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第三章 ドワーフ国編
語られる出生
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ジークハルトとティア、そして周囲の者たちは病室を出た。
部屋には、マリエル、ユリウス、ヴィクト──三人だけが静かに残された。
「外に馬車を待たせてある。そこで話そう」
ジークハルトの言葉に、ティアは静かに頷き、彼の後をついて歩く。
病室を出たところで、見知った三人の姿が目に入った。
「ティア!」
エリー、ノア、ルゥナの三人が、心配そうな面持ちで立っていた。どうしても黙って送り出すことができなかったのだろう。
ティアは小さく笑って、三人に「大丈夫」と口元だけで告げる。
安心させるように穏やかな微笑みを浮かべながら、彼女は再びジークハルトの背中を追った。
やがて外に出ると、そこには立派な黒塗りの馬車が静かに待っていた。
その佇まいは、王族にふさわしい威厳と気品を湛えている。
戸惑いと緊張で足が止まるティアの前に、ジークハルトが無言で手を差し出した。
「どうぞ」
その仕草はあまりにも自然で、かつ丁寧だった。
まるで、かつての穏やかな婚約時代を彷彿とさせるような、優雅で洗練された立ち振る舞い。
ティアは一瞬、心の奥で何かが軋むような感覚を覚えた。
「え……あ、ありがとう……ございます……」
驚きと困惑を隠せぬまま、それでもティアはその手を取る。
温かく、確かな掌に導かれて、彼女は馬車の中へと乗り込んだ。
ジークハルトは御者に小さく指示を告げ、馬車の扉を閉めて後に続く。
カツン、と馬蹄の音が響き、馬車はゆっくりと走り出す。
中には二人きり。
ティアはジークハルトと向かい合う形で座っていたが、緊張に指先が震えそうになるのを必死で堪えていた。
重い沈黙が流れる。
ジークハルトは何も言わず、馬車の窓の外を見つめていた。
ティアの方を一瞥することすらない。
ティアの心は、言葉を紡がねばという焦燥に駆られた。
心臓の鼓動が自分にしか聞こえないはずなのに、馬車の中に響いてしまいそうだった。
ついに沈黙に耐えきれず、ティアは小さく口を開いた。
「……あの、どこに……行かれるんですか……?」
問いかけに、ジークハルトは初めて彼女に視線を戻す。
そして、肩の力が抜けたように静かに答えた。
「目的地はない。話が終わるまで、王都を巡るよう御者に伝えてある」
「え?」
「周囲に聞かれたくない話だ。静かな場所が必要だった」
その落ち着いた口調に、ティアは何かを詰められるのではという怯えが少しだけ和らぐ。
夕陽が窓を染めていく。
王都の喧騒をよそに、馬車の中には、嵐の前の静けさのような時間だけが流れていた。
「レティシア……いや、ティアと呼んだ方がいいか」
沈黙を破ったのはジークハルトだった。
覚悟を決めたような声音で、ティアの目を真っ直ぐに見つめてそう言う。
ティアの瞳が僅かに揺れた。
彼と真正面から視線を交わすのは、いったい何年ぶりだろう。
──あの頃は、彼の意志の強い瞳が好きだった。
けれど、いつしかその目には冷たい嫌悪と拒絶の色が宿るようになっていた。
今の彼の瞳には、確かに真っ直ぐさがあったが、そこには困惑と戸惑いも入り混じっていた。
「レティシアは、ミレナ王国を追われたときに捨てた名前です。……ですから、ティアとお呼びいただけると幸いです」
声は緊張にかすかに震えていたが、逃げるような弱さはなかった。
過去から目を背けることを、もうやめようとティアは決めていた。
彼がどんな言葉を向けようとも、正面から受け止める覚悟はできている。
彼女はしっかりとジークハルトの目を見つめ返し、はっきりとした口調で言った。
ジークハルトは、少しの沈黙の後、短く静かに答えた。
「……わかった」
その言葉は、彼女の選んだ名をきちんと受け止めるという意思の表れだった。
そして、彼の瞳が一瞬だけ鋭くなる。
「それでは、ティア。単刀直入に聞こう。──君は魔族と、どんな関係がある?」
その問いに、ティアは一瞬呆気に取られたように目を丸くした。
