ナナムの血

りゅ・りくらむ

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出胎

その10

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 翌朝、ラナンはケサンを連れてリンチェのもとへ向かった。
「わたしにも馬を教えていただけますか?」
 リンチェの顔がほころぶ。
「わたしでよろしければ喜んで」
 ラナンの芦毛馬を見たリンチェは瞳を輝かせて歓声をあげた。
「美しい馬ですね。ラナンさまのことが大好きなのがよくわかりますよ。いつも会話をなさっているのではありませんか?」
 頬が熱くなった。
 ラナンは馬が好きだった。その穏やかな目を見ていると、自然と辛いことや悲しいことを口にすることが出来る。しかしケサンにすら見られるのが恥ずかしくて、誰もいないときにこっそりと話しかけることにしていた。
「会話というか、わたしが一方的に話しをしているだけです」
「それでも、鼻を鳴らしたり、うなずいたり、馬も答えてくれるでしょう。わたしもよくするのでわかります」
 言いながら、リンチェが馬の鼻ずらを優しく撫でると、馬はそうだというように、グルルと鳴きながら頭を縦に振る。
「でも、まだ一度も思い切り走らせたことがないのです。大丈夫でしょうか」
「この子はラナンさまと一緒に、たくさん走りたいと思っているはずです。お互い信頼し合っているのだから大丈夫。あとはラナンさまが走ろうと決心されるだけです」
 それなら今朝、目覚めたときから出来ている。ラナンは馬に飛び乗った。
 はじめはゆっくりと常歩で、リンチェに手綱さばきを習いながら、次第に速度をあげてゆく。
 恐怖はなかった。
 自分でも驚いたことに、ラナンは乗馬の筋がいいようだ。あっという間にケサンを追い越し、日が天頂に昇る頃にはリンチェと同等に競えるようになった。
 遠巻きでようすを見ていた兵士たちも、ラナンがリンチェの言葉に素直に耳を傾けているうちに、だんだん近くに寄って来た。勇気を出してラナンから声をかけて教えを乞うと、みな先を争うように教授し始めた。
 夕方には、彼らとともに馬を走らせた。
 こんなに楽しいものが世のなかにあると、はじめて知った。
 ラナンは夢中になって草原を駆け巡る。ラナンが笑うと、兵士たちも無邪気に笑った。ラナンの機嫌を取るための愛想笑いではない。心の底からラナンの上達を喜び、ともに馬を走らせるのを楽しんでくれているのだ。
 夜はルコンが、若いころに先王の命令で名を偽って遊学した唐での経験や、帰国してからゲルシクの副将として参加した北方でのいくさのことなどを話してくれた。
 ラナンは三日の間、乗馬の技術をみっちり教わって、滞在最後の一日は、ふたりの将校が大将となって行われる実戦演習を見物した。
 騎馬隊は土煙を舞いあげながら、目まぐるしく陣形を変化させ、馳せ違い、ぶつかり合う。高台に設えられた観覧台で前のめりになって見入っていたラナンの脇で、ルコンが言った。
「わずか数か月でよくもここまで上達してくれたと思うが、まだまだ唐の軽騎兵には及ばない」
「あれでも」
 ラナンは驚いた。ルコンはうなずく。
「唐には生まれたときから馬に乗っているような民の出身者も多いし、馬の質も違う。これまではわれらの得意な山でのいくさが主だったが、今回は平地で戦わなくてはならないから、その対策が必要となる。さて、あれ以上の機動力を持つ数千騎の軍を止めるには、どうしたらよいと思われる」
 ラナンは考える。
 矢で狙い定めて撃ち落とすのは難しそうだ。歩兵が槍を突き出しただけでは、蹴散らされてしまうだろう。
「馬の脚を止める……。落とし穴のような罠はどうでしょう」
「それを掘る時間、敵をそこに誘いこめる地の利があるときはそれでいい。しかし、そんなものがない場合には?」
「事前に乗り越えられないような柵を用意して備えておくとか……」
「これは兵站を預かるラナンどのへの依頼だ。あらゆる事態を想定して準備してくだされ。頼みましたぞ」
 ルコンに肩を叩かれて、ラナンは身体が熱くなる。仕事を任された、というのが嬉しくてならなかった。
 翌朝、帰途につくラナンを、ルコンと多くの兵士たちが見送ってくれた。
 どの顔も笑顔だ。
 なかには涙を流して別れを惜しんでくれる者もいる。
 これまで身分低い者からは恐怖の表情でしか見られたことのなかったラナンの胸に、熱いものが込み上げて来た。溢れる涙をそのままに、見えなくなるまで何度も振り返り、彼らと挨拶をかわし合った。
 馬を走らせる楽しみを分かち合った彼らと、いまは別れの悲しみを共有している。
 こころが通じ合うというのはこういうことか。
 ラナンは、この感覚を忘れないようにしようと思った。

