ゼロ・オブ・レディ~前世を思い出したら砂漠に追放され死ぬ寸前でした~

茗裡

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第四章 澄幻国編

水の都・澄幻国

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朧雅ろうが!噂の子がこの澄幻国ちょうげんこくに来たって本当!?」

 パタパタと渡殿の廊下を走り抜けてきたのは、巫女装束を纏った若い女性だった。彼女は、廊下を歩いていた一人の男性の元へと勢いよく駆け寄る。

翠琴みこと様、廊下を走ってはいけないと、あれほど申し上げているのですが……」

 冷ややかに眉をひそめる朧雅に、翠琴は手を振って遮った。

「説教はいいから!本当に来たのか早く教えて!」

 翠琴と呼ばれた女は、熱のこもった声で問いかける。その瞳は、期待と興奮に小さく揺れていた。

「全く……貴女という人は……。一体、どこからその話を聞かれたのですか?」

 朧雅の問いに、翠琴は小さく首を傾げながら答える。

「え?誰って……ラズフェルドから」

 言うが早いか、いつの間にか翠琴の背後に人影が現れる。片手を軽く挙げ、笑みを浮かべた長身の男がいた。

「やっほー。久しぶり、ローガちゃん」

 ラズフェルドが軽やかに挨拶を告げた、その瞬間だった。

 顔面めがけて鋭く何かが飛ぶ。
 ラズフェルドはひらりと首を引いて避けると、それは背後の柱を一本、見事に貫き折った。

 朧雅が懐から取り出し投げたのは、ただの扇子ではなく重みのある鉄扇だった。

「翠琴様、このような不埒者を屋敷に入れては駄目だと、いつも申し上げているでしょう」
「相変わらず、ローガちゃんは僕のことが嫌いなんだねェ」

 ラズフェルドは肩を竦め、あっけらかんと笑う。

「貴方はもう少し弟君のゼルヴァン殿を見習ったらどうですか。同じ双子だというのに、こうも性格が違うとは……」
「アレも君みたいに堅物だから、君とは波長が合うんだろうね」

 ラズフェルドは悪戯っぽく片目を細める。

「この者、そこらの川にでも捨ててきますので、翠琴様は少々お待ちください」

 朧雅は低く言い放ち、笑顔のままラズフェルドの頬をむんずと掴むと、そのまま片腕で持ち上げる。

「朧雅!ラズフェルドとは仲間なんだから、仲良くしなさい!」
「しかし……」

 朧雅は抗議しかけたが、腰に手を添え目を吊り上げた翠琴の姿に、息を吐き、渋々ラズフェルドを地に下ろした。

 ラズフェルドは「おー、いたた……」と小さく呻き、捻られて痛んだ首を回しながら、押し潰されていた頬を摩った。

「で、どうなの、朧雅。彼女たちは本当にこの国に来たの?」

 翠琴の声には、先ほどまでの朗らかさの奥に潜む焦燥と期待が滲んでいた。

 朧雅は観念したように小さく頷き、紅い瞳を細めて言った。

「……ええ。数刻前、一行がこの澄幻国に踏み入ったとの報せが入りました」
「もーっ!なんでそういう大事なことをすぐ言わないの!?彼女がこの国に来たら知らせてって、お願いしてたじゃない!」