まるで、自分がなぜそのような質問をされるのか、まったく心当たりがないといった様子で。
「……どんな関係と申されましても……」
困惑したように言葉を選びながら、ティアはゆっくりと答える。
「一度、戦場で遭遇したことがあるだけで……。言葉を交わしたこともありません。特別な関わりなど、まったく──」
その声には、偽りの色はなかった。
ジークハルトは、その反応をじっと見つめながら、静かに息をついた。
「君が戦闘中に倒れ安全地帯に運んでいる際、一人の魔族と遭遇した」
その言葉を聞いた瞬間、ティアの中で複数の感情が一気に湧き上がった。
戦闘中に倒れてしまった自分の不甲斐なさ。
自分を助けてくれたのが、かつて自分を嫌悪していたはずのジークハルトであったことへの戸惑い。
そして、魔族と遭遇して無事に帰還できたという事実への驚き。
混乱する思考の中で何から問えばよいか分からずにいるティアに、ジークハルトは続ける。
「魔族は黒い長髪の男だった。紅い瞳に、何か紋様のようなものが浮かんでいて……タレ目がちで、一見穏やかに見えたが、あれは──冷徹な印象の男だった」
その描写に、ティアの脳裏にある顔が浮かぶ。
──ノワールとバルザを一瞬で葬った、あの魔族。
彼の姿とジークハルトの言葉が重なり、心当たりがあるとすぐに悟った。
ティアの変化にジークハルトも気づいた。
「心当たりがあるのか?」
「……問われれば、あります」
ティアはわずかに俯きながらも、はっきりと答える。
「ですが、先ほど申し上げた通り──私もただ遭遇しただけで、彼と会話を交わしたことはありません」
「どこで会った?」
「……あるダンジョン攻略者たちと戦ったときに現れました。彼の目的は、ダンジョン攻略者たちの抹殺──そして、彼らが持ち出していた“武具”の破壊だったようです」
その言葉に、二人はほぼ同時に沈黙する。
そして、はたとある一点に思い至る。
魔族が王都グラントハルドを襲撃した理由。
──ダンジョン攻略者であったボルグラム三世。
──そして、彼の持ち帰った強力な武具。
その二つが一致するのなら、魔族の目的が「ボルグラム王の抹殺」と「武具の破壊」であったことは、もはや明白だった。
ティアは、深く息を吐いた。
しかし、彼女はただ商隊に同行していただけ。
たまたま王都に滞在していただけであり、魔族の計画には関係がないはずだった。
それなのに──なぜ、あの魔族は、自分を知っていたのか。
ジークハルトが、低い声で言った。
「……襲撃の本来の目的は、やはりボルグラム王で間違いないだろう。だがあの魔族は、君のことを知っていた。明らかに、君に向けて言っていた。自分たちの“もの”だ、と」
ティアは言葉を失った。
血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「……私を、“自分たちのもの”……?」
震える声が、馬車の中に落ちた。
「君のことを──“救いでもあるし、災いでもある”……そう、魔族の男は言っていた」
ティアの心に、ぞわりと冷たい感覚が広がる。
得体の知れぬ何かが、自分の存在そのものを蝕んでいるような不安。
しかし、混乱の中にあっても、ティアの思考は止まらなかった。
過去の違和感が、ひとつ、またひとつと脳裏に浮かび上がる。
──自分の“異常なほどの回復力”。
擦り傷や切り傷が他の人よりもはるかに早く治っていた。
痛みも、出血も、すぐに引いていく。
最初は体質だと思っていたが、その回復の早さはもはや人間のそれではなかった。
獣人や亜人よりも遥かに早く、下手をすれば──精霊か、回復特化の魔獣の域にすら届く速度。
それを知られぬよう、今まで巧みに隠して生きてきた。
だが──魔族の言葉と、ジークハルトの証言。それらが、自身の出生に何か大きな秘密があることを否応なく突きつけてくる。
ティアの脳裏に、母のことが浮かんだ。
母はかつて、田舎貴族の娘として生まれ、容姿の美しさを理由に公爵家に嫁いだ。
だが、ティアは知っている。
公爵家に嫁いだ時点で、すでに母の腹には“ティア”がいたことを。
──本当の父は、人間ではなかったのではないか……。
