ゼロ・オブ・レディ~前世を思い出したら砂漠に追放され死ぬ寸前でした~

茗裡

文字の大きさ
3 / 66
第一章 邂逅編

王子との出会い

しおりを挟む
 王家主催の茶会の庭園は、春の陽光に満ちていた。
 咲き誇る花々、柔らかく揺れる噴水の水音、絹の衣擦れ。
 華やかな社交の場にあって、レティシア・アーデンは、あくまで完璧だった。

 微笑を絶やさず、声の調子を少しも乱さず。
 誰の視線にも応じ、どんな嘲笑にも上品に応えた。
 けれど、心の奥に宿った氷のような孤独は、誰にも気づかれぬまま。

 そのときだった。

 ひときわ強い風が吹き抜け、テーブルの上のナプキンが一枚、彼女の前から飛ばされた。
 芝生の上を滑るように飛び、噴水の近くまで転がっていく。

 追おうとしたそのとき──

「落としましたよ、お嬢さん」

 静かで、けれどどこか朗らかな声。
 顔を上げたレティシアの前に立っていたのは、一人の少年だった。

 深い藍の礼装、端整な顔立ちに、まっすぐな碧眼。
 年は彼女と同じくらいだろうか。だが、その立ち居振る舞いには幼さのかけらもなかった。

「ありがとうございます」

 自然とお辞儀をし、微笑を返す。仮面のように、完璧に。
 けれど、彼は少し首をかしげて言った。

「無理して笑う必要はありませんよ」

 その一言に、レティシアの胸がぴくりと震えた。

「え……?」

 少年は、ふっと微笑んだ。
 それは他の誰とも違う笑顔だった。勝ち誇りも、憐れみもなく。ただ真っ直ぐに向けられた眼差し。

「さっきの冗談、少し意地が悪かったでしょう。僕には、あなたが困っているように見えました」

 ああ、この人は──
 この人だけは、わたしの“痛み”に気づいてしまった。
 彼にすべてを見透かされた気がした。

「……申し訳ありません。お見苦しいところをお見せして」

 いつもなら、そう言ってその場を去っただろう。
 けれどその日、レティシアの足は動かなかった。

「別に。見苦しくなんてなかった。むしろ、格好良かったです」
「……?」
「笑ってごまかすなんて、僕には到底できない。誰もあなたの味方をしない中で、それでも立ち続けるなんて、すごいと思いました」

 彼は、王子だった。
 この国の第二王子、ジークハルト・ヴァレンティア。
 けれどそのときの彼は、肩書でもなく、血筋でもなく、ただ一人の「少年」として彼女に話しかけていた。

 レティシアの中で、何かが音を立てて揺れた。
 冷たい仮面の奥に、わずかな熱が灯った。

「……あなたは、変わった方ですね」
「そうですか?でも、今のあなたよりはずっと正直かもしれませんよ」

 ジークハルトはにこりと笑った。
 レティシアはそのとき、初めて本当に、自分の涙を見られてもいいと思えた。

 それは、少女の孤独な仮面劇に差し込んだ、最初の春の光だった。

 あの日から、すべてが変わった。
 あの日、ジークハルトの言葉に触れてから、レティシアの世界は色を取り戻した。
 誰よりも高貴で、誰よりも遠い存在。
 けれど彼は、誰よりも近く、温かな瞳で自分を見てくれた。

 ──もっと綺麗になりたい。
 ──もっと賢くならなければ。
 ──もっと強く、自信を持てるように。

 それからのレティシアは、日々を必死に生きた。
 昼は家庭教師のもとで歴史と外交を。
 夜はひとり部屋で舞踏のステップを繰り返し、鏡に向かって笑顔を練習した。
 誰にも褒められず、誰にも見守られず、それでも彼女は立ち止まらなかった。

 何度も孤独に押し潰されそうになった。
 それでも、ジークハルトの微笑みを思い出すたび、また前を向けた。

 そして、数年の月日が流れた。
 いつしか、社交界の誰もが認める令嬢となったレティシア・アーデン。
 美しさ、気品、教養、そして完璧な振る舞い。
 周囲の噂では「第二王子にふさわしいのは、彼女しかいない」とまで囁かれるようになっていた。

