ナナムの血

りゅ・りくらむ

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出胎

その9

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 日が西の山々に隠れ、東の山際から宝石のかけらのような無数の星が散らばり始める。夕闇の草原には赤い焚火が点々と灯り、香ばしい匂いと歓声が満ちていた。
 ラナンとケサンはルコンと焚火を囲んで地べたに座り、リンチェが捌いた羊を食べた。
 はじめて口にする野戦料理に、ラナンは作法を忘れてかぶりついた。ケサンも口いっぱいに頬張ってあっという間に骨を山と積む。
 山麓の地から採れるという塩を振って焼いただけのものだったが、都の、どんな高価な食材を使った手の込んだ料理よりも美味いと思った。
 ふと目をあげると、温かい光に照らされたルコンの穏やかな表情がある。
「ああ、おいしかった。兵士になれば、いつもこのような食事が出来るのですか?」
 ふくれた腹をなでながら一息ついたケサンが聞くと、ルコンは笑った。
「まさか。今日はラナンどのがいらしたので歓迎のご馳走だ。普段は麦粉の団子くらいしか口にすることは出来ないよ。実際の戦場では食物も水も手に入らないことがあるから、それに備えて数日間飲まず食わずで実戦演習を行うこともある」
「うへぇ」
 ケサンはげんなりした顔をした。
「それって、わたしたちもやらなくちゃだめですか」
「ナナム家は兵站の担当だが、やって悪いことはない」
「必要ないならやらなくていいですよね」
 ケサンはラナンに同意を求める。ラナンはやったほうがいいと思ったが、スムジェがどう思うかがわからない。うつむいてしまうと、ルコンはまるでラナンのこころを見透かしたかのように言った。
「誰がどう思うかなど考えなくていい。ご自身が、いま、正しいと思ったことを言ってごらん」
「わたしは、やったほうがいいと思いました」
「どうしてそう思われた?」
 どうして?
 思わぬ問いかけに、ラナンは困った。
「なんとなく……です」
「ならばやらぬほうがいいではないか。ケサンがやりたくないと言っている」
「え、そんなこと申しておりません。殿がやれとおっしゃるなら、なんだって喜んでやります」
 ケサンが早口で言う。ルコンは声を出して笑った。
「まことにケサンは家来の鏡だな。ラナンどの。このように、家来は主の指示に従わなくてはならない。だから主はそれを自覚して言葉にも行動にも気をつける必要があるのだ。特に戦場での誤断は、多くの部下のいのちを失う結果となりかねぬ」
「はい」
「勘で判断するのも、決して悪いことではござらん。時間が十分ないときや、いくら考えても正しい答えが出ないときなど、勘に頼らざるを得ないこともあるからな。しかし、常日頃から考えることを放棄してはいけない。いま、ラナンどのは、この隊がやっているのだから、自分たちもやったほうがいい、と思われたのではないかな」
 ラナンはうなずいた。
「はい。そうなのだと思います」
「それではダメだ。騎兵隊と兵站とでは役割が違うからな。まず、兵站とはどういうものかということをしっかりと理解する。そのうえで、兵站にはどのような危険が生じるかを考える。補給線を切られるかもしれないし、兵糧を焼かれるかもしれないだろう。だから、兵站はそのような危機に備えた調練をしたほうがいい、と決めて、今後はその方法を考える。想像力を働かせ、なんども自分に問いかけるのだ。正しく想像するためには経験を積むことが必要だが、ひとりの人間の経験出来ることなどたかが知れている。そこで他の人間の経験からも学ぶことが大切になってくる。幸いスムジェどのは経験豊かな尚論だから頼りにしていいと思う。だがそれだけではなく、出来るだけ多くのひとから意見を集めることを積極的にしたほうがいい。それをもとに、最後は自分の頭で徹底的に考える。その結果をすべて自分が受け入れる覚悟を持って、決定するのです」
 そんなことを言われたのは初めてだった。母もスムジェも、ラナンになにをすべきか指示するだけで、ラナンがどう考えているのか、何をしたいと思っているのかなど聞いてはくれない。