 ラナンが兵士から乗馬の手ほどきを受けたと聞くと、青ざめた母はケサンに食って掛かった。
「なぜ止めなかった。もしものことがあったらどうするつもりです。おまえごときのいのちであがなえるものではありませんよ」
「申し訳ございません」
 平謝りするケサンを、ラナンはかばう。
「わたしがやりたいと言ったら、ケサンに逆らえるはずがありません。お叱りはわたしが受けます」
「おまえがわたくしの言いつけを破るはずがない。レン・タクラに無理強いされたのですね。正直におっしゃい」
「いいえ。馬を走らせたいと思ったから、わたしから兵士たちに教授をお願いしたのです。ルコンどのは、家長としての心構えについて、有意義なご助言をくださりました」
「それで母に逆らえと教わったのか」
「そのようなことはありません」
 母は胸元で両手をギュッと握り締めた。
「いや、そうに違いない。おまえは気づかぬうちに海千山千のレン・タクラに誑かされたのだ。現に、いまもわたくしに盾突くことを言うではないか。このようなことは、いままでにはなかった。やはり陛下にスムジェどののご同行をお許しいただくべきでした。ナナムの家長としてふさわしい振る舞いは、スムジェどのが教えてくださいます。おまえは余計なことは考えず、これまでどおり、スムジェどのの言うとおりにしていればよいのです。よその家の方の言うことなど、聞いてはなりませんよ」
「いいえ、母上」
 ラナンは勇気を振り絞って、母を凝視したまま言った。
「もちろん、兄上の仰せはないがしろには致しません。ですが、これからは家長として、わたしはわたしの意思で、何事も決定させていただきます」
 ラナンは母に一礼し、ケサンを連れて天幕を出た。
「勝手なことは許しません」
 背に突き刺さるように響いた母の金切り声が自分を責める。それでも立派な家長になれば、母もわかってくれるに違いない。
 ラナンは尻込みしたい気持ちに鞭打って、兄の天幕に足を向けた。
 スムジェは帰京のあいさつを聞くと、口角をあげてニヤリとした。
「だいぶ日に焼けたではないか。そのほうが健康でいい」
「兵に馬を教えてもらいました」
 母と違って、スムジェはその言葉に笑顔を崩すことはなかった。
「大奥さまにも報告されたか」
「はい」
「なんと仰せだ」
「勝手なことをするなと、怒られました」
 スムジェは軽く眉をひそめた。
「わたしが説得してやろう。後方支援とはいえ、なにがあるかわからぬから、馬には慣れておいたほうがいい。輿に乗って行くわけにはいかんしな。いい経験が出来てよかった」
 あまりにもアッサリと言ったので、ラナンは肩の力が抜けた。次の言葉は自ずと出て来た。
「そのいくさの件なのですが、人員配置や準備について、一族の意見を聞きながら決定したいのです。みなを集めることはできますか」
 スムジェは眉をあげて、一瞬ラナンに鋭い視線を向けた。が、また笑顔になると、おどけるように言った。
「おまえは家長なのだから、そういうことは遠慮せず命令しなさい」
 スムジェの快諾に、ラナンは自分を縛っていたのは自分自身だったのだと気がついた。いままでスムジェに逆らうどころか、どうしたいという意見を言ったこともなかったのだから。
 一族や家来のほとんどは、いくつかの戦場を経験している。彼らの経歴や性質をよく知ってるスムジェは、誰にどういう役目を任せるのが最善かということを助言してくれた。兵站として備えるべきことも教えてくれた。ラナンはそれを参考にしつつ、出来るだけ多くの一族や家来の意見を聞き、自分で考え、決定して行った。その結論がスムジェの意見と違ってしまうこともあったが、スムジェは特に機嫌を損ねるようには見えなかった。
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