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酔いにかまけて、

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 それから、基礎物理の講義で裕次を探すのはやめた。オケ部でも極力顔を合わせなかった。今となっては他の部員ともだいぶん打ち解けていたし、眞人が裕次と話さないことで何か勘ぐるような雰囲気もなかった。裕次の方でも、特別彼からアプローチすることはなかった。そうして思い返して、そういえばいつも誘うときは自分からだったな、と眞人は内心苦笑していた。

 そんなあるとき、眞人が練習室で昼食のパンを齧りながら譜読みをしている時だった。火曜の昼前という中途半端な時間の為か、練習室は彼の貸しきり状態だった。そこへ、古臭い音を立てて扉が開いたかと思うと、楽器ケースを提げた聡がヘッドフォンをしたまま入ってきた。すぐに先客に気づいてヘッドフォンをとり、お疲れ様、と微笑む。ちょうど口いっぱいにカツサンドを頬張っていた眞人は、もごもごというだけでまともな挨拶は出来ず、会釈しかできない。慌ててカツを飲み込んで、なんとか「どうも」とだけ返した。
 聡は練習室の隅の彼の定位置に陣取り、あっという間に彼の練習スペースを作る。譜面台をおいて、教本を開いて、すぐ手の届く位置に机を動かして、楽器スタンドをその傍に、メトロノームがその手前に、何もかもが完璧に準備されて、彼の音だしが始まる。なんとなくその様子を見ていた眞人は、ふいに彼がこちらを向いて、「邪魔かな?」と言ったりするので慌てて首をぶんぶん横に振った。
「そんなまさか!オ、オレこそ、すみません、飯なんか、食ってたりして……」
「べつにそんなこと構わないよ。俺だって、よくここで昼食をとるしね」
 恐縮してしまっている眞人は、そうなんですか、と返すのが精一杯で、会話も続かない。相手がそれを望んでいるのかもわからない。だから、彼が自分の世界に戻ってオーボエを奏ではじめるとひどく安堵した。
 彼の音はとてもオーボエらしい。華やかで繊細で、それでいて物悲しい。ただのロングトーンでさえ、地平線に沈む夕日を思い起こさせる。彼はオケの曲以外ではよくバロックを吹いている。実際それはとても彼に似合っているし、だからこそ上手い。眞人は彼の音をBGMにしながら譜読みを再開した。そのうちに知っているフレーズが出てきて、無意識に鼻歌を歌っていた。そうしたらしばらくもたたないうちにオーボエの音が止んで、眞人も思わずハミングをやめる。
「あ……もしかして、邪魔、しま、した……か?」
 自分の拙い鼻歌が彼の練習を妨げたのかと不安になって眞人がきくと、聡は「まさか」と笑って否定した。
「そんなに自己卑下しないでほしいな。音楽は、音を楽しむものだから。自信を持って楽しんでほしいよ」
「でも、あなたや誠さんには、全然敵わないから、……別世界の音みたいだし……」
「そんなことない。全然そんなことないよ。きみはまっすぐでいい音をしている。ファンファーレ向きの華やかな音だ」
 笑顔で断言されて、眞人は乗せられているとは思いつつも心が躍るのを止められない。
「そんなことは……」
「あるよ。そうだ、もしきみがこれから時間があるなら、一曲あわせてみないか?」
 突然の申し出に、眞人は「え」と固まってしまう。それでも、譜読みの前は音だしをしていて、楽器はまだそこに横たえたまま出番を待っている。眞人がトランペットに目をやったのを肯定ととったのか聡は譜面台ごとこちらへ歩みよってきた。
「大丈夫、そんなに難しくない。きみなら初見で音は追える」
 いやに確信を持って言われると、自分の中に根拠はないのにできるような気がしてくるから不思議だ。彼はオケを振るときも、常に肯定的な言葉で部員の士気を高めて曲作りをしていく。うんともすんともいわなかった眞人だが、隣にやってきた彼が座るために、椅子においていたトランペットを取り上げたから、やる気満々で楽器を構えたように思えて自分で恥ずかしくなった。
「バロック調だけど、音二つでもそれなりに聴こえると思う。簡単なピアノ譜だからきみは上を」
