幸せだったのに、望んではいけない願いが次々と生まれていく。
この暗闇の向こうで、今、彼はどんな表情をしているのだろうか。
──どうか……ほんの少しだけでいい。今だけは、わたくしのために。わたくしのことを想って助けに来てくれたのだと、そう期待してもいいでしょうか。
ジェルヴェールの声が、彼女の異変を察知し問いかけてくる。
その声に応えようとルイーズは口を開くが、声は出ない。漏れ出たのはただの息だけだった。
そのとき鼻を衝く、肉が焼けるような臭い。
「げほっ……がっ……」
ジェルヴェールの苦しげな咳き込みが響いた。
すぐさまルイーズは状況を悟る。敵の攻撃が、彼に届いたのだ。
直後、目前で交わされる攻防。
ジェルヴェールと敵──No.5、“ノクス”との死闘が始まった。
すぐに加勢したかった。けれど、今の彼女では、気配を感じ取ることしかできず、まともな攻撃は望めない。
それでも、傍にいるだけではいられなかった。
──ライ、来て。
心の中でルイーズは小さく呼びかける。
先ほどまで彼女を縛っていたストレンジの鎖は解かれ、ピッピコへと繋がるゲートが開いた。
──ライ、わたくしにかけられた状態異常を解除して頂戴。
ルイーズは心の中でライに命じ、身体にかけられていた状態異常を解除させた。
「……ッ!?」
その瞬間、視界がぱっと開ける。
見えたのは、敵と交戦するジェルヴェールとサビーヌの姿。中でもジェルヴェールの様子は酷かった。喉元が溶け始めているのか、首から胸元にかけて真っ赤な血が滴っている。
──このままじゃ、ジル様が……!
ルイーズは咄嗟に水砲を撃ち放ち、敵ノクスの動きを遮った。
ジェルヴェールから引き離すように、次々と水の弾丸を放ち続ける。
「ライ! ジル様の傷を癒して!」
ノクスの注意を引きつけている間に、ルイーズはライへと命じてジェルヴェールの回復を急がせた。
本来、ピッピコを外で顕現させるのは禁じられている。だが今は緊急時。許可が降りていようがいまいが、そんなことを気にしている暇はなかった。
「へぇ……やってくれるじゃねぇか、女ァァ!」
一騎打ちに割って入ったルイーズに、ノクスは怒気を孕んだ声を上げる。
その瞬間、標的はジェルヴェールからルイーズへと切り替わった。
──それでいい。狙い通りよ。
ジェルヴェールから敵の目を逸らす。それがルイーズの狙いだった。
「っ……はぁ、はぁっ……!」
誤算が生じた。攻撃を数発放っただけで、ルイーズの身体は限界を迎えつつあった。
肩が大きく上下し、息は荒く、脚が震える。視界も滲み、力がまるで入らない。
そのまま、膝が崩れ落ちた。
「まさか……」
「くくっ……ようやく気づいたか? あんたのことは一番警戒してたからな。ただ捕らえて鎖で縛っただけ、なんて思ったか?」
ノクスの声が嘲るように響く。
ルイーズは奥歯を噛みしめ、悔しげに顔を上げた。
「体力と能力を奪われていたとは気が付かなかったわ……」
「それだけじゃねぇ。あの鎖には毒も仕込まれてる。蚊の針を参考にしてな、刺されても気づかねぇように工夫されてるんだとよ」
その言葉に、ルイーズは目を見開いた。
先ほどからひどく鼓動が速くなり、じっとりと額に汗が滲んでいた理由が、ようやく腑に落ちた。
「どうやらその毒は、あんたの“ペット”でも除去できねぇらしいな。解毒できるのはこの薬だけだ」
そう言って、ノクスは懐から一本の注射器を取り出して見せつける。
中には不気味な光を放つ青緑の液体が揺れていた。
「死にたくなきゃ、大人しくこっちに来い」
その誘いに、ルイーズは悔しげに奥歯を噛みしめる。
彼らはルイーズを「依代」として利用するつもりなのだ。毒を仕込んでいたのは、ただ逃がさないため。
つまり、すぐに殺すつもりはない。だが、毒が体を蝕んでいくのは時間の問題。持って数日といったところか。
「お断りするわ」
即答だった。
それにノクスは、思いのほか冷静な声で応じた。
「お前がこっちに来れば、他の連中からは手を引く。俺たちはこれで撤退するつもりだ。それでも拒むのか?」
先程までの怒声や狂気じみた様子から、単純で激情型の男かと思っていたが、違う。
感情が顔に出やすいだけで、決して馬鹿ではない。
そして何より、敵はルイーズ性格をよく理解していた。
単に目の前の戦力だけを見て動いているわけではない。
恐らく、ここに来たのはジェルヴェールとサビーヌだけではない。
他の仲間たちも、別の戦場で戦っている。彼らのことを考えて、ルイーズが動くと判断したのだ。
──わたくし一人が向こうへ行けば、他のみんなは助かるかもしれない。
そんな思考が脳裏によぎった。
「断る」
ルイーズではない誰かの声が空気を裂いた。
次の瞬間、ノクスが立っていた場所に鋭い氷の針が無数に出現し、地面から突き刺すように噴き出した。
ノクスは舌打ちしながらも、それを軽やかに避けて距離を取った。
「完全復活したか。だが、それでいいのか?断ればその女は確実に死ぬ。今ここで俺たちに渡しておいて、後で奪い返すって手もあるぜ?」