その仮説が浮かんだ瞬間、身体がわずかに震えた。
それは恐怖ではない。
ようやく辿り着いた“可能性”に対する、冷たい真実の予感。
そのとき、ジークハルトが口を開いた。
「……私は以前、勝手ながら君の出生について調べたことがある」
ティアが驚いたように彼を見つめる。
「君の境遇が、少しでも改善されればと思ってのことだった。だが……結果は、君にとって利益になるものではなかった。だから私は……その時、黙っていた。勝手に調べたことは──すまない」
彼の声には、誠意がにじんでいた。
「……い、いえ……」
ティアは首を横に振った。
ジークハルトが、かつてそんな想いで動いてくれていたことを初めて知り、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
かつて壊れたと思っていた関係が、まだ完全には消えていなかったのかもしれない──そんな錯覚すら覚えた。
「君は、自分の本当の“母親”について……どこまで知っている?」
ティアは静かに目を伏せた。
「……母は、田舎貴族の出身です。ご両親とは不仲で、早々に縁を切っていたと聞いています。公爵家に嫁いでからは、一切実家とは関わりを絶っていたようです」
そして、一拍置いて──ティアは、少しだけ言葉を詰まらせながらも続けた。
「それと……公爵家へ嫁いだ時、母はすでに私を身籠っていたと、後に知りました。本人も気づいていなかった可能性はありますが……外で、公爵以外の男性と関係を持っていたのは……事実かと」
その言葉が落ちると、馬車の中の空気がわずかに沈んだ。
「……そこまで、知っていたか」
ジークハルトが静かに呟いた。
ティアが聞いた話の多くは、直接人から聞かされたわけではない。
幼い頃、人よりも少しだけ耳が良かった彼女は、使用人たちが陰で交わす噂話や憶測を、壁越しに、扉越しに、偶然耳にしてしまっただけだった。
「私が調べたことと、大きな差はないようだ」
ジークハルトの目が、ティアに向けられる。
「では……君の髪色が、母親譲りであるということは知っているか?」
「──え?」
ティアは驚きに目を丸くした。
銀の髪──それは彼女が物心ついた時から背負わされていた、“異物”の象徴。
母は濃い茶色、焦げ茶に近い髪色だったと聞いている。父である公爵は金髪だ。
両親とも違う色。
それゆえに、自分は“不義の子”として疎まれ、冷たい視線を向けられてきたのだ。
「母の髪色は……茶色だと……聞いていました。銀では、なかったはずです……」
ティアの震える声に、ジークハルトは一瞬だけ口を閉ざし、言葉を選ぶように目を伏せる。
そして、意を決したように告げた。
「──君の母は、本来、銀に近い髪をしていた。君とよく似た色だったそうだ」
ティアの目が大きく見開かれた。
「だが、その髪色が災いした。銀や白といった色は、稀少であると同時に、“忌み色”として扱われることもある。君の母も例外ではなかった。“あの子は本当に私の子なのか”と母親──君の祖母に疑われ、幾度も暴力を受けたという。髪はクルミの殻で染めさせられ、外見まで変えられた。君が“茶髪だった”と聞いていたのは……その染めた後の姿だったのだろう」
ティアは、言葉を失った。
ずっと、自分だけが異質なのだと思っていた。
家族からも、周囲からも、そう思わされてきた。
だが──母もまた、同じように“異物”として扱われていた。
己の存在を否定され、髪の色さえも塗り替えられて。
そのとき、不意に脳裏に浮かんだのは、銀髪の女の姿だった。
過去に夢で見た光景。
銀の髪をなびかせた女が魔族の中に立ち、その顔がこちらへと振り向く。
微笑むその口元。だけど、どこか冷たく、哀しげだった。
──ズキンッ。
突然、こめかみに鋭い痛みが走り、ティアは眉を寄せて額を押さえた。
「大丈夫か?」
ジークハルトが立ち上がりかけたが、ティアは片手を上げて制した。
「大丈夫……です」
痛みは一瞬だった。だが、それ以上に心を締めつけるのは胸の痛みだった。
自分と似た境遇。
いや、それ以上に過酷だったのかもしれない。