「お、オレが上!?け、けどオレ読み替えとか、そんなすぐには……」
「じゃあ俺がB♭で読み替えるから」
 眞人はまじまじと聡を見つめる。トランペットとオーボエは楽器の調が違うので、そのまま同じ楽譜を吹いても音が合わない。それ用に調整された楽譜を使うか、どちらかの楽器に合わせて読み替えなければならない。そんなことが一瞬でできることに驚いて、やっぱりこの人は別世界の人間だなと改めて眞人は畏敬の念を抱いた。
「……ってか、オーボエに支えてもらうラッパとか、どうなんですか……」
 苦笑しながら眞人が呟くと、「文句はやってみてから言うんだ」と窘められる。腹をくくった眞人は、何度か音をさらって「まあ、なんとか」と聡を伺った。
「それでははじめよう。テンポはこのくらいだ」
 聡は膝を打ちながら八分の六拍子の刻みの速さを示す。眞人が頷く。楽器を構える。息を吸う、吸う、吸うが、出るタイミングがわからず思わずむせこんだ。聡が軽く噴出した。
「きみがアインザッツを出すんだ、好きなタイミングで出ていい。俺が合わせるから」
「すみません」
 情けなくて眞人は聡の顔をまともに見られない。
「そうだな、緊張するなら、一人で吹くような気持ちでやってみればいい。俺のことは考えないでいいから。とりあえず音を並べてみて」
 わかりました、と搾り出すような声で応じた眞人は、心持体の向きをずらして聡を視界からできるだけ外し、楽譜と己の音に注意を向けて曲にかかった。すぐに聡が下パートで入ってくる。初めは気配を感じるだけで精一杯だが、何度か繰り返しているうちに聡の音が聴けるようになり、彼が自分に求める音がわかるようになった。だが、イメージはできてもそれがそのまま音に表れるほど、眞人は自分の表現力が高くないことを自覚している。それでも、吹いているうちに、バロックという音楽の感じ方と奏で方を、彼から教わっている気になった。言葉で何を言われたわけでもないのに、彼が下で支える音を聴いているだけで目指すものが伝わってくる。
 やっぱりバロックはファンファーレ音じゃあダメだ。でも、誠さんのような繊細なラッパでなくても、できることが、ある……。
「いいね」
 何度か吹いた後で、聡が明るい声で言う。思わず眞人が彼を伺うと、柔らかい笑みでこちらを見ている。
「きみはやっぱり感受性が強いな。言葉で言わなくても、俺の音楽を感じてくれる」
 眞人は苦笑しながら応じた。
「あなたの音がわかりやすいから……です」
「ありがとう、嬉しいね。でもわかりやすいと言われたのは初めてだ。きみとは気が合うのかもしれないな」
 屈託なく微笑む聡は他意などもちろんないだろう、だけれどもそんなことを裕次や他の後輩にも言って回っているのだったら、確かに天然の誑しだとしか思えない。
「……他の人は、そうは言わないんですか」
 問うと、聡は少し考え込んだ。
「うん……そうだな。良い音だと言われるのも嬉しいけど。でも、わかりやすいっていうのは、ようするに『伝わってる』ってことだから、俺はそっちのほうが嬉しい。し、そういわれたことは、……やはりあまりないな」
 そうして、思い出したように肩を揺らす。
「裕次なんかは、言葉で言ってもわかってくれないんだ。俺の感性は、あいつの琴線にはかすりもしないみたいでね」
 そういう聡が楽しそうなのか寂しそうなのか、それは眞人にはわからなかった。だけれども、裕次の名前が出てきて初めて、眞人は聡に対して微かな蟠りを感じた。むしろ、今まで恋敵であるという意識をまったく感じさせないほどに、聡は柔和で純粋に眞人に接してきていたのだということに気づく。そして眞人自身、それがそれなりに居心地のいい空気感だと安心しきっていた。
「……先輩、は、あいつのこと……どう思いますか」
 僅かに生じた聡への嫉妬心を表に出すまいと顔を背けた眞人だが、そう聞かずにはいられなかった。自分のためなのか、裕次のためなのか、とにかく、彼自身が、裕次のことをどう思っているのか、それは裕次の気持ちを知ったときからずっと気になっていたことだった。
「裕次のことかい?……どうと聞かれると、一言では難しいが、そういえばきみたちは、最近あまり話してないようだけど何かあったのか」
 探りを入れたつもりが逆に問い返されて、眞人はドキリとして聡を見た。特段悪意があるわけでも、何か思惑を秘めているようでもなく、純粋に疑問として呈した言葉のようだった。
「……そんな、ことは……」
 普段から、オケ部のときでも特にべったりとしているわけでなかった。それなのに、そんなふうに言われて眞人は彼の洞察力、観察眼は尋常でないと思った。
 それとも、他のやつらも口に出さないだけで、何か思うところがある、とか……?まさか。
「……だったらいいんだ。ただ、裕次のやつ、最近元気がなかったから。ちょっと気にしていたんだ。恒例の水曜ランチも見かけないから、きみと何かあったのかなと勘ぐってみたんだけど」
 やっぱりこの人は、あいつのこと気にかけてるんだな。
 そう実感すると眞人の胸は疼いた。
「いや、すまない、立ち入ったことを聞くつもりではなかったんだけどね」
「いえ……」
 そのまましばらく沈黙になる。聡はおそらく眞人の言葉を待っていた。だけれども、自分と裕次の間に何があったのかなんて、誰かに、よりにもよってこの人に言えるわけがない。
「あいつはね」
 ぽつりと聡が呟いて、眞人は思わず彼を見やった。楽譜に向けられたその目はどこか遠くを見て、ふわりと細められる。
「俺には絶対によりかかろうとしないんだよ。というより、他人には、というほうが正しいかな。……拒絶を極端に恐れているようで、一定以上踏み込ませない。もちろん向こうから踏み込んでくることもないしね」
 ふいに聡が眞人に向かって微笑んだ。
「……きみはその点、少し違ってるように見えた。裕次の態度がね。もしかしたらあいつは、きみには心を開けるのじゃないかと思っていたんだけど……」
「……それは、たぶん……誤解、です」
 今度は眞人が目を背ける番だ。
「あいつが……もしもあいつのオレへの態度が他の人と違ったとしたら、それは、共有せざるを得ない秘密を持ってしまったせいで、……今はだけど、その秘密のせいで」
 眞人は乾いた声で笑った。
「……先輩、実はオレ、……裕次のことが好きなんです、だけど、それを伝えたらあいつに拒絶されて。あいつには他に好きなやつがいるんです。……あいつのこと気にかけてるあなたになら、それが誰だかわかりませんか?」 
 聡は黙り込んだ。その無言の理由は眞人には汲めない。言ってしまった後で、自分は何をしてるんだ、と激しい自己嫌悪に陥った眞人は落ち着かなくて「すみません」と謝った。だけれども、この空気をどう収拾すればいいのかわからない。
「たぶんね」
 聡がゆっくりと、言葉を選ぶように呟いた。
「それは、裕次の性格の問題で、きみのことが嫌いというわけでは、きっとないのだと思う。さっきも言ったけれど、あいつは、拒絶を恐れるから、ある程度以上近づこうとする人間を自分から切ってしまう、のだと思う」
 眞人は聡の言葉を聞きながら、自分はなぜ恋敵に慰められているのだろうと情けない気分になった。
「俺が思うには、……あいつは、きみには、心をある程度は許していたと思うから、もう少し、ゆっくり、接してやればどうかな」
 励ますように言う聡はどこまでも真摯だ。裕次に対するある種の愛を感じるのに、少しも眞人に対して僻みがない。やっぱりこの人には、敵わないのじゃないか、と眞人は心中白旗を振りたい気分に駆られた。
「オレじゃあダメなんですよ、あいつは……」
 眞人が弱音を吐くと、聡はまた微笑んだ。どことなく力のある笑みに、勇気付けられる感があるのは否定できない。おそらく、裕次が惹かれたのも、この静かな生命力の強さなのだと思う。
「それはきみとあいつの問題だから、俺にはなんともいえないけれどね。でも、その答えを突きつけられるのが恐くて近づくのを躊躇っているのだとしたら、手に入るものも入らないとは思わないか」
 眞人は胸を打たれた。それは、自分が裕次に詰め寄った時に言ったことと同じだった。
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