「彼女は貴様などには渡さない。そして、死なせもしない」
ジェルヴェールの声は静かで、だが確かな決意を帯びていた。
「俺から解毒剤を奪うつもりか?」
ノクスの挑発的な声を無視して、ジェルヴェールはルイーズのもとへと歩み寄った。
彼の瞳は真っすぐに彼女だけを見ていた。
「ありがとう、ルイーズ嬢。君のおかげで助かった」
「ジル……さ、ま……わたくし……っ」
立ち上がろうとしたルイーズを、ジェルヴェールは躊躇なく抱き上げた。
お姫様抱っこされる形になり、ルイーズの頬は一気に赤く染まる。
「あ、あの……ジル様!?」
「君は誰にも渡さない」
ジェルヴェールは軽やかにルイーズを抱えたまま壁際へと移動し、そっと降ろした。
その間もノクスの視線は鋭く、機を窺っている。
「俺が片をつける」
「え?し、しかし相手は手強いですわ。お一人では……」
「確かに手強い。俺も己の未熟を思い知らされた」
「なら──」
「だが、だからといって、ここで引き下がるわけにはいかない」
ジェルヴェールはゆっくりと振り返り、ノクスと正面から対峙する。
ルイーズは声をかけようとしたが、その背に宿る覚悟に、言葉を失った。
「お別れのキッスは済んだか?最後になるかもしれないし、もうちょっと名残惜しんでくれてもいいんだぜ?」
ノクスが嗤いながら挑発する。
「必要ない。俺は死なない。お前から解毒剤を奪い、ルイーズ嬢も救ってみせる」
「可愛げがねぇな。なら、やれるもんならやってみな!」
ノクスとジェルヴェール、両者の殺気が空気を震わせる。
次の瞬間、動いたのはジェルヴェールだった。
氷の剣を手に、一気に距離を詰める。
「意気込んだ割には、芸がない攻撃だな!」
「安心しろ。趣向は変えてある」
「……なにっ!?」
ノクスの周囲に、突如として二十本もの氷剣が現れた。
まるで陣を敷いたかのように囲み、四方八方から一斉に襲いかかる。
「舐めるなよ!」
ノクスは舌打ちしながらも、滑るように氷剣をかわし、一部は酸で溶かして無効化する。
「この程度で……!」
彼が右手を前に突き出すと、五本の指先から酸で構成された無数の小球が、弾丸のようにジェルヴェールへ向かって飛び出す。
ジェルヴェールはそれらを氷剣で受け止め、溶けた部分を即座に補修しながら前進。
そのまま、あと数メートルという距離で、彼は手にした氷剣を投擲した。
「無駄だ──。な、に……!」
ノクスは片手を突き出して氷剣を掴むと、剣先からじわじわと溶かし始めた。
だが、それはジェルヴェールの思惑通り。剣先が溶けると同時に、氷剣は姿を変え、ノクスの拳を逆に氷で包み込む。
「くくっ、片手を封じたつもりか?こんな氷、すぐに溶かして──」
「その一瞬で、十分だ」
ノクスの意識が氷に囚われた拳へと逸れた刹那、ジェルヴェールは間合いを詰め、拳を突き出す。
ノクスは間一髪でその拳を躱した。
「っぶねぇ……だが、懐ががら空きだぜ……っ!」
体勢を崩しながらも、ノクスはジェルヴェールの隙を狙って腕を伸ばす。
しかし、それさえも計算の内だった。ジェルヴェールは拳を振り抜いた勢いのまま身体を反転させ、右足を軸に回転。
氷を纏わせた左足でノクスの脇腹へ鋭い回し蹴りを叩き込んだ。
「すご……い」
ルイーズは思わず息を呑む。無駄のない華麗な動きに、目を奪われた。
蹴りの直撃と共に、ノクスの脇腹には氷が貼り付き始めている。
「けっこうやるじゃねぇか……」
ノクスは脇腹を押さえながら、広がり始めた氷を酸で焼き切る。
一度距離を取ると、低く笑いながら顔を俯かせた。
「クククク……じゃあ、こっちも少し本気を出すとしようか」
顔を上げた瞬間、ノクスは地を蹴り、猛然と突進してくる。
その動きは先程とは比べものにならない。鋭さと速度が段違いだ。
迫る拳を、ジェルヴェールは氷を纏った両腕で受け止めるが──
「ぐっ……!」
受け止めたはずの一撃の重さに、ジェルヴェールは後方へと吹き飛ばされる。
追い打ちをかけるように、ノクスが迫る。
怒涛の連撃が、ジェルヴェールのガードを削るように叩き込まれた。
氷の防御が徐々に削られ、補修が追い付かなくなってきた。
なんとか距離を取ろうと、ジェルヴェールは後方へ跳ぶ。
だが、それすらもノクスは読んでいたかのように地を踏み込み、瞬時に懐へ潜り込んでくる。
「終わりだッ!」
ノクスの拳が横から振るわれ、ガードの甘くなったジェルヴェールの顔面を狙う。
「……っ!」
ジェルヴェールはとっさに上半身を仰け反らせ、バク転するように身を反転。
地を蹴って両手で体重を支えると、襲いくる拳を左膝で受け流し、その反動を利用して右足を振り上げる。
回し蹴りがノクスの頭部を襲った。
「なかなかやるじゃねぇか……!」
ノクスは咄嗟に左腕で蹴りを受け止める。
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