キスより甘く、甘噛みより深く

後向

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一章

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 獣人のヒエラルキーは、とってもシビアに出来ている。力こそ全て。強い者は上に。弱い者は下に――。言ってしまえば、草食動物は地位が低い。羊獣人として生まれて生きて、十六年。それだけあれば、この世がいかに自分に優しくないか理解するには十分だった。

「よいしょっと」

 洗濯物を詰め込んだ籠を抱え直し、メアリーはふぅっと息を吐く。田舎町――それもこんな町外れでは、家に水道をひくどころか、近くに井戸を置くこともできない。家から徒歩三十分の場所にある河原で洗濯をするのが、メアリーの日課だった。

 両親はいない。メアリーが幼い頃に、二人ともどこかに行ってしまった。幼い草食動物が一匹で生きていくのは簡単ではなかったけれど、十年近く一人で過ごして学んでしまった。人生なんて、案外どうにでもなるものだ――と。

「ふんふん、ふふ~ん」

 辺りに下手くそな鼻歌を響かせながら、帰路につく。もちろんメアリ―にだって分かっている。蔑ろにされがちな階級に属しながらもどうにか生きていけるのは、ここが田舎だからに他ならない。もしこれが都会であれば、食べるべき草も見つけられず飢え死にするのが関の山だろう。でもここは田舎で、美味しい草木は沢山ある。たとえ強い動物に餌場を奪われても他に餌場はいくらでもあるし、生きていくには困らない。

 冬は少し大変だけれど、幸い羊に生まれたお陰で、ふわふわに伸ばした髪に包まれば温かく眠ることができた。総合的に考えると、多分幸せに生きている。

「あら?」

 自身の幸福に浸っていたメアリーは、木陰にひっそりと置かれた籠に目を止める。アケビの弦を綺麗に編んで作られた籠は、持ち歩くのに丁度良さそうな大きさだ。

「落とし物かしら?」

 周囲を見回しても、持ち主らしき者は見当たらない。もし捨てられているのなら、ぜひ活用させて頂きたいものだ。

「……あら?」

 小さな声が聞こえた気がして、籠の中を覗き込む。足首近くまで伸ばしたふわふわの白い髪が、風を受けてふわりと揺れた。

「あらら?」

 籠の中には、質の良さそうなブランケットが詰め込まれていた。そしてそのブランケットに埋もれる様に、黒い塊がすんすんと鼻を鳴らしている。

「わんちゃんね」
「グルルル……!」

 黒い塊――ブランケットに埋もれていた黒い仔犬が、威嚇するように喉を鳴らした。

「……わんちゃん、よね?」

 洗濯籠を脇に置いて、仔犬へと手を伸ばす。噛まれる覚悟で触れたのに、仔犬は抵抗することなく頭を撫でさせてくれた。そっと抱き上げても、吠え声一つ上がらない。

「……可愛い」

 温かく小さな身体を膝に下ろし、その頭を撫でる。短めの黒い体毛は、子供らしく滑らかな手触りをしていた。

「お前、今日からうちの子になる?」

 そっと訊いてみると、円らな瞳に見つめ返される。小さな頭がエミリーの胸にぐりぐり押し付けられ、まるで「貰って」と言われている気分になった。

「……かわいい」

 きゅぅと胸がときめいて、仔犬を抱いたまま立ち上がる。

「本当にうちの子になる? 私、一人ぼっちな上にとっても貧乏なのよ」

 仔犬はメアリーの腕の中ですっかり寛いで、逃げ出す様子は微塵もない。ぺろりと腕を舐められて、もう一度「かわいい」と呟いた。地面に置いたままの洗濯籠と仔犬を見比べ、洗濯籠はまた後でいいだろうと仔犬が入っていた籠を拾い上げる。仔犬をアケビの籠に戻そうと思ったけれど、腕にしがみつかれて断念した。こんなに可愛い生き物を、一時でも手放すなんて誰が出来るというのだろう。

「一緒に暮らすなら、名前が必要ね」

 仔犬を抱いたまま、アケビの籠を腕にかける。洗濯籠は、また後で取りに来ればいい。

「シャルマンなんてどうかしら?」
「ガウッ!」
「だめ? 犬獣人の間で流行りの名前らしいのだけど」
「ウーッ、ガウッガウッ!」

 仔犬は一丁前に鼻に皺を寄せ、懸命に不満を訴えている。その姿に、またきゅうと胸が鳴った。かつてこれほどまでに、何かに胸を鷲掴みにされたことがあっただろうか。

「そうねぇ、嫌なら仕方ないわね」

 今すぐ頬ずりしたい気持ちを押しとどめ、うんうん唸りながら仔犬の名前を考える。元々、考え事に向いた性格はしていない。頑張って捻り出そうとしても、一向に良い名前は思い浮かばなかった。

「あら?」

 腕の中の仔犬が動いていると思ったら、籠の中から一枚の布を咥え出している。手触りの良い綺麗な布は、どうやらハンカチのようだった。

「あら、隅に刺繍が……〝ルドルフ〟?」
「ガウ!」
「これが貴方の名前?」

 なんとなく、仔犬が頷いたような気がした。確かめる様に、もう一度その名前を唇に乗せる。

「ルドルフ……良い名前ね」

 じっと見上げてくる円らな瞳に気が付いて、にこりとほほ笑む。今夜は久しぶりに温かいベッドで眠れそう。下手くそな鼻歌を歌いながら、そんなことを考えた。
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