【R18】月しずくのワルツ~ツンデレ令嬢の初恋~

イチニ

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16.二日酔い

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 十二歳の夏。
 初めて大勢の人の前で演奏したあの日。
 ミシェルはみなの薦めを無視し、モーリスの楽譜ではなく、五十年前亡くなったマッコルの葬送曲を選んだ。
 マッコルは三十二歳で夭折し、生前は全く評価されなかった不遇の作曲家である。
 結核を患い、医者に通う金もなく、己の運命から逃れるように酒と快楽に溺れた。そして、亡くなる数日前に完成したという葬送曲。
 この楽曲が彼の代名詞であり、言い方を変えれば、これ以外はカス。
 マッコル自身ではなく、死と引き替えのように作られた葬送曲のみが評価されていた。

(後生に語り継がれるのはマッコルのようは一発屋ではなく。おそらく、父のような。いくつもの名曲を生み出す、音楽の神様に愛され、選ばれ……才に恵まれた者なのだろう)

 マッコルに自分を重ねたわけではない。
 あの頃のミシェルは今ほどには、自身の才能に限界を感じてもいなかった。

 彼の曲でも悪くないと思っていて。けれど彼は作曲した譜面を見せてくれなくて。見せてくれる前にいなくなって。
 父はいなくなった彼の所在を知りたがるミシェルに冷たくて……あてつけのような気持ちがあった。

 若々しく、のびのびした曲なんて披露したくなかった。季節は夏でも、ミシェルの心は凍てついた冬が到来しているのに。
 とてもじゃないが華やかで明るい曲調の音を奏でることなど出来なかった。

(今は落ち込んでいたって、どんな曲調のものだって弾けるわ。でもあの頃は……鬱屈した想いのままに。ピアノに悲しみを、ぶつけないとやっていられなかった)

 悲しさも悔しさも、寂しさも全部。鍵盤にぶつけた。
 言いたいことも、叫びだしたいことも、全部。口に出来ない感情を、指に乗せた。

(でも、もし……あの時の気持ちを。叫びだしたいくらいの喪失感を。今までの寂しさや辛さ、空しさも全て。父にちゃんと言葉で伝えていたら……何かが変わっていたのだろうか)

 そういえば、と。
 ふと、ミシェルは思い出す。
 あの頃。クラウスがいなくなった頃。父もずっと鍵盤の前にいた。いつも以上熱心にピアノに向かっていた。
 愛弟子に裏切られたというのに、仕事熱心な父を、薄情な人だと思っていたのだけれど。
 病に倒れる前も熱心で。
 自分の体よりも音楽が大事なのかと呆れたりして。その熱心さが病を進行させたのだと思っていた。
 けれど――。

(お父様も、あの時の私と同じで。叫びだしたい気持ちをピアノにぶつけていたのだろうか。寂しさ、悔しさ。辛さや空しさも全て)

 喜びや悲しみを伝える手段が音楽であること。
 マッコルが迫り来る死の恐怖を譜面に書き殴り、それが名曲となったように。
 音楽にしか感情のはけ口がないことは、音楽家にとっては幸せなことなのかもしれない。
 けれど人としては、寂しい。
 寂しいことだとミシェルは思った。


  ※
「う、うう……」
 何度も……幾度も味わったことのある頭痛。
 気怠さの理由がなんなのか、考えるまでもない。二日酔いである。

「おはよう、ミシェル。こんにちは、かな?昼過ぎだからね。でも君は起きたばかりだから、おはよう、でいいのかな」
 半身を起こし、頭を押さえていると、いつからいたのだろう。
 アレクシの飄々とした声が聞こえてきた。