 だが、それは努力の果てに彼が振り向いたというわけではなかった。

 ある夜、父エルネストに呼び出されたレティシアは、書斎の重い扉の前で静かに息を整えた。
 扉の向こうに広がるのは、子どものころから慣れ親しんだ、冷たく静かな空気。

「入れ」

 低く重い声に従い、扉を開ける。

「……お父様」
「王家より通達があった。第二王子ジークハルト殿下との婚約が、正式に内定した」

 その言葉に、時間が止まったような気がした。

 ──やっと、届いた。

 けれど。

「この縁談は、陛下と私の間で取り決めたことだ。お前の気持ちは関係ない」

 その一言が、胸に突き刺さる。

「……わたくしが、努力したからではなくて?」
「努力? 勘違いするな。お前が“選ばれた”のではない。“使える”と判断されたのだ」

 言葉は容赦なかった。
 レティシアは目を伏せ、静かに息を吸う。

 ──そう、分かっていた。最初から、分かっていた。

 けれど、それでも

「光栄に存じます」

 そう答えたレティシアの声は、震えていなかった。

 政略。国の都合。家の利害。
 それが全てだと、父は言った。
 ジークハルト王子の意思がどこにあるかも、告げられなかった。
 それでも、胸の奥で、小さく花が咲いたような音がした。
 あの日、春の庭園で初めて心を見透かされたあの瞬間から、レティシアはずっと、彼の隣に立てる自分になりたいと願っていた。

 愛されたくて。必要とされたくて。選ばれたくて。
 それは今も、何一つ変わっていない。
 たとえそのきっかけが、恋ではなく政略だったとしても。

 ──それでもいい。

 “婚約者”という立場が与えられた今、ようやく彼の隣に立つ「資格」ができたのだ。

「……わたくしは、嬉しいのです」

 ぽつりと、誰に聞かれるでもなく、呟いた。
 彼の隣にいられることが。
 彼と同じ未来を歩む可能性が、確かにそこにあることが。
 政略だと誰が言おうと構わない。
 だとしても、これは自分にとって叶った願いなのだから。

 ──ここから、始めてみせる。

 恋を終わらせたりはしない。
 むしろ、ここからが本当の始まりだ。
 レティシア・アーデンは、諦めない。
 どれほど遠回りでも、いつかきっと、ジークハルト・ヴァレンティアの心を掴んでみせると誓った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。

渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。 しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。 「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」 ※※※ 虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。 ※重複投稿作品※ 表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。

【12月末日公開終了】これは裏切りですか?

たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。 だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。 そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?

追放された聖女は旅をする

織人文
ファンタジー
聖女によって国の豊かさが守られる西方世界。 その中の一国、エーリカの聖女が「役立たず」として追放された。 国を出た聖女は、出身地である東方世界の国イーリスに向けて旅を始める――。

私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜

AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。 そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。 さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。 しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。 それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。 だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。 そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。

幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない

しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。

追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?

タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。 白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。 しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。 王妃リディアの嫉妬。 王太子レオンの盲信。 そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。 「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」 そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。 彼女はただ一言だけ残した。 「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」 誰もそれを脅しとは受け取らなかった。 だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。

夫より強い妻は邪魔だそうです【第一部完】

小平ニコ
ファンタジー
「ソフィア、お前とは離縁する。書類はこちらで作っておいたから、サインだけしてくれ」 夫のアランはそう言って私に離婚届を突き付けた。名門剣術道場の師範代であるアランは女性蔑視的な傾向があり、女の私が自分より強いのが相当に気に入らなかったようだ。 この日を待ち望んでいた私は喜んで離婚届にサインし、美しき従者シエルと旅に出る。道中で遭遇する悪党どもを成敗しながら、シエルの故郷である魔法王国トアイトンに到達し、そこでのんびりとした日々を送る私。 そんな時、アランの父から手紙が届いた。手紙の内容は、アランからの一方的な離縁に対する謝罪と、もうひとつ。私がいなくなった後にアランと再婚した女性によって、道場が大変なことになっているから戻って来てくれないかという予想だにしないものだった……

処理中です...