親から暴力を受け、異質だと拒絶され──髪の色さえも塗り替えられた人生。
ティアは、知らぬはずの母の心に、静かに思いを馳せていた。
部屋には、マリエル、ユリウス、ヴィクト──三人だけが静かに残された。
「外に馬車を待たせてある。そこで話そう」
ジークハルトの言葉に、ティアは静かに頷き、彼の後をついて歩く。
病室を出たところで、見知った三人の姿が目に入った。
「ティア!」
エリー、ノア、ルゥナの三人が、心配そうな面持ちで立っていた。どうしても黙って送り出すことができなかったのだろう。
ティアは小さく笑って、三人に「大丈夫」と口元だけで告げる。
安心させるように穏やかな微笑みを浮かべながら、彼女は再びジークハルトの背中を追った。
やがて外に出ると、そこには立派な黒塗りの馬車が静かに待っていた。
その佇まいは、王族にふさわしい威厳と気品を湛えている。
戸惑いと緊張で足が止まるティアの前に、ジークハルトが無言で手を差し出した。
「どうぞ」
その仕草はあまりにも自然で、かつ丁寧だった。
まるで、かつての穏やかな婚約時代を彷彿とさせるような、優雅で洗練された立ち振る舞い。
ティアは一瞬、心の奥で何かが軋むような感覚を覚えた。
「え……あ、ありがとう……ございます……」
驚きと困惑を隠せぬまま、それでもティアはその手を取る。
温かく、確かな掌に導かれて、彼女は馬車の中へと乗り込んだ。
ジークハルトは御者に小さく指示を告げ、馬車の扉を閉めて後に続く。
カツン、と馬蹄の音が響き、馬車はゆっくりと走り出す。
中には二人きり。
ティアはジークハルトと向かい合う形で座っていたが、緊張に指先が震えそうになるのを必死で堪えていた。
重い沈黙が流れる。
ジークハルトは何も言わず、馬車の窓の外を見つめていた。
ティアの方を一瞥することすらない。
ティアの心は、言葉を紡がねばという焦燥に駆られた。
心臓の鼓動が自分にしか聞こえないはずなのに、馬車の中に響いてしまいそうだった。
ついに沈黙に耐えきれず、ティアは小さく口を開いた。
「……あの、どこに……行かれるんですか……?」
問いかけに、ジークハルトは初めて彼女に視線を戻す。
そして、肩の力が抜けたように静かに答えた。
「目的地はない。話が終わるまで、王都を巡るよう御者に伝えてある」
「え?」
「周囲に聞かれたくない話だ。静かな場所が必要だった」
その落ち着いた口調に、ティアは何かを詰められるのではという怯えが少しだけ和らぐ。
夕陽が窓を染めていく。
王都の喧騒をよそに、馬車の中には、嵐の前の静けさのような時間だけが流れていた。
「レティシア……いや、ティアと呼んだ方がいいか」
沈黙を破ったのはジークハルトだった。
覚悟を決めたような声音で、ティアの目を真っ直ぐに見つめてそう言う。
ティアの瞳が僅かに揺れた。
彼と真正面から視線を交わすのは、いったい何年ぶりだろう。
──あの頃は、彼の意志の強い瞳が好きだった。
けれど、いつしかその目には冷たい嫌悪と拒絶の色が宿るようになっていた。
今の彼の瞳には、確かに真っ直ぐさがあったが、そこには困惑と戸惑いも入り混じっていた。
「レティシアは、ミレナ王国を追われたときに捨てた名前です。……ですから、ティアとお呼びいただけると幸いです」
声は緊張にかすかに震えていたが、逃げるような弱さはなかった。
過去から目を背けることを、もうやめようとティアは決めていた。
彼がどんな言葉を向けようとも、正面から受け止める覚悟はできている。
彼女はしっかりとジークハルトの目を見つめ返し、はっきりとした口調で言った。
ジークハルトは、少しの沈黙の後、短く静かに答えた。
「……わかった」
その言葉は、彼女の選んだ名をきちんと受け止めるという意思の表れだった。
そして、彼の瞳が一瞬だけ鋭くなる。
「それでは、ティア。単刀直入に聞こう。──君は魔族と、どんな関係がある?」
その問いに、ティアは一瞬呆気に取られたように目を丸くした。
まるで、自分がなぜそのような質問をされるのか、まったく心当たりがないといった様子で。
「……どんな関係と申されましても……」
困惑したように言葉を選びながら、ティアはゆっくりと答える。