「許可もなく……乙女の寝室に入り込んでるなんて、あなたとても無礼よ」
「君の執事の責任問題に発展しないために言い訳すると、彼は僕を追い返そうとしたんだ。でも僕がごねたから、彼は客間で待つよう融通をきかせた。けれどね、いつまでたっても君が起きてこない。僕は待ちくたびれて、寝顔を見つめていたってわけだ。すごいガラガラ声だよ、ミシェル」
 罪の意識など欠片もない口調で言われ、ミシェルは溜め息を吐く。
 息を吐いた途端、ズキン、と頭の奥が痛み、呻いた。

「顔色が悪い。せっかくの美貌が台無しだ。アルコールは当分、控えた方がいいね」
「……いつも以上に呑み過ぎたせいね、めずらしく、途中からの記憶がないわ。何だか、とてつもない失態をやらかした気がする……」
「ははは。昨夜の君は最低だったね。絡むだけじゃなく、みんなの前でロレーヌにワインをぶちまけるなんて、予測不可能だった。僕も流石に焦ったよ」
「……そうね。その辺りは覚えているわ。あなたそんな私を放置して、未亡人の後を追ったのよね……」
 恨みがましく一瞥する。

「意外だな。僕に慰めて欲しかったの?」
「慰めなんて望んでいないわよ……ただ……」

(ふたりして彼女を追ったそれが腹立たしかっただけだ)
 言いかけて口を噤んだ。
 嫉妬というか、僻みというか。冷静になると酷く馬鹿らしくなる。
 アレクシにとって彼女は昔の恋人。
 そしてクラウスにとっては現恋人である。友人、元妹弟子よりも、彼女の存在を優先するのは当然だろう。
 ミシェルは小さく息を吐く。

「昨夜の私は確かに最低最悪ね。いくら本音とはいえ、人前で言うべきではなかった。その上、ワインをかけるなんて。彼女には申し訳ないことをしたわ。ドレス、弁償しなくちゃ」
「ドレスは僕が弁償するから構わないよ」
 やけに機嫌の良い声音で言われ、ミシェルは胡乱気に目を細めた。

「君には感謝しているんだ。良いきっかけになった」
「きっかけ?」
「昨晩、ロレーヌと性交した」
 一瞬、何を言われたかわからず、アレクシのにこやかな顔を見つめる。
 しばらくし、その言葉の意味を理解したミシェルは眉間に皺を寄せた。
「合意のうえの行為なの?」
「僕がそんな野蛮な行為をすると思うのかい?もちろん、合意だよ」
 その答えに眉間の皺がさらに深くなる。
「申し訳ないって言葉、撤回するわ。とんだ尻軽女ね」
「長年の誤解を解き、本来の関係に戻っただけだよ。合意だけど、口説いたのは僕の方だ」
 ロレーヌを庇うアレクシをミシェルは睨む。
「そうね。あなたもあなたよ。男がいる女に手を出すなんて最低よ」
「男?」
「クラウスよ。彼がいるのにあなたに誘惑されるなんて。愛人だからいつ捨ててもいいとでも思っているの?あなたも。彼に申し訳ないって、少しでも思わなかったの?クラウスは……」

 過去の罪を知られたくなくて、好きでもない女と関係を持ってしまうくらいに。
 クラウスはあの女のことを愛しているというのに。

 アレクシは口元に軽く笑みを刻んだまま、ミシェルの批難を受止めていた。
 見透かすような双眸の静けさに、ミシェルは自身の言動の愚かさに気づく。
 恋人がいると知っていながら、いやそれを脅しの材料にしてクラウスと寝た。
 そんな自分に彼らを責める権利なんてない。彼らへの批難は全部、自分へと返ってくる。
 アレクシとロレーヌのよりが戻った。その、きっかけを作ったのはミシェルなのだ。

 父や自分の信頼を裏切った彼が、愛人を寝取られようが関係ない。いやむしろ、彼とロレーヌの仲がこじれればいいと望んでいた筈なのに。
 思い通りの結果になったというのに、ちっとも嬉しくなかった。それどころか後悔と罪悪感が入り混じり重苦しい気持ちになる。
「本当に最低で、最悪だわ」
 ミシェルは低い声で呟いた。
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