 話題が移ると、もっぱらラナンはルコンとケサンの世間話の聞き役となっていた。ふいにケサンの口から出たゲルシク将軍の名に、ラナンは心の臓が縮んだ気がした。
「都に来れば、名高いゲルシク将軍にもお会いできると、わたしはとても楽しみにしていたんです。だって、この国の男子に生まれてゲルシク将軍にあこがれない者はいないでしょう。それなのに、殿にひどく冷たく当たるのでガッカリしました。殿はなにもしていないのに、酷いじゃないですか」
 酔った勢いか、ケサンの口調はいささか無礼なものになっていた。それを咎めることなく頷きながら聞いていたルコンが、ふっとラナンに視線を向ける。
「ラナンどのもゲルシクどのに文句があれば言ってごらんなされ。ゲルシクどのに言いつけたりはしないよ。三人だけの秘密だ」
「文句だなんて……」
 ゲルシクが自分を嫌うのはもっともだ。文句など思いつきもしなかった。
「ゲルシクどのの態度に思うことはござろう。なんでもいい、吐き出してごらん」
「わたしが、悪いのだと思います。わたしよりもニャムサンのほうがナナムの長にふさわしいから、シャン・ゲルシクはお怒りなのでしょう」
「ゲルシクどのは、ニャムサンのことを我が子のようにかわいがっているのだ。ちと贔屓が過ぎても気になさるな」
「いいえ、わたしは自分がそれにふさわしくない者と自覚いたしております。でも母も、家来も、みんなが……喜んでくれたから……」
 いままで誰にも話せなかったことを語り始めると、次から次へと言葉が溢れ出し、止まらなくなった。
 突然、スムジェが現れて、わけも分からず都に連れてこられたこと。自分はひとの物を奪うようなことをしたくなかったが、母と兄に逆らうことが出来なかったこと。ニャムサンは許してくれたがどうしても罪悪感が消えないこと。こうして家督を奪って高い地位に就きながら、周りの尚論たちに話しかけることすら出来ず、少しも国の役に立てていないこと。
 ふいに涙が込み上げてきた。嗚咽がのどを塞ぐ。それでも止めてはいけない気がして、必死に話し続けた。切れ切れになったラナンの思いを、ルコンは黙って受け止めてくれた。
 ケサンが声を放って泣き始める。
「すみません、すみません。わたしは鈍いから、ちっとも殿のお気持ちに気づかなかった。都に来るときにもバカみたいに燥いで……」
 ルコンが両手を伸ばして、泣いているふたりの肩をたたいた。
「ラナンどの。ニャムサンはこころの底から家督など継ぎたくないと思っているのだ。わたしもあれにマシャンどのの跡を継いでほしいと思っていたが、どうしても本人がイヤだというのだから仕方がない。ラナンどのがいてくれなかったら、どうなっていたことか。それでもニャムサンに悪いと思われるなら、名実ともにナナムの家長となり、一族をしっかりとまとめることだ。それが一族の不和で父を失ったニャムサンへの恩返しになる。だが、焦らずゆっくりでいい。何事も始めからうまく出来る者などいないからな。わたしだってラナンどのと同じ年のころは、失敗する度に親族や家来に叱られていた。それでこうしてなんとか家長らしい者になったのだ」
「ルコンどのも?」
 ラナンがルコンの顔を見つめると、ルコンはうなずいた。
「生まれたときから一族の長となるべく育てられたわたしでさえ、そうだ。ラナンどのが出来なくても恥じることはない。だが、いつまでもそれではいけないな。まずは胸を張り、顔をあげることから始められよ。そして受け答えだけでもいい、はっきりと大きな声を出しなされ。それが小さな自信となる。こうして少しずつ自信を積み重ねていけばそれが大きくなって、やがて自分の言葉で語ることが出来るようになる。友人というものも自然に出来るし、ゲルシクどのの誤解も解けるだろう。いま、ラナンどのは、わたしに自分の考えを立派に述べてくれた。やれば出来るではないか」
 微笑むルコンの目を見て、ラナンはしっかりとうなずき返していた。
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