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第一章
チャンタン その2
しおりを挟む半年前。
放牧の民であるリンチェの家族が暮らすこの地に、十一人の男たちがやって来た。小高い丘の中腹にある大きな洞窟を住まいと定めた彼らは、丘の麓に家財を山のように積んだ荷車を置き、次々と荷物を洞窟に運び込み始めた。
父と叔父はそれを見て眉をひそめた。
「うっかり触れば災難が降りかかる。近づくな」
「どうして?」
リンチェの疑問に答えたのは長兄だった。
「あのひとたちは、ツェンポから罰を受けてやって来た貴族に違いない。冬になるとここは草一本生えない死んだ土地になるから、オレたちは違う土地に移動するだろう。でも、彼らは移動することは許されていないんだ。つまり、『死ね』とツェンポに命じられたひとたちだよ。オレもお前ぐらいの歳のころ、同じ季節に一度見たことがある。夏になって再びここに戻ってきたときには、みんな凍え死んでしまっていた」
リンチェは貴族など見たことがなかった。その上、死に値する罪を犯した悪人だという。
いったい、どんな顔をしているのだろう。
リンチェの好奇心が動いた。
高々と歌う父と叔父の後に続く家畜を兄たちとともに追いながら、リンチェは洞窟をうかがった。入口にうず高く積まれていた家財がなくなっている。代わりに、父と同じ年頃と見える男と長兄と同じ年ごろの青年が丘のふもとで腰掛けてこちらを眺めていた。ふたりとも、金糸で文様が刺繍されたきらびやかな衣を纏い、色とりどりの玉石で飾った黄金の頭飾りや首飾りを身につけている。
親子だろうか?
『近づくな』とは言われたが、『手を振るな』とは言われていない。
それでも見つかれば叱られるだろう。リンチェは誰も自分を見ていないことを何度も確認してから、そっと手を振ってみる。と、ふたりが手を振り返した。
リンチェは嬉しくなった。想像していた悪人とはまったく違う。陽の光を浴びて輝くその姿は、神さまみたいだった。
夕食を終えてから、家族に気づかれぬようこっそりと天幕を抜け出して、リンチェは罪人たちが住むという洞窟へ向かった。
いつもなら、どこかにお化けが潜んでいるのではないかと恐ろしく思う闇夜も、この日は少しも怖くなかった。リンチェは一心に洞窟に向かって走った。
小山の坂を駆けあがり、洞窟の入口を覗きこもうとしたとき、腕をつかまれて、リンチェは悲鳴をあげてしまった。
「何者だ」
振り仰ぐと、男がリンチェの腕をきつくつかんだまま見下ろしていた。
「何をしに来た。誰かに命じられて探りに来たのか」
男はリンチェの返事も待たず、次々と質問を投げかけて来る。昼間に手を振り返してくれたあの神さまみたいな男に会わせてくれ、と伝えたかったが、都の言葉に巧ではないリンチェはとっさに単語が思い浮かばない。つかまれた腕が痛くて、必死で男の手を振って振り払おうと暴れた。しかし男は「こやつ、逃げるつもりか」とますますきつく腕を締め付ける。リンチェは大声で「助けて!」と叫んだ。
洞窟のなかからもうひとり男が出てきた。
「どうした」
「あ、ゴーどの。怪しい者を捕らえました」
ゴーと呼ばれた男はリンチェをチラリと見ると言った。
「子どもではないか」
「しかし、洞窟のなかをうかがっておりました。間者かもしれません」
ゴーは鼻を鳴らす。
「ふん、この子どもが? ここは都ではないぞ。そんな警戒をする必要はあるまい。珍しい人間が来たから見物に来たのだろう」
リンチェは必死でうなずきながら、ようやく見つけた言葉をつなげた。
「昼間、ひと、見た。会いたい」
「昼間に見たひと?」
ゴーに意味が通じたことに力を得たリンチェは、洞窟の外を指さした。
「この下、私たち、見ていた」
「それは殿ではありませんか?」
男が言うと、ゴーは眉をひそめる。
「なぜ会いたい」
「字。教えてください」
以前から望んでいた、でも家族に言えなかったことを、リンチェは思い切って口にした。
「都の偉いひと。知っている。教えてください」
なんとかわかってもらいたい一心で必死に見つめていると、ゴーは目を細めた。
「ちょっと待っていろ」
「ゴーどの、まさか殿にこの下賤の子どもを……」
「下賤?」
ゴーが鋭い視線を向けると、リンチェの腕をつかんでいる男は怯えたような顔をして、ピタリと口を閉ざした。
「ルコンさまのご意向をうかがってくる」
ゴーは洞窟の奥に姿を消した。
ゴーに案内された洞窟の奥に、リンチェの会いたかった中年の男と青年が、焚火をはさんで胡座していた。青年の優しい笑顔を見て、リンチェはホッとして涙が出そうになった。
「都の言葉はわかるのかい?」
「少し」
青年はうなずくと、自分の顔を指さして言った。
「よし、自己紹介しよう。オレはニャムサン」
次に中年の男を指さす。
「こっちの小父さんはルコンだ」
そしてリンチェを指さした。
「おまえの名前は?」
「リンチェ」
「歳は?」
リンチェが首をひねると、ニャムサンはまた自分を指さす。
「オレは二十五」
次にルコンを指さす。
「小父さんは四十四」
リンチェは言った。
「わからない」
「十四、五ってところか。リンチェは近くに住んでる遊牧の民だな」
「この洞窟、一番近い天幕です」
『下賤』と入り口で男が言ったことを思い出して顔が熱くなる。が、ふたりは特に蔑むような表情を見せることはなかった。それどころか、ニャムサンはうらやましそうな顔をする。
「リンチェは生まれたときから牛や羊と一緒に暮らしてるのか。いいなあ」
はじめてルコンが口を開いた。
「また牛飼いになりたいなどと言い出すのではないだろうな」
「このままリンチェの家族になっちゃおうかな。リンチェには年ごろのお姉さんはいない?」
「愚か者が、いい加減大人になれ。おまえのような甘ったれに、遊牧の生活はひと月も耐えられまい。ひとにはそれぞれ天に与えられた役割というものがあるのだ」
「ちぇ、こんなところまで来て説教かよ。だけど孔子さまは『五十而知天命』って言ってるんだろ? オレはまだ半分だぜ。違うところに天命があるかもしれないじゃないか」
「無駄に知識ばかり頭に蓄えおって」
ルコンは肩をすくめると、リンチェに向かって言った。
「ところで、字を学びたいそうだな」
リンチェはうなずく。
「はい。教えてください」
「字を知ってどうするのだ」
問われてうつむいてしまう。ただ、リンチェは学びたかったのだ。それでどうしたいなどということまで考えていなかった。
「したいことなかったら、ダメですか」
「そんなことないだろ。教えてやれよ」
ニャムサンが言う。ルコンは苦い顔をした。
「帰ってしまうくせに、無責任なことを言うな。もうこの子の家族はこの地を離れる時季だ。学ぶ時間などないだろう」
「わたし残ります」
「それはいけない。われわれはここで冬を越せるかどうかわからぬ。一緒に死んでしまうかもしれないぞ」
「オレが燃料も食料も送ってやるから心配ないって。子どもがひとり増えたってどうってことないよ。それに、都育ちの小父さんの家来よりよっぽど役に立ちそうだぜ」
ニャムサンの口添えに、リンチェは必死にうなずいた。
「一生懸命働きます。家来にしてください」
ルコンはしかめ面のまま言った。
「では、おまえの家族がいいと言ったら家来にしてやろう。話し合って来なさい」
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