29 / 66
第三章 ドワーフ国編
坑道の地獄
しおりを挟む
A群の一行が現場の坑道に足を踏み入れたとき、息を呑むような熱気と異臭が全身を包んだ。
まだ暑さの残る季節。だが、瘴蚊を避けるために皆が長袖で身を固め、首元や手首まで布で覆っている。重ね着で汗が滲み出すが、誰一人として袖をまくろうとはしなかった。
暗く、湿った空間に、人々の苦悶が響く。
岩壁にもたれ、床に横たわり、隅にうずくまる者たち。
そのどれもが、正視できないほどに苦しげだった。
青白く乾いた唇。震えるまぶた。止まらない咳と呻き。あちこちに吐しゃ物が広がり、消毒の匂いすら追いつかない。
その惨状に、誰ともなく、ぽつりと呟いた。
「……酷い……」
それは呻きのようで、祈りのようでもあった。続けて言葉を発する者はいなかった。ただ、全員がその一言の重みに、ただ黙って息を詰めていた。
バルニエだけが、沈黙を裂くように動いた。
「手持ちの桶を並べろ。水を張って、すぐに手と器具を浸けて消毒!次に、痙攣の強い者は入り口付近へ!風の通る場所に。密集を避けろ」
坑道内の限られた空間。その構造を熟知した上で、迅速な判断を下していく。
「重症者は中央にまとめろ。動かせない者はその場で処置を始める。風下は避けろ、瘴蚊が集まりやすい。明かりを確保しろ、影に潜まれる」
バルニエの声が響くたびに、空気が張り詰める。誰もが即座に動き始めた。
「人数を数えろ、年齢と症状も!名前がわかるなら記録するんだ。意識がはっきりしている患者は外へ!」
男たちが手分けして担架を組み、意識のある者から順に抱えていく。通路の幅と天井の低さを読み、搬出の順序が即座に決まる。
「B群、C群と連携を取れ!外で受け入れ態勢を整えているはずだ。空きのある場所から順に搬送!」
「了解!」
残った女たちはバルニエの補助につき、道具を渡し、水を差し出した。
「ルゥナ、霧晶果を。砕いて、すり潰してくれ。できるだけ早く」
少女は大きく頷くと、大きめのすり鉢に霧晶果を入れ、慎重に果実を扱い始めた。指先を震わせながらも、丁寧にすり鉢を回す。
「……ほら、飲みな。薬だよ。諦めるんじゃないよ」
完成した薬液は、お上さんの手に渡り、次々と重症者の喉元に流し込まれていく。
ティアとミナは布を湿らせ、清潔なタオルで患者の体を一人ずつ拭っていた。熱を帯びた肌に触れながら、少しでも苦痛を和らげようと必死だった。
目を背けたくなる光景の中、誰もがそれぞれの手で命を支えていた。
ひと通りの搬送と初期処置が終わると、坑道内にはひとまずの静けさが訪れた。
重苦しい空気の中で、遠くの咳や呻き声だけが、かすかに響いている。
ティアは最後に拭いていた患者の額からタオルを離し、そっと息を吐いた。滲んだ汗と涙に似たものが混じり、タオルの端ににじむ。
その隣で、ミナがふと手を止め、ぽつりと呟く。
「……この街、立ち直れるのかな」
声はほとんど聞き取れないほどに小さかったが、確かに届いていた。
バルニエが、傷薬をしまいながら低く答える。
「そうだな……街が機能し始めるまで、一ヶ月といったところだろう。病の拡大を止めて、物流を回復させる。それが俺たちの役目だ。……経済の立て直しは、領主の仕事だ」
その言葉には、任務の線引きだけでなく、どこか苦い諦観が滲んでいた。
一方、坑道の外では、B郡・C郡がすでに街の住民たちへの救援を開始していた。
広場に即席の診療所が設けられ、手当を受けた人々が列をなして座っている。
重症者こそ少ないが、衰弱した者、咳をこらえる者、脱水症状の子どもたち。そのすべてが、助けを必要としていた。
街にかろうじて残っていた医師と修道士たちも駆けつけ、治療班に加わってくれている。
B郡とC郡を統括するのは、商隊の団長本人。普段は物静かで寡黙な男だが、戦場のような状況を前に、冷静な采配を振るっていた。
「診療を受けた者は名簿に記録していけ。霧晶果の在庫と使用数も、随時報告を」
「団長、こちらの子ども、薬が効いてきたみたいです。熱が下がって、笑ってます」
治療を受けた住民のひとりが、かすれた声で団長に頭を下げる。
「助かったよ……ほんとに、ありがとう……」
その光景を遠巻きに眺めていた一団があった。
装飾の凝った外套をまとった男が、その中央に立つ。肩で風を切りながら、ずかずかと歩み寄った。
彼の名はオルセリオ男爵。ドルマリスの辺境で成り上がった新興の貴族であり、地元の鉱山を買収して莫大な富を得たと噂されている。
「聞いたぞ。霧晶果を持っているそうじゃないか。いくらだ?全部買おう」
言葉の端に、当然の権利のような傲慢さが滲む。
団長は顔色ひとつ変えず、低く返した。
「申し訳ありません。これはあくまで、治療目的の支給分です。販売はしておりません」
オルセリオの眉が吊り上がった。
「冗談を言うな。ドワーフどもに施しておいて、貴族である我々には売らぬというのか?優先する相手が間違っているぞ!」
