婚約破棄の結果、王子から溺愛されるようになりました

真壁 莉雨

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6話

 かつて「鉄の仮面」と呼ばれた令嬢は、今やこの国の頂点に立つ王妃として、歴史にその名を刻んでいた。
 戴冠式から一年。王宮の最上階にある執務室は、春の柔らかな日差しに満たされ、積み上げられた公文書が琥珀色の光を浴びている。

「……ソフィア、この法案の修正は完璧だ。だが、少し詰め込みすぎではないか? 民草が君の知性に追いつくのに、あと百年はかかりそうだ」

 レナード王が、羽ペンを置いて背伸びをしながら苦笑した。
 向かいの席で同じようにペンを走らせていたソフィアは、眼鏡の縁を指先で上げ、涼やかな瞳で夫を見つめる。

「陛下、国民の知性を侮ってはなりませんわ。適切な法と教育があれば、彼らは自ずと最善の道を選びます。……それとも、私の仕事が早すぎて、あなたの出る幕がなくなってしまったのがお寂しいのですか?」
「ふっ、相変わらず手厳しいな。だが、その通りだ。君が有能すぎて、俺は君を甘やかす隙すら見つけられない」

 レナードは席を立ち、ソフィアの背後に回り込んだ。
 彼は迷いなく、彼女の細い肩を力強く抱き寄せ、その首筋に顔を埋める。漂う薔薇の香りと、彼女自身の確かな体温が、レナードの独占欲を静かに満たしていく。

「……仕事中ですわ、レナード様」
「休憩の時間だ。これは王の命令……いや、一人の男としての切実な願いだ」

 ソフィアは小さくため息をつきながらも、ペンを置いた。
 彼女の指が、自分の肩に置かれたレナードの大きな手に重ねられる。かつてオーブリーに向けられた蔑みの視線は、今やこの男だけに向ける深い慈しみへと変わっていた。

「……時折、思い出すのです。あの夜会の喧騒を」
「あの愚か者が、君を『冷たい置物』だと罵った夜のことか?」
「ええ。あの時、私は確かに氷のようでした。誰にも理解されず、ただ家格と義務のために自分を削っていた。……けれど、あなたが私を見つけ、その氷を溶かしてくださった」

 レナードは彼女の髪に愛おしそうに唇を寄せ、低い声で囁いた。

「感謝しているよ。あの愚か者が、君の本質を見抜けぬほどに無能であったことに。おかげで、この世で最も美しく賢明な至宝は、俺のものになった。君の知性も、情熱も、その肌の熱さも……すべて、俺だけが知っていればいい」

 ソフィアの頬が、朱に染まる。
 かつてオーブリーとマリアンが語っていた「愛」が、いかに浅ましく、中身のない砂上の楼閣であったか。今のソフィアにはよくわかる。
 本当の愛とは、互いの魂を認め合い、高め合い、そして何があっても揺るがない信頼という名の「契約」の上に成り立つものだ。

「……私も、感謝しておりますわ。私を『王妃』としてだけでなく、一人の『ソフィア』として必要としてくださることに」

 ソフィアは振り返り、レナードの首に腕を回した。
 二人の唇が重なる。それは理政を司る王と王妃の姿ではなく、互いを激しく求め合う恋人たちの姿だった。

 窓の外、遥か下の街角では、没落した貴族の末路として、泥にまみれて荷運びをする男の姿や、場末の酒場で客に媚を売る女の噂が流れているかもしれない。
 だが、今の二人にとって、それはもう別世界の出来事でしかなかった。

「ソフィア。今夜の晩餐は、二人きりで過ごそう。書類の続きは、明日俺が倍速で片付けてやる」
「あら、頼もしいことです。では、私はその横で、あなたのために最高級の紅茶を淹れる準備をいたしましょう」

 二人は微笑み合い、再び深く抱きしめ合った。

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