ゼロ・オブ・レディ~前世を思い出したら砂漠に追放され死ぬ寸前でした~

茗裡

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第四章 澄幻国編

闇の中の少女

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「……お願いっ、一人にしないで」

 かすかに聞こえる子供のすすり泣く声。

 ──そこで泣いているのは誰だろう?

 浮かびかけた意識は、再び闇の深みに沈んでいった。

 真っ暗な世界で、ただ泣き声だけが響く。
 ティアは声を頼りに、闇の中を手探りで歩いた。

「誰かいるの?」

 呼びかけても返事はない。
 闇に包まれ、方向感覚もわからないまま声のする方へと歩みを進める。

「……ないで……一人にしないで」

 幼い女の子の声。
 震える声には、ひどく深い寂しさと恐れが滲んでいた。

「誰?どこにいるの?」

 再び声をかけるティア。
 その時、背後から声がして慌てて振り返ると、淡く光を纏った小さな少女がうずくまって泣いているのが見えた。

 ティアは息を呑んだ。

 ──あれは……私?

 脚を抱え、顔を伏せて肩を震わせる幼い少女。その姿は、幼い頃のレティシア自身だった。

「私はおとーさまの子じゃないの?おかーさま……どうしてそばにいてくれないの?レティシアは今日も独りです……」

 幼いレティシアの声を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
 それと同時に、遠い過去の記憶が波のように押し寄せる。

「わたくしたちは外出してきますから、貴方は家で家庭教師の言うことをしっかりと聞いて、立派なレディになる為にきちんとお勉強するのよ。今日の帰りは遅くなりますから、わたくしたちが帰るまでには食事もお風呂も全て終わらせて部屋にいなさい」
「……はい。おかあさま」
「さあ、セドリック行くわよ。公爵様が待っているわ」

 継母は幼いセドリックの手を取り、迷いなく屋敷の外へと歩み去っていく。
 レティシアを置き去りにしたまま、木製の扉が重たく閉じられた。

 その日は“家族”で舞台鑑賞と食事を楽しむ予定の日だった。
 けれど、その“家族”の輪の中にレティシアの居場所は初めからなかった。

 扉が閉まる音が、まるで心まで閉ざすように響く。
 レティシアは幼い胸の奥で、言葉にならない痛みを必死に飲み込んだ。

 厳しいレッスンを終え、ようやく食卓に着いた時も、迎えてくれるのは無言の従者たちだけ。

 誰も声をかけず、ただ壁際に立ち、レティシアを見下ろすように笑う。

 目の前に置かれたのは、カビの浮いた固いパンと、塩をひとつまみ入れただけの味気ないスープ。

 父や継母が家にいる時はきちんとした食事が出るのに──。

 でも、家族が外出し、家に一人残された日は、決まってこんな仕打ちを受けた。

 レティシアは俯きながら、誰にも文句を言わず、モソモソと食べ始める。

 本当は泣き出したいのに、涙も見せられなかった。
 従者たちは壁際でクスクスと笑っている。

 ──言ったところで、何も変わらない。

 過去に庭で転ばされた時も、継母は冷たい目を向けただけ。
 父に告げると、「そんなことでいちいち報告するな」と叱られた。

 従者たちも、それを分かっているからこそ公爵令嬢に平気でこんなことをする。

 レティシアはずっと知っていた。
 “家族”にとって、自分はただ面倒事を持ち込む厄介者でしかないと。

 ──いい子にするから……だから……

 胸の奥で、幼いレティシアは何度も何度もそう願った。
 それでも、その願いが叶ったことは、一度もなかった。

 再び子供のすすり泣く声が聞こえる。
 過去の記憶から暗闇へと意識が戻り、目の前には、小さな身体を震わせて蹲っている幼い少女がいた。

「私は要らない子なの?だから置いていってしまったの……?」

 そのか細い声が、ティアの胸の奥を鋭く突き刺した。
 物心ついた時には、母はもういなかった。そして、もし別の父がいるというのなら、なぜ迎えに来てくれないのか──幼い頃、そんな思いを胸の中で繰り返していた。
 公爵家で感じた強烈な疎外感。夜毎、枕を濡らしながら、目を閉じて空想の家族に話しかけていた日々は、一度や二度ではない。

 ティアは唇をきつく結び、握りしめた拳に力を込める。

「ティア!」

 その時、胸の奥に、いくつもの温かな声が響いた。
 懐かしくて、あたたかくて、優しい声たち。
商隊の仲間たちの顔が瞼の裏に浮かぶ。
 心を照らす光のように、自分の名を呼んでくれた人たち。

