44 / 60
背信
その20
しおりを挟むそれぞれの家臣と護衛の兵士たちを引き連れて、ふたりはカム東のはずれにある砦に向かった。雪の積もる険しい峠や急流の河も、この国で生きている者にとってはさほどの障害ではない。ふたりがもっとも恐れていたのは、途中でトンツェンの訃報を伝える使者と出会うことだった。が、幸いそれらしい者とすれ違うことなく、無事、トンツェンがいるという村に到着した。
雪山と大河に挟まれた小さな村落を見下ろす山の中腹に築かれた砦は、背後の山に西日を遮られ、青い影の底に沈んで見えた。
先触れの使者としてケサンを送る。ラナンとツェンワは馬を降り、寒風に身をさらしながら無言でその砦を見上げていた。
やがてケサンは、常にトンツェンの側に仕えているルンタを連れて戻って来た。
「よく、お出でくださいました。殿もお喜びになられます」
涙で顔をグシャグシャにしたルンタに、ツェンワが小声で聞く。
「トンツェンは話しをすることが出来るのか」
ルンタはうなずく。
「だいぶ息がお苦しいようで、いままでどおりとはいきませんが」
あまりしゃべらないトンツェンなど、想像がつかない。
「やっぱりわたしは行かないほうがいいかもしれない」
ツェンワが尻込みするようなことを言い出した。
「なにを言うのです」
「だって、まだトンツェンはわたしのことを怒っているかもしれないじゃないですか。苦しんでいるときに、わたしの顔なんか見たくないでしょう」
トンツェンに拒絶されるのが怖いのか、傷ついたトンツェンを見るのが怖いのだろう。しかし、ここで会っておかなくては、一生の悔いを残すこととなる。ラナンは語気を強めた。
「お忘れですか? わたしたちは陛下の名代として参ったのですよ」
「ラナンだけで大丈夫でしょう」
「陛下はふたりに命じられたのです」
うなだれたツェンワの足元の土に、こぼれた涙が染みを作る。ラナンはその背をそっとたたいた。
「さあ、参りましょう」
ツェンワがうつむいたまま、よろめくように歩を進める。ラナンはその震える肩をしっかりと支えながら、先に立って案内するルンタの背を追って、砦に続く急坂を登った。
トンツェンの家来たちは一様に暗い表情を見せていた。医術師に容態を確認してから、トンツェンの部屋に向かう。
「こちらにいらっしゃいます」
ルンタが扉をそっと開くと、ムッとした臭気が鼻を衝いた。戦場で嗅ぎなれた、死体が発するにおいと同じだ。
もう亡くなっているのではないか。
ラナンは心の臓が騒いだ。
小さな灯りが、あおむけで横たわるトンツェンの姿を浮かびあがらせている。顔が布で覆われていて、こちらからはまったく表情を見ることが出来ない。ルンタが枕元に駆け寄って、「シャン・ツェンワとシャン・ゲルツェンがいらっしゃいました」とささやくと、ゆっくりと左手が上がった。
生きている。
ラナンとツェンワは支え合うようにしながらそろそろと、トンツェンに近づいた。
傷が化膿しているのだろう。矢を射られたという左半分の顔を覆っている布が、ジクジクと赤黒く濡れている。だが覆われていない右側半分は、いつものトンツェンの顔だった。眼だけをふたりに向けたトンツェンは笑んでいた。
「トンツェン!」
ツェンワが涙声で呼びかけると、かすかにうなずいて、かすれた声を出した。
「なに、泣いてるんだよ、バカ」
「だって……」
「もう、くたばってると、思ったか。よく、来てくれたな」
「陛下のお計らいです」
ラナンが言うと、荒い息のもとで、一言一言区切るように言う。
「ありがたい。オレの、一番会いたかった、ふたりに、会えた。じゃなかったら、死んでも、死にきれない、気持ちだったよ」
ツェンワがその手を握ると、トンツェンは握り返した。
「ツェンワ、悪かった。許してくれ」
「なんで、なんで謝るのですか。わたしが悪かったのに」
「違う。オレも、嘘をついてた。本当は、おまえが、東方元帥に選ばれたのが、悔しくて、妬ましかったのに、隠してた。気付かなかったか」
ツェンワが首を振る。