騒ぎに振り返る者が出る。
だが次の瞬間、団長が叩きつけるように声を張った。
「ふざけるな!人命に、優劣があるかッ!」
その怒声に、場が静まり返った。
普段は温厚で、言葉数も少ない団長の声が、空気を鋭く切り裂いた。
「貴族であろうと、平民であろうと、今ここで命を落としかけている者は皆同じだ。治すべき命に、上下も順番もあるものか!……あんたに売る品はない。引き取ってくれ」
オルセリオは顔を真っ赤にし、なにか言いかけたが、周囲の目と団長の無言の圧に押され、言葉を飲み込む。
数瞬の後、彼は踵を返し、無言のまま去っていった。
まだ暑さの残る季節。だが、瘴蚊を避けるために皆が長袖で身を固め、首元や手首まで布で覆っている。重ね着で汗が滲み出すが、誰一人として袖をまくろうとはしなかった。
暗く、湿った空間に、人々の苦悶が響く。
岩壁にもたれ、床に横たわり、隅にうずくまる者たち。
そのどれもが、正視できないほどに苦しげだった。
青白く乾いた唇。震えるまぶた。止まらない咳と呻き。あちこちに吐しゃ物が広がり、消毒の匂いすら追いつかない。
その惨状に、誰ともなく、ぽつりと呟いた。
「……酷い……」
それは呻きのようで、祈りのようでもあった。続けて言葉を発する者はいなかった。ただ、全員がその一言の重みに、ただ黙って息を詰めていた。
バルニエだけが、沈黙を裂くように動いた。
「手持ちの桶を並べろ。水を張って、すぐに手と器具を浸けて消毒!次に、痙攣の強い者は入り口付近へ!風の通る場所に。密集を避けろ」
坑道内の限られた空間。その構造を熟知した上で、迅速な判断を下していく。
「重症者は中央にまとめろ。動かせない者はその場で処置を始める。風下は避けろ、瘴蚊が集まりやすい。明かりを確保しろ、影に潜まれる」
バルニエの声が響くたびに、空気が張り詰める。誰もが即座に動き始めた。
「人数を数えろ、年齢と症状も!名前がわかるなら記録するんだ。意識がはっきりしている患者は外へ!」
男たちが手分けして担架を組み、意識のある者から順に抱えていく。通路の幅と天井の低さを読み、搬出の順序が即座に決まる。
「B群、C群と連携を取れ!外で受け入れ態勢を整えているはずだ。空きのある場所から順に搬送!」
「了解!」
残った女たちはバルニエの補助につき、道具を渡し、水を差し出した。
「ルゥナ、霧晶果を。砕いて、すり潰してくれ。できるだけ早く」
少女は大きく頷くと、大きめのすり鉢に霧晶果を入れ、慎重に果実を扱い始めた。指先を震わせながらも、丁寧にすり鉢を回す。
「……ほら、飲みな。薬だよ。諦めるんじゃないよ」
完成した薬液は、お上さんの手に渡り、次々と重症者の喉元に流し込まれていく。
ティアとミナは布を湿らせ、清潔なタオルで患者の体を一人ずつ拭っていた。熱を帯びた肌に触れながら、少しでも苦痛を和らげようと必死だった。
目を背けたくなる光景の中、誰もがそれぞれの手で命を支えていた。
ひと通りの搬送と初期処置が終わると、坑道内にはひとまずの静けさが訪れた。
重苦しい空気の中で、遠くの咳や呻き声だけが、かすかに響いている。
ティアは最後に拭いていた患者の額からタオルを離し、そっと息を吐いた。滲んだ汗と涙に似たものが混じり、タオルの端ににじむ。
その隣で、ミナがふと手を止め、ぽつりと呟く。
「……この街、立ち直れるのかな」
声はほとんど聞き取れないほどに小さかったが、確かに届いていた。
バルニエが、傷薬をしまいながら低く答える。
「そうだな……街が機能し始めるまで、一ヶ月といったところだろう。病の拡大を止めて、物流を回復させる。それが俺たちの役目だ。……経済の立て直しは、領主の仕事だ」
その言葉には、任務の線引きだけでなく、どこか苦い諦観が滲んでいた。
一方、坑道の外では、B郡・C郡がすでに街の住民たちへの救援を開始していた。
広場に即席の診療所が設けられ、手当を受けた人々が列をなして座っている。
重症者こそ少ないが、衰弱した者、咳をこらえる者、脱水症状の子どもたち。そのすべてが、助けを必要としていた。
街にかろうじて残っていた医師と修道士たちも駆けつけ、治療班に加わってくれている。
B郡とC郡を統括するのは、商隊の団長本人。普段は物静かで寡黙な男だが、戦場のような状況を前に、冷静な采配を振るっていた。
「診療を受けた者は名簿に記録していけ。霧晶果の在庫と使用数も、随時報告を」
「団長、こちらの子ども、薬が効いてきたみたいです。熱が下がって、笑ってます」
治療を受けた住民のひとりが、かすれた声で団長に頭を下げる。
「助かったよ……ほんとに、ありがとう……」
その光景を遠巻きに眺めていた一団があった。
装飾の凝った外套をまとった男が、その中央に立つ。肩で風を切りながら、ずかずかと歩み寄った。
彼の名はオルセリオ男爵。ドルマリスの辺境で成り上がった新興の貴族であり、地元の鉱山を買収して莫大な富を得たと噂されている。
