ナナムの血

りゅ・りくらむ

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背信

その19

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 翌朝、大相の館に出向いたラナンとツェンワは寝室に通された。ティサンは寝台に半身を起こしてふたりを迎えた。
「お見苦しい姿で失礼いたします」
 詫びるティサンに恐縮する。
「これからトンツェンのもとに参りますのでご挨拶にうかがいました。ご不例でらっしゃると存じておりましたら遠慮させていただいたのですが」
 ティサンは弱々しい微笑みを見せた。
「少し熱が高くなったので休んでおりましたが、大したことはございません。ところで、ルコンどのが謹慎となったとか。芳しい戦果を得られなかったため、とうかがっておりますが、昨日ご報告されたときには、陛下は特段お怒りのごようすではなかった。いったいなにがあったのですか」
 ラナンは本当のことを話そうか、しばし迷った。ティサンは主戦派ではあるが、決して道理のわからぬひとではない。だが、そのわずかな躊躇いを、ティサンは見逃さなかった。
「わたしが知る必要のあることなら、陛下がお教えくださるでしょう。差し出がましいことを申しました」
 それからじっとラナンの顔を見て、続けた。
「ラナンどの、陛下を欺くようなことだけはなされますな。陛下にとって、ラナンどのは叔父上でらっしゃるとともに、ご友人でもある。ニャムサンどのやサンシどのにそうあって欲しいと思ったこともございましたが、結局あのふたりは政治から離れてしまった。ラナンどのは宮中で、陛下が唯一、こころ許せるお方なのです」
 もう既に、その信頼を裏切ってしまっている。ラナンは胸がうずいて、眉をしかめた。ティサンはすべてを見通しているように言った。
「大丈夫。陛下はラナンどののおこころをわかっていらっしゃいます」
 ティサンが軽くせき込むと、枕元に控えていた家来が薬湯を差し出す。それを飲んで一息つき、ティサンは笑顔を向けた。
「わたしはもう長くない気がする」
「そんな気の弱いことをおっしゃらないでください」
 ツェンワの言葉に、ティサンは首を振る。
「陛下はわたしのやりたいことを、思うとおりにさせてくださいました。思いもかけず大相を拝命し、若いころに思い描いていた夢はほとんど叶えてしまった」
 ひとえに軍事だけで、この国は唐と肩を並べたわけではない。ティサンは、マシャンの失脚後もそれに乗じて崇仏派だけを利することはせずに、粘り強く伝統派との融和に尽力し、尚論たちの結束を図った。さらにバー・ナンシェル・ズツェンに次いで大相となると、唐や天竺のよいところを取り入れ、法制、軍制、行政機構、医療体制などを改革し、内政を充実させた。その功績は計り知れない。
「もうわたしの役目は終わりでしょう。ただひとつの気がかりは、ゲルシクどののことです。あの方は熱くなると後先を考えることが出来なくなってしまう。あのご気性をよくご存じのあなた方がうまくかじ取りをしてください。トンツェンどののお怪我が悪くなければよいのですが」
 子どものころからゲルシクに将として厳しく仕込まれたトンツェンは、三人のなかでは一番ゲルシクの操縦方法を心得ていたのだ。
 大相の館を辞すると、ふたりはゲルシクの館を訪問した。ルコンの謹慎について聞かれたらどうしようかと思ったが、トンツェンの容態に気もそぞろなゲルシクはそれを知らなかったようすで、話題に上ることはなかった。ふたりは唐に対する恨み言をさんざんぶつけられて館を出た。
 謹慎中のルコンに会うことは出来ない。ふたりはその足で、街中にある訳経所に向かった。
 かつてここには、百年五十年ほど前にこの国を統一したティ・ソンツェン王の中国妃文成公主が建立したラモチェ寺があった。しかし、先王ティデ・ツクツェン王を暗殺した大相バル・ケサン・ドンツァプが、唐人の和尚を追放して廃寺とし、次いで摂政となったマシャンが、徹底的に破壊して更地にしてしまった。マシャンの失脚後、王はここに仮設の伽藍を建立し、訳経所としたのだ。
 ティサンが俗世間の法を整えたように、ニャムサンはここで、こころの世界の法というべき仏法を国に広めるための仕事をしていた。
「なんだ、珍しいな」
 ニャムサンは、ぐったりとした顔でふたりを私室に招いた。何日もまともに食事も睡眠もとらずに仕事に熱中していたのだろう。
「陛下のご命令で、これからトンツェンの見舞いに行ってまいります」
 ラナンが言うと、ニャムサンは顔をしかめた。
「おっさんから聞いたよ。本当にトンツェンは危ないのか」
「わたしたちも、昨日ゲルシクどのから聞いたばかりです。しかし、国境から動けないのですから軽くはないのでしょう」
「そうだな……」
 ニャムサンはしんみりとした顔をする。
「お願いがあって来たのです。陛下のもとに行っていただけませんか」
「どうしたんだ?」
「おこころに傷をつけてしまいました」
 ニャムサンが視線だけで先を促す。
「ルコンどのとわたしは、陛下に無断で郭子儀と和平の交渉をしました」
「それって反逆罪じゃないか」
「お咎めは覚悟のうえです」
「おまえらって、なんでもかんでも簡単にいのちを賭けるのな。出かける前に、死ぬようなことはするなってあんなに言ってやったのに、もう怒る気も失せたぜ。それで、どうなったんだ」
「ルコンどのが謹慎を命じられました」
「で、オレにナツォクをなだめろって言うのか」
「ルコンどののことが心配なのです。もしも死罪なんてことになったら……」
「まったく、あの小父さんは、いつもは苛立たしいほど慎重なクセに、ときどきとんでもないことをしでかしてくれるんだから、イヤになっちゃうよ。まあ、厳罰に処すつもりなら、謹慎なんてぬるいこと言ってないで地下牢に放り込むさ。いざとなったらオレも出来る限りのことはしてやるから、そんなに心配しないで行っといで。トンツェンによろしく。帰ってきたら、今度はとことんおしゃべりに付き合うよって言っといて」
「あ、それから、唐で捕らえた茹瑞宝という者を、寺の工事で使ってやってくれませんか。あまり重労働は出来ないでしょうけど」
「そんなことならお安い御用だ。同胞が来ればサンシが喜ぶよ。いろいろ助言してもらえるんだろ」
 寺の工事を監督しているバ・ティシェル・サンシは、もとの名を馬尚喜という。唐の官僚馬徳の息子で、国境の小競り合いを調停するための人質として、十歳でこの国に送られて来た。聡明なサンシは先王に気に入られ、太子の遊び相手として宮中で育てられた。
 ツェンワは眉をひそめる。
「それは期待しないほうがいいんじゃないかな。信じられないようなバカですから。仏の教えについてはまるで知らないと思いますよ」
「なんでそんなのを、遠路はるばる連れ帰るんだ」
「敵の総大将の甥なのですが、行きがかり上、捕えねばならなくて」
「力仕事が出来ないバカを、どう使えって言うんだよ」
 ニャムサンは頬を膨らませた。
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