「へへ、単純バカのオレにしては、上出来の演技だったようだな。だから、おまえが、友達失格なら、オレだって、友達失格だ。オレはずっと、おまえに、嫉妬してたんだよ。ゲルシクどのが、おまえを東方元帥に選んだのは、おまえが、兵に向き合える、将だからだ。だけど、オレは、最後まで、出来なかった。あの兵士には、幼い子供がいる、あちらの兵士には、年老いた親がいる、そんなことを、知ってしまったら、怖くて指揮が、出来なくなってしまう。オレは、目をつぶって、強いてそういうことを、見聞きしないように、していた。だから、それが出来るおまえのことが、羨ましくて、ならなかった」
一気に話すと、トンツェンは荒くなった息を整える。やがてラナンに眼を向けた。
「ありがとな。こいつの尻叩いて、連れてきてくれたんだろう。おまえは、一番年下なのに、一番頼りになる」
ラナンも、ツェンワの手にかぶせるように、トンツェンの手をそっと握った。熱を持ったトンツェンの指がふたりの手の感触を確かめるように、かすかに動いた。
「もう一度、三人で、飲みたかったな」
ツェンワがしゃくりあげながら言う。
「出来ますよ。よくなって、都に帰って……。ニャムサンも、今度はちゃんとおしゃべりに付き合ってやるって言ってました」
「こんなになってから、言うか。ホント、かわいくないやつだ」
せき込むように笑うトンツェンの胸が激しく上下した。
「トンツェン、お苦しいようでしたら無理にお話しされなくても……」
気づかうラナンの言葉に、トンツェンはふたりが握る手首を振って応えた。
「どうせ、もうすぐ、死んじまうんだろ? わかってるんだ。だから、好きなだけ、話しさせてくれよ」
それからは、切れ切れに、思い出話がトンツェンの口から語られた。ツェンワは涙声でそれに突っ込んだりくさしたりし、ラナンは微笑んでそれを聞いている、いつもの三人の光景になっていた。
「ダメだな。もうちょっと、気の利いたことが、言えると思ったのに、いつもと同じだ。まあ、オレの頭が、急によくなるわけが、ないからな」
「そうですよね」
「おい、こんなときくらい、気を使って、『そんなことない』とか、言えよ」
小さな三つの笑い声が重なった。
「ゲルシクどのは、どうしてる」
「とても心配されています」
ラナンが答えると、トンツェンは目を閉じた。
「心配なのは、こっちだ。オレが死んだら、暴走しかねないだろ……もう、暴走してるのかな」
ふたたびゆっくりと開いた右目が、ラナンを捕える。
「オレは、このごろのゲルシクどのを見ていて、ドンツァプと同じことをしでかすんじゃないかと、怖くてしょうがないんだ」
「どういうことです」
「おまえは知らないだろうが、レン・ケサン・ドンツァプは、王のためにいのちを惜しまず戦う、忠実で立派な将軍だった。それなのに、先王陛下を殺した」
トンツェンは息継ぎをしながら続ける。
「要因は、ふたつある。ひとつは、ドンツァプが進めていた勃律あたりのいくさで負けが続いて、陛下のご不興を買っていたことだ。あのままだったら大相を罷免されていたかもしれないからな。もうひとつは、陛下が金城公主の影響で、仏教を優遇していたことなんだ。神の化身であるはずの王が仏を尊ぶなんて、ドンツァプには許せなかった。そして、たとえ相手が王であっても、間違いは正さなくちゃいけないと思い込んだ。ゲルシクどのも、同じようなところがあるだろ」
〈生ある限り、唐と戦い続ける〉と息巻いていたゲルシクの顔が思い浮かんぶ。もしも王が唐との和睦を選んだら……。
背筋に悪寒が走る。
「大丈夫です」
思わず、言っていた。
「そんなこと、絶対させません」
「頼んだ。おまえが請け負ってくれれば、安心だ」
トンツェンの力強いまなざしに、ラナンはうなずいた。
二日後の朝、ふたりは後ろ髪をひかれる思いでトンツェンに別れを告げた。
「ありがとう。会えて本当にうれしかった。もう思い残すことはないよ」
ささやくように言うトンツェンの穏やかな右半分の笑顔を、ラナンは胸に焼き付ける。トンツェンの記憶にもふたりの笑顔が残るように、ラナンとツェンワは笑って部屋を出た。
麓の村から振り仰いだ砦は、来たときとは逆の方角から差し込む朝日を浴びて、キラキラと金色に滲んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