 翠琴が肩を震わせて詰め寄る。

「しかし……本当に彼女がこちら側に来るとお考えですか?彼女は人間たちと行動を共にしている。つまり、人間側の者ということでは……?」

 朧雅の声は低く、紅い瞳には一瞬、鋭い光が走った。
 しかし翠琴は、薄く唇を歪めて妖しく笑うと、人差し指をそっと唇に当てた。

「それは──人間という生き物がどんなものか……教えてあげればいいだけよ。彼女もすぐに目を覚ますわ」

 夜風が廊下を渡り、白い衣を静かに揺らした。


 #

 数ヶ月前、仲良くなったドワーフの住人たちや、途中まで旅を共にした大道芸の一座に別れを告げて──商隊の一行は、次なる目的地である澄幻国へと向かった。

 そして昼下がりの頃、一行はついにその地へと辿り着いた。

 ティアやルゥナをはじめ、この地を初めて訪れる者たちは、一歩足を踏み入れた瞬間に息を呑んだ。

 遠目からでも伝わってくる幽玄さと神々しさ。言葉を失うほどの圧巻の光景がそこにあった。

 山肌を覆うように広がる深い森。そして剥き出しの断崖を幾筋にも流れ落ちる巨大な滝。その滝の水流は、巨大な樹木の根元を濡らし、霧となって空へと昇っていく。

 さらに視線を上げると、樹木の上空にはいくつもの巨大な透明の球体──浮玉ふぎょくが浮かび、その内部には街並みが広がっているのが見えた。

「そういや、ティアとルゥナは澄幻国来るの初めてだっけ?」

 自然の偉容に見惚れていたティアの耳に、近くにいたミナの声が届く。

「はい……」
「うん、初めて」

 二人が無意識に生返事をすると、ミナは小さく笑った。

「すごいでしょ? 世界は広いけど、国全体がここまで自然と融合してる国なんて、たぶんここだけだよ」

 ミナは商隊に加わってからそこそこ長く、中堅として頼りにされている人物だ。
 そのミナが言うのだから、目の前の光景がどれだけ特別なものかは容易に察せられた。

 霧に霞む浮玉の影と滝の飛沫が織りなす情景は、どこか現実離れしていて、それでいて胸の奥を震わせるような静謐さを湛えている。

「あの空に浮かんでる球体、なんて言うか知ってる?」

 ティアとルゥナが顔を見合わせ、首を横に振ると、ミナは優しく微笑んだ。

「あれは浮玉ふぎょくっていうんだよ。人々はあの中で生活してるんだ」
「私、知ってる!」

 とエリーが瞳を輝かせる。

「浮玉は郡ごとに分かれていて、それぞれ文化も暮らし方も違うんだよね」
「澄幻国は自然が豊かだから、獣人が一番多く住んでる国でもあるんだ」

 ノアも続けて説明を補う。

 聞くところによれば、中には丸ごと一つの浮玉が獣人たちだけで暮らす郡もあるという。

「ほら、他の浮玉よりもひときわ大きいのが一番上にあるでしょ?あれが首郡しゅぐんって呼ばれてるところで……言うなら王都みたいな場所なんだ」

 ミナは浮かぶように指を伸ばし、最も高い位置に堂々と漂う巨大な浮玉を指差した。

「あそこには、他の国でいう王様にあたる“将軍”がいらっしゃるんだよ」

 耳に届く滝の轟きと、木々を揺らす風の音。
 その中で、ティアは胸の奥をじんわりと熱くしながら、はるか空に浮かぶ首郡を見上げた。

 近づくにつれて、目の前に広がる巨木の存在感に圧倒される。
 一本一本が、まるで大地を守護する巨人のようだ。

「どうやって上に登るの!?」

 ルゥナが瞳孔を大きく開き、頭上についた耳の中が淡く桃色に染まる。
 尻尾はピンと立ち、小刻みに震えていることからも、その興奮が伝わってきた。

「これから亀に乗って目的地まで行くんだよ」

 ミナが教えてくれた先、水面には巨大な亀が悠々と浮かんでいた。
 甲羅の中央は円く凹み、給餌器のように形作られており、天井は浮玉と同じように透明な結界で覆われている。

 一行は馬車ごと、その巨大亀の甲羅へと乗り込んだ。

 やがて、亀は深く水の中へと潜り、滝を逆らうようにゆっくりと登り始める。
 けれど、甲羅の内部は魔法で平衡感覚が保たれており、馬車の中にいる者も立って歩けるほどだった。

 ティアたちは馬車を降り、初めての水中の旅路を思い思いに楽しみ始める。

「す、すごい……」

 ティアは言葉を失った。
 結界の外、流れる水の中には見たこともない魚たちが優雅に泳ぎ、光の揺らめきがまるで夢の中の世界のようだった。

「ティア!見て見て!あのお魚さん!初めて見るよ!」

 ルゥナは無邪気に声を弾ませ、結界のすぐそばまで駆け寄ると、尻尾を左右に元気よく揺らした。

「あのお魚……食べられるのかな……美味しいのかな……?」

 じゅるりと垂れる涎。
 さすがネコ科の獣人だと、周囲の者たちが苦笑する。

 ルゥナはついに我慢できずに、結界の外の魚に向かって両手を伸ばした。

「ルゥナ、外に手を出しちゃダメ!」
「ゆっくりに見えても、水流は速いから持っていかれるわ!」

 エリーとノアが声を張り上げるが、その声が届く前に──

 ルゥナの両手は結界をすり抜け、水流に捕らえられた。
 次の瞬間、小さな体はあっという間に水の中へと引きずり出されてしまった。

「ルゥナ!」

 ティアは考えるよりも先に、迷いなく結界の外へと飛び込んだ。

 冷たい水が一気に体を包み、視界が泡で霞む。
 必死に目を凝らすと、小さく流されるルゥナの姿が見えた。

 ──追いつかなきゃ……!

 水流は想像以上に速く、ティアは片目しか開けられない中で必死に手を伸ばす。
 ようやくルゥナの手首を掴み、自分の方へと引き寄せることができた。

 だが、ルゥナの瞼は閉じており、意識はない。
 焦りと恐怖が胸を締めつける。

 ──掴まれる場所は……!

 片手で必死に辺りを探るが、水の中には何もない。
 その間にも、肺が悲鳴を上げ、苦しくて仕方ない。

 ──わたしも……もう……

 口から泡が零れ落ち、意識が遠のき始めたその時──
 かすかな視界の先に、カイとレイの姿が見えた。

 二人が水の中で必死にこちらへと手を伸ばしている。

 ──幻でもいい……!

 ティアは縋るように片手を二人へと伸ばしたが、その距離はまだ遠く──
 何も掴むことなく、意識は闇の中に落ちていった。
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