「一度、戦場で遭遇したことがあるだけで……。言葉を交わしたこともありません。特別な関わりなど、まったく──」
その声には、偽りの色はなかった。
ジークハルトは、その反応をじっと見つめながら、静かに息をついた。
「君が戦闘中に倒れ安全地帯に運んでいる際、一人の魔族と遭遇した」
その言葉を聞いた瞬間、ティアの中で複数の感情が一気に湧き上がった。
戦闘中に倒れてしまった自分の不甲斐なさ。
自分を助けてくれたのが、かつて自分を嫌悪していたはずのジークハルトであったことへの戸惑い。
そして、魔族と遭遇して無事に帰還できたという事実への驚き。
混乱する思考の中で何から問えばよいか分からずにいるティアに、ジークハルトは続ける。
「魔族は黒い長髪の男だった。紅い瞳に、何か紋様のようなものが浮かんでいて……タレ目がちで、一見穏やかに見えたが、あれは──冷徹な印象の男だった」
その描写に、ティアの脳裏にある顔が浮かぶ。
──ノワールとバルザを一瞬で葬った、あの魔族。
彼の姿とジークハルトの言葉が重なり、心当たりがあるとすぐに悟った。
ティアの変化にジークハルトも気づいた。
「心当たりがあるのか?」
「……問われれば、あります」
ティアはわずかに俯きながらも、はっきりと答える。
「ですが、先ほど申し上げた通り──私もただ遭遇しただけで、彼と会話を交わしたことはありません」
「どこで会った?」
「……あるダンジョン攻略者たちと戦ったときに現れました。彼の目的は、ダンジョン攻略者たちの抹殺──そして、彼らが持ち出していた“武具”の破壊だったようです」
その言葉に、二人はほぼ同時に沈黙する。
そして、はたとある一点に思い至る。
魔族が王都グラントハルドを襲撃した理由。
──ダンジョン攻略者であったボルグラム三世。
──そして、彼の持ち帰った強力な武具。
その二つが一致するのなら、魔族の目的が「ボルグラム王の抹殺」と「武具の破壊」であったことは、もはや明白だった。
ティアは、深く息を吐いた。
しかし、彼女はただ商隊に同行していただけ。
たまたま王都に滞在していただけであり、魔族の計画には関係がないはずだった。
それなのに──なぜ、あの魔族は、自分を知っていたのか。
ジークハルトが、低い声で言った。
「……襲撃の本来の目的は、やはりボルグラム王で間違いないだろう。だがあの魔族は、君のことを知っていた。明らかに、君に向けて言っていた。自分たちの“もの”だ、と」
ティアは言葉を失った。
血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「……私を、“自分たちのもの”……?」
震える声が、馬車の中に落ちた。
「君のことを──“救いでもあるし、災いでもある”……そう、魔族の男は言っていた」
ティアの心に、ぞわりと冷たい感覚が広がる。
得体の知れぬ何かが、自分の存在そのものを蝕んでいるような不安。
しかし、混乱の中にあっても、ティアの思考は止まらなかった。
過去の違和感が、ひとつ、またひとつと脳裏に浮かび上がる。
──自分の“異常なほどの回復力”。
擦り傷や切り傷が他の人よりもはるかに早く治っていた。
痛みも、出血も、すぐに引いていく。
最初は体質だと思っていたが、その回復の早さはもはや人間のそれではなかった。
獣人や亜人よりも遥かに早く、下手をすれば──精霊か、回復特化の魔獣の域にすら届く速度。
それを知られぬよう、今まで巧みに隠して生きてきた。
だが──魔族の言葉と、ジークハルトの証言。それらが、自身の出生に何か大きな秘密があることを否応なく突きつけてくる。
ティアの脳裏に、母のことが浮かんだ。
母はかつて、田舎貴族の娘として生まれ、容姿の美しさを理由に公爵家に嫁いだ。
だが、ティアは知っている。
公爵家に嫁いだ時点で、すでに母の腹には“ティア”がいたことを。
──本当の父は、人間ではなかったのではないか……。
その仮説が浮かんだ瞬間、身体がわずかに震えた。
それは恐怖ではない。
ようやく辿り着いた“可能性”に対する、冷たい真実の予感。
そのとき、ジークハルトが口を開いた。
