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第二章

進軍 その2

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 涇州刺史高暉は物見の櫓から西の大地を見渡して呆然とするしかなかった。
 一万、二万なんてものではない。城門の前に陣取っている軍の背後には、遥かかなたまで続々と吐蕃兵が列をなしていた。
 敵がこちらに向かっているという情報は、早くからつかんでいた。二千人の城兵ではとても防ぐことが出来ないであろう大軍であることも。
 当然、都へ援軍を求める急使を立てた。が、京師からはなにも反応がなかった。帝のもとに届く前に、あの忌々しい宦官の手で握りつぶされているに違いない。
 そうこうするうちに吐蕃は予想外の速度でこの涇州に攻め寄せて来た。
 死ねと言われているようなものではないか。
 ああ、誤った。
 オレの敵は目の前の蕃夷ではなく、宮廷の佞臣だった。ここにいて吐蕃を迎え撃つよりも、宮城に駆けこんで、あのなまっちろい程元振ら、宦官どもの首をすべてはねてやるべきだったのだ。
「万事休すだ」
 どうせ死ぬならあの大軍に身を投じて、華々しく討ち死にでもするか。
 しかしいかに勇敢に戦っても、帝の耳に届くことはないだろう。
 むなしい。
 悶々とこれからどうすべきかと思い巡らしていると、城門の真正面から浪々となまりのない唐語が響いて来た。
「高将軍、話を聞いていただきたい」
 敵に名指しされ、一瞬にして迷いが晴れた気がした。すべてを敵に委ねよう。一歩踏み出そうとすると、部下が前を塞いだ。
「矢を射かけるつもりかもしれませんぞ」
「かまわぬ。どうせ勝ち目はないのだ。一日二日、生を引き延ばしても仕方あるまい」
 部下は顔を引きつらせて高暉の前から退き、その脇にピタリと添った。もしものときは身体を張って守ろうというつもりか。
 ふと、自分の首と引き換えに、部下や城内の民の助命を乞うことは出来るだろうか、と思ったが、圧倒的に劣勢のこちらが出す条件を飲まねばならぬ義理はないだろう。
 問答無用ですべてを撫で斬りにする。それが蕃夷とのいくさというものだ。
 それなのに、なぜ呼ぶ。
 高暉は見えない糸に引き寄せられるように櫓の端に歩み寄ると、無防備に我が身を敵軍の前に晒した。
 矢は飛んでこなかった。
「オレが涇州刺史高暉だ」
 高暉が名乗ると、城門前に整列していた兵たちがスッと道を開ける。そこに深紅の旗を掲げた従者を従え、きらびやかな甲冑に身を包んだ将が進み出て、高暉を見あげた。年の頃は自分と同じ、四十半ばの痩せぎすの男。
 将は鷹揚な笑みを浮かべながら拱手した。高暉も応じる。
「お初にお目にかかります」
 男自身の口からなめらかな言語が発せられて、意外に思う。先ほどの呼びかけは通詞か降伏した唐将だろうと思っていたのだ。
「わたしは馬重英。この軍の総司令です」
「馬重英?」
 深紅の旗が風に翻って、はじめてそこに『馬重英』と白く名が書かれているのに気づく。高暉は眉をひそめた。吐蕃の将軍はシャンとかレンとか名乗るのではなかったか?
「唐人か」
「いいえ。しかし若い頃はこの名乗りで貴国内を放浪いたしておりました」
「なぜわざわざオレを呼び出した。寡兵と侮って降伏を勧めるつもりか。悪いがオレは蕃夷に頭を下げる気はないぞ」
 敵将を目にして、わずかに残っていた意地が口を突いて出てしまう。しかしそれを聞いても馬重英は怒りを表すどころか笑みを深めた。
「将軍の高潔無比なお人柄はよく存じております。なればこそ、われらがこのような兵を発した事情をご納得いただけると信じておるのです」
 高暉は黙っていたが、馬重英はかまわず続けた。
「将軍は、いまの社稷をいかが思われる」
「異な事を申す。中華の政事がどうであろうと貴様には関係あるまい」
「とんでもない。わが国と唐は舅甥の間柄。先代の陛下は唐室の公主を妃としております。決して他人事にはございません」
「ならばどうだというのだ。まさか唐を滅ぼし、吐蕃王ツェンポを帝につけようというのか」
「唐を滅ぼすつもりはございません。それどころか、これからもお互いに助け合い、良好な関係を築いて行きたいというのが我が陛下の思し召しです。しかしいまの帝は愚かにも身辺に侍る宦官の甘言を喜び、誠のこころを失っておられる。我が国との約定を破っておきながら国の安否には無関心で、国境を守る兵たちは見殺しにされる。おこころ当たりがありましょう。先の安史の反乱に功をなした節度使も太守も刺史も、それに見合った報酬を得るどころか、手柄をあげればあげるほど宦官どもの妬心を買い讒言されるとの噂が、高き山々を越えたわが国にまで届いておりますぞ」
「して、いかがしようと言うのだ」
 高暉は馬重英の言葉にこころ魅かれ始めているのを感じた。
「われらは京師にのぼり、唐の宗室からこころある賢いお方を帝に立てる所存にございます。そのために、是非、高将軍にもお力添えをいただきたい。ご承知いただけましたら、我らは将軍と御家来衆、そして涇州の民に狼藉を働くつもりはございません」
 高暉はしばらく瞑目して、馬重英の言葉を反芻した。
 悪くない。
 唐宗室とは何者なのかは分からぬが、宦官どもを一掃してくれるのであれば、誰であってもかまわない。
 それに新皇帝の擁立に尽力した功績を認められれば出世が出来る。節度使どころか、一気に宰相の地位に登ることも夢ではない……。
 目を開いた高暉は、馬重英に頷いて、傍らの副将に言った。
「開城する。武装を解き、門を開け」
「しかし……」
「抵抗しても無駄にひとのいのちが失われるだけだ。民を守るのも刺史の役目だろう」
 自分をも欺く言い訳をして、もの言いたげな副将から視線を外すと、高暉は馬重英を迎えるために櫓を降りた。
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