 ふっと拳の力が抜ける。

 ティアはゆっくりと膝をつき、震える少女の肩に手を置いた。

「どうしたの?」

 そっと問いかけると、少女ははじめて顔を上げた。
 湖面のように澄んだ青い瞳が涙に濡れて、ティアを見つめ返す。

 ──ティアは息を呑んだ。
 幼い頃の自分だと思っていたが、その顔も瞳の色も違っていた。

「貴方は誰?どうして泣いているの?」

 戸惑いながらも問いかけると、少女は小さな声で言葉を紡ぐ。

「あのね、みこね、本当は生まれてきちゃ駄目だったんだって……。みこの血は、けがれているの」
「みこ……ちゃん?けがれてるって、どういうこと……?」

 ティアの問いかけに、みこと名乗った少女はポロポロと涙をこぼす。

「母様と父様は……みこが要らない子だから、みこだけ置いて死んじゃったの……」

 途切れ途切れの言葉。それでも、痛いほど伝わる孤独と寂しさ。
 みこもまた、自分と同じように独りぼっちで、誰かに愛されたかったのだとティアは感じた。

「生まれてきて……ごめんなさいっ……!」

 その言葉は、ティア自身の古い傷を深く抉った。
 幼い頃、何度も何度も思っていたこと──嫌われる自分が悪いのだと。生きていることが罪だとさえ思っていたあの頃の気持ちと、痛いほど重なった。

 でも今なら分かる。生まれてきたこと自体が悪なのではないと。

 ティアは、みこの小さな身体を強く抱きしめた。

「生まれただけで悪い子なんて、いないんだよ。みこちゃんは、生まれてきてよかったんだよ。ずっと、いていいんだよ──」

 胸の奥から溢れる想いを、そのまま言葉にして伝えると、みこの肩が震え、また涙が零れた。
 その涙は、少しずつ、暗闇の中に小さな光を灯していくように見えた。

「ありがとう。お姉ちゃん……優しいね」

 みこは小さな両腕を回し、ティアの背中をぎゅっと抱きしめた。
 その細い身体は淡い光を帯び、やがて半透明になっていく。
 そして、ゆっくりとその姿は変わり始めた。小さな少女は、ティアと同じくらいの年頃の女性へと成長していく。

「まさか精神まで繋がるとは思っていなかったわ。吃驚したけれど……貴女、本当に面白いわね」

 驚きに息を呑むティアを見つめ、女性は妖艶に微笑む。

「女王と同じ力を持っているなんて……もしかして、貴女も子孫なの?」
「女王?貴方はいったい……?みこ……ちゃんなの?」

 ティアの問いに、女性が何かを告げようとした、その瞬間──

「ア……ティア!……起きて!」

また遠くで誰かの泣き声が響いた。
でも、今度は誰の声か、すぐに分かった。

 ──ルゥナ!

「時間ね」

 巫女装束を纏ったその姿は淡く揺らぎ、闇に溶けるように霞んでいく。

「現実でも会えるのを楽しみにしているわ」
「待って!貴女は誰なの!?」

 闇へ消えゆく直前、妖しく笑った唇が呟く。

「そのうち分かるわ。それより……早く戻って。お友達を泣かせたら、だめよ」

 次の瞬間、光も音も奪われたように、世界は漆黒一色へと沈んだ。

「ティア!死なないで……ルゥナを一人にしないで!」

 濡れる頬の感覚と、温かい声が意識を現実へと引き戻す。
 重たく閉じていた瞼をゆっくりと開けると、涙でぐしゃぐしゃになったルゥナの顔が目の前にあった。

 目を開いた瞬間、ルゥナは小さな身体で飛びついてきた。

「よがっ……よかったよ……!ティア、生きてた……ぁ……」

 うわぁーん……と声をあげて泣きじゃくるルゥナを、ティアはそっと抱きしめ、その頭を撫でる。

「ルゥナも無事で良かった……。助けてくれたの?」

 滝の流れに呑まれ、二人とも意識を失ったはずだ──そう思い返しながら訊ねる。

「ううん……気が付いたら、知らない浜辺に打ち上げられてて……。目を開けたらティアが倒れてて……息もしてなくて……本当に、死んじゃうかと思って、怖くて、怖くて……!」

 ルゥナの声は震え、再び大粒の涙が零れ落ちる。
 小さな肩を震わせるその背には、かつて仲間や家族を奪われた深い傷が残っている。
 一人になることを、誰よりも恐れている小さな心。

 ──一人は、寂しい。

 幼い頃の自分も知っている、その痛み。

 ティアは胸がきゅっと締めつけられるのを感じながら、そっとルゥナの頭を抱え込み、優しく抱きしめた。

「怖い思いをさせてごめんね……。先のことは、どうなるか分からないけど──」

 そして、祈るように、言葉を紡いだ。

「でもね、ルゥナ。別れが来るその時まで……私はルゥナのそばにいるよ。一緒にいるから──だから、大丈夫だよ」

小さな命を抱くその胸の奥で、確かな温もりが脈打っていた。
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