「聞いたぞ。霧晶果を持っているそうじゃないか。いくらだ?全部買おう」
言葉の端に、当然の権利のような傲慢さが滲む。
団長は顔色ひとつ変えず、低く返した。
「申し訳ありません。これはあくまで、治療目的の支給分です。販売はしておりません」
オルセリオの眉が吊り上がった。
「冗談を言うな。ドワーフどもに施しておいて、貴族である我々には売らぬというのか?優先する相手が間違っているぞ!」
騒ぎに振り返る者が出る。
だが次の瞬間、団長が叩きつけるように声を張った。
「ふざけるな!人命に、優劣があるかッ!」
その怒声に、場が静まり返った。
普段は温厚で、言葉数も少ない団長の声が、空気を鋭く切り裂いた。
「貴族であろうと、平民であろうと、今ここで命を落としかけている者は皆同じだ。治すべき命に、上下も順番もあるものか!……あんたに売る品はない。引き取ってくれ」
オルセリオは顔を真っ赤にし、なにか言いかけたが、周囲の目と団長の無言の圧に押され、言葉を飲み込む。
数瞬の後、彼は踵を返し、無言のまま去っていった。
3
あなたにおすすめの小説
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
【12月末日公開終了】これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
追放された聖女は旅をする
織人文
ファンタジー
聖女によって国の豊かさが守られる西方世界。
その中の一国、エーリカの聖女が「役立たず」として追放された。
国を出た聖女は、出身地である東方世界の国イーリスに向けて旅を始める――。
私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜
AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。
そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。
さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。
しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。
それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。
だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。
そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。
幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない
しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?
タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。
白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。
しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。
王妃リディアの嫉妬。
王太子レオンの盲信。
そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。
「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」
そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
夫より強い妻は邪魔だそうです【第一部完】
小平ニコ
ファンタジー
「ソフィア、お前とは離縁する。書類はこちらで作っておいたから、サインだけしてくれ」
夫のアランはそう言って私に離婚届を突き付けた。名門剣術道場の師範代であるアランは女性蔑視的な傾向があり、女の私が自分より強いのが相当に気に入らなかったようだ。
この日を待ち望んでいた私は喜んで離婚届にサインし、美しき従者シエルと旅に出る。道中で遭遇する悪党どもを成敗しながら、シエルの故郷である魔法王国トアイトンに到達し、そこでのんびりとした日々を送る私。
そんな時、アランの父から手紙が届いた。手紙の内容は、アランからの一方的な離縁に対する謝罪と、もうひとつ。私がいなくなった後にアランと再婚した女性によって、道場が大変なことになっているから戻って来てくれないかという予想だにしないものだった……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる