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第一章
チャンタン その1
しおりを挟む兎の年(七六三)正月
東方遙か彼方に黒々と横たわる山脈の、背後の空が白み始めた。
凍てつく大地に朝がやって来る。
あの山脈の向こうには、このボェの国(チベット)の都、ラサがある。さらに東には唐の京師長安。
目を閉じれば、若き日にその身を置いた、京師の華やかな光景をありありと思い浮かべることが出来た。もう二十年以上が経つというのに、つい昨日のことのようだ。
あの頃は明るい未来が自分を待ち受けているのだと、微塵も疑うことはなかった。
それが、いまは。
目を開けば、見渡す限り茶色い土と白い氷が果てしなく続く、死の大地が広がっている。
流刑を見届けるためと理由をつけてここまで自分を送り届けてくれた、亡き親友の息子ナナム・ゲルニェン・ニャムサンが去り際に言ったことを思い出して、思わず、苦笑いが浮かぶ。
--京師を攻めて、新しい唐主を立てるんだ。
--そのために小父さんは必要だから、すぐに許しが出るよ。
あの長安を手に入れ、新帝を即位させる。そんなことは夢物語だ。
ツェンポの命でこの北原に流されて、生きて都に戻った者は、いまだかつていない。ニャムサンは励ましでそんなことを言ったのだろう。
そう、自分に言い聞かせたつもりだが、こうして長安のことを思い浮かべてしまうのは、まだ、こころの底に未練があるからか。
頭を振って追憶を振り払い、大きく息を吸う。
昨日よりは幾分鋭さを失った空気が胸に流れ込んできた。
冬の終わりが少しずつ近づいている。
どうやらこの冬は生きて越すことが出来そうだ。
だが、来年は?
吐き出す息とともに「いくぞ」と声を発すると、ゲンラム・タクラ・ルコンは両脚で馬の腹を軽く締めた。
後ろから馬蹄の響きが追いかけてくる。
今日はどこまで追ってこられるかな。
気遣ったのは、ほんの一瞬。
斬るような冷たい風を受けながら、ぐんぐんと速度を上げて丘を駆け下りる。
肌を刺す殺気。
耳をつんざく喊声。
無数の兵の塊が両翼を広げ、ルコンを包み込んで潰そうと待ち構えている情景をありありと思い浮かべる。
左翼。
わずかに兵が薄くなっている。
ルコンは馬首を向けた。
それに合わせて敵もゾロリと動き始める。
黒蟻の群れ程に見えていた兵士たちの姿が、グングン大きくなる。
敵陣の動きが早くなってくる。
津波のように背後に迫って来る右翼が追いつくよりも早く、ルコンは左翼に突っ込んでいた。
想像のなかで、剣を振るう。
兵の胴を薙ぎ払い、胸を突き、頭を落とす。
左翼の兵は浮き足立ち、混乱し始める。
そのなかをルコンは駆け抜ける。
ルコンを追っていた兵たちは慌てふためく味方に行く手を塞がれ、足を止められる。
前方を、切り立った崖が立ち塞がる。
息をつくまもなく、右から敵が突っ込んでくる。
先鋒を軽く躱すと、その脇をすり抜け、崖に沿って走る。
方向を変え追いすがろうとする敵兵を思い浮かべながら、ルコンは駆けた。
谷に突っ込む。もう逃げ場はない。
袋のネズミ。
敵はそう思うだろう。だが、ここに伏兵があれば、すりつぶされるのはあちらの方だ。
三方を崖に囲まれた谷間でルコンは馬を止め、振り向く。
朝日が白く照らす谷間の入り口。
そこには、ただ静寂だけがある。
ルコンの脳内で生み出した敵軍は、跡形もなく消えていた。
※ ※ ※
ルコンの背中はあっという間に小さくなる。
リンチェは必死であとを追った。
ルコンが右折して崖に沿って駆けるのを確認し、リンチェはだいぶ手前で馬首を右に向け距離を縮めようと試みる。
それでもグングンとルコンの姿は小さくなっていく。
風が頬を切る。冷たい空気にさらされた瞳が乾いて、ボロボロと涙がこぼれる。
不意に、ルコンの姿が消えた。谷に駆けこんだのだ。リンチェは必死に谷に向かって馬を走らせた。
明るい荒野から谷間の濃い影の中に入ると、目がチカチカして、一瞬、何も見えなくなった。慌てて馬を止める。
「ずいぶんとゆっくりと歩いてきたな、リンチェ」
笑いを含んだルコンの声。
顔が熱くなり、今度は悔し涙があふれ出す。
「殿の馬、わたしの馬よりいいからです」
「馬のせいにするなと言っているだろう」
ルコンは近づくと、軽くリンチェの馬の首筋を撫でる。リンチェの目は、ようやくルコンの笑顔を捉えた。
「これはいい馬なのだ。その能力を引き出せないのは主の責任だ」
「帰りは交換、いいですか」
「わからぬヤツだな。おまえの相棒を大事にするんだ。さあ、帰るぞ」
ゆっくりと馬を歩ませて谷を出るルコンの背中を、リンチェはしゃくりあげながら追った。
ルコンと家来たちの住まう洞窟は、小高い丘の中腹にある。その麓に到着すると、ルコンは馬をリンチェに託して丘を登って行った。リンチェは二頭を厩としている天幕に戻してまぐさをやってから丘に登り、洞窟の入り口で家来たちとともに朝食をとる。
ふいに肩をたたかれた。
「今朝はどっちが勝った?」
顔を見ずとも声でゴーであることはすぐに分かった。リンチェは慌てて顔を伏せ、まだ濡れている頬を隠した。
「知りません」
「負けたのだな」
からかうような声色に、また眼がしらが熱くなる。
「先に行っているぞ」
リンチェの返事を待たず、ゴーはそのまま歩み去っていった。リンチェは慌てて麦こがしの団子を口に詰め込んでヤクの乳で腹に流し込むと、ゴーの後を追った。
洞窟のある小山の麓で、ゴーは東の空をにらみながら待っていた。その視線の先には都がある。
リンチェ以外のここにいる人間は、みな都からやってきた。家来たちは、ルコンのいないところで都のことを懐かしんで語り合う。ゴーがそのような雑談に参加することはなかったが、やはり都は恋しいのだろうか。
「ゴーさんも都のほうがいいですか?」
リンチェの問いに、ゴーは首を回して顔だけをリンチェに向けた。
「別に、都もここも変わらないさ」
「でも、都にはたくさん遊ぶところがあって、ひとがいて賑やかだから、なにもないここ、つまらないとみんな言います」
「どこにいても人間のやることなんて大して変わりはない。食って寝るだけだ」
ゴーがかすかに笑った。
ゴーだけは、ルコンの家来ではなかった。都でゴーが仕えていた主人が消えてしまったので、ゴーはルコンの許しを得てここにいるのだという。
都が恋しいのでないなら、もう会うことの出来なくなった主のことを懐かしんでいるのだろう。
ゴーは剣の柄に手をかけると言った。
「さて、始めるか」
シャッと音を立てて抜かれた白刃が、朝日を映して輝いた。
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