「……私は以前、勝手ながら君の出生について調べたことがある」
ティアが驚いたように彼を見つめる。
「君の境遇が、少しでも改善されればと思ってのことだった。だが……結果は、君にとって利益になるものではなかった。だから私は……その時、黙っていた。勝手に調べたことは──すまない」
彼の声には、誠意がにじんでいた。
「……い、いえ……」
ティアは首を横に振った。
ジークハルトが、かつてそんな想いで動いてくれていたことを初めて知り、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
かつて壊れたと思っていた関係が、まだ完全には消えていなかったのかもしれない──そんな錯覚すら覚えた。
「君は、自分の本当の“母親”について……どこまで知っている?」
ティアは静かに目を伏せた。
「……母は、田舎貴族の出身です。ご両親とは不仲で、早々に縁を切っていたと聞いています。公爵家に嫁いでからは、一切実家とは関わりを絶っていたようです」
そして、一拍置いて──ティアは、少しだけ言葉を詰まらせながらも続けた。
「それと……公爵家へ嫁いだ時、母はすでに私を身籠っていたと、後に知りました。本人も気づいていなかった可能性はありますが……外で、公爵以外の男性と関係を持っていたのは……事実かと」
その言葉が落ちると、馬車の中の空気がわずかに沈んだ。
「……そこまで、知っていたか」
ジークハルトが静かに呟いた。
ティアが聞いた話の多くは、直接人から聞かされたわけではない。
幼い頃、人よりも少しだけ耳が良かった彼女は、使用人たちが陰で交わす噂話や憶測を、壁越しに、扉越しに、偶然耳にしてしまっただけだった。
「私が調べたことと、大きな差はないようだ」
ジークハルトの目が、ティアに向けられる。
「では……君の髪色が、母親譲りであるということは知っているか?」
「──え?」
ティアは驚きに目を丸くした。
銀の髪──それは彼女が物心ついた時から背負わされていた、“異物”の象徴。
母は濃い茶色、焦げ茶に近い髪色だったと聞いている。父である公爵は金髪だ。
両親とも違う色。
それゆえに、自分は“不義の子”として疎まれ、冷たい視線を向けられてきたのだ。
「母の髪色は……茶色だと……聞いていました。銀では、なかったはずです……」
ティアの震える声に、ジークハルトは一瞬だけ口を閉ざし、言葉を選ぶように目を伏せる。
そして、意を決したように告げた。
「──君の母は、本来、銀に近い髪をしていた。君とよく似た色だったそうだ」
ティアの目が大きく見開かれた。
「だが、その髪色が災いした。銀や白といった色は、稀少であると同時に、“忌み色”として扱われることもある。君の母も例外ではなかった。“あの子は本当に私の子なのか”と母親──君の祖母に疑われ、幾度も暴力を受けたという。髪はクルミの殻で染めさせられ、外見まで変えられた。君が“茶髪だった”と聞いていたのは……その染めた後の姿だったのだろう」
ティアは、言葉を失った。
ずっと、自分だけが異質なのだと思っていた。
家族からも、周囲からも、そう思わされてきた。
だが──母もまた、同じように“異物”として扱われていた。
己の存在を否定され、髪の色さえも塗り替えられて。
そのとき、不意に脳裏に浮かんだのは、銀髪の女の姿だった。
過去に夢で見た光景。
銀の髪をなびかせた女が魔族の中に立ち、その顔がこちらへと振り向く。
微笑むその口元。だけど、どこか冷たく、哀しげだった。
──ズキンッ。
突然、こめかみに鋭い痛みが走り、ティアは眉を寄せて額を押さえた。
「大丈夫か?」
ジークハルトが立ち上がりかけたが、ティアは片手を上げて制した。
「大丈夫……です」
痛みは一瞬だった。だが、それ以上に心を締めつけるのは胸の痛みだった。
自分と似た境遇。
いや、それ以上に過酷だったのかもしれない。
親から暴力を受け、異質だと拒絶され──髪の色さえも塗り替えられた人生。
ティアは、知らぬはずの母の心に、静かに思いを馳せていた。
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