テンシを狩る者

小枝 唯

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楽園へのプロローグ

堕ちた男

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 ──苦しい。苦しい苦しい苦しい。早くこの無意味に動き続ける心臓を止めたい。そのために、一生懸命作った縄先の輪っかに首を通す。
 ボロボロの椅子から一歩出れば、やっとこの世界から抜け出せる。だが時が止まったかのように、足が動かない。それは、絶望しか見せなかった目の前に、この世のものとは思えないほど美しい存在を見たからだ。
 光り輝いてさえ見える真っ白な肌に、純白の翼。その人物は、まるで有名画家が描き残した天使。

 呆然と見惚れていると、しなやかな両手が伸びて頬を包んだ。男女とも分からない中性的な顔が、優しく微笑む。

「あなたの願いを、一つ、叶えよう」

 その晩、男は人には無い力を手に入れた。

        ───                **             ───                    **

 履き慣れた革靴の底から、激しい音が鳴る。男は闇雲に走っていた。誰かの助けを求めて、大都会のど真ん中を転びそうになりながら。
 しかし日付けを跨いでしばらくした今は、残念ながら人の足が最も遠のく時間だ。普段は鬱陶しいと思える人々をこんなにも恋しく思うなんて。

「鬼ごっこは終わりかね」

 背後からの声に、心臓がギュッと締められるのを感じた。まるで遊びに付き合っているかのような軽い口調が、男の恐怖心をさらに煽る。声から逃げるには、なんとか視界から外れなければならない。
 必死に頭を回転させた結果、手頃な角を曲がった。だが目の前が塞がれて、男は落胆を覚える。佇むのは壁。誰かを望んだ男は、無我夢中に走るあまり、人が好まない路地裏の行き止まりにたどり着いたのだ。ゴミを烏が散らかしたのか、ひどい生臭さがパニックを起こした思考を余計に邪魔する。
 静まった空間に、コツコツと鋭い靴底の音がこだました。

「いい月夜にこんな所を選ぶのは……なんというか、いい趣味だね」

 左右を見渡しながらの皮肉に男は振り返ると、まだ逃げようと壁へ縋って背中をつける。それまで顔を隠していた満月が、雲間から地上を覗いた。月光はスポットライトのように、追っ手を照らす。彼を追い詰めたのは、風変わりな女だった。
 女は距離があっても、男が少し視線を上げなければ顔を認識できないため、180は悠に超えているだろう。流暢な日本語だったが、顔のパーツは日本人には無い堀の深さだ。海外モデルだと言われれば信じるプロポーションは、コルセットでより強調されている。風が、黒に見える太ももまでの髪を揺らした。しかし月光に照らされると、毛先は不思議と紫色に染まっているのが分かる。
 しかしいくら凝視しても、会った覚えが無い。現実味が無い風貌をした彼女と出会っていれば、一度だとしても、たとえ会話をしていなかったって、忘れられない印象を植え付けられる。

「お前は誰なんだ……? ど、どうして天使を知っている?!」

 女の切長の目が、さらにスッと細められる。光を含まない紫の瞳は、夜に溶けるアメジストのようだ。美しさに心を奪われそうになりながらも、男は声を荒げた。
 たった数時間前に出会った彼女は、男を「新米君」と呼んだ。しかし口元に笑顔があれど、僅かに殺意が滲んでいた。だから、彼が逃げたのは本能的だ。

 天使──宗教にでも洗脳されたと思うだろう? しかし違う。男は本物の天使に会った。あの、自らの命を絶とうとした夜に。そして力を手に入れたんだ。苦しめた相手に復讐できる力を。

「い、今更何なんだ! この力は、俺にくれたんじゃないのか?!」
「おいおい、勘違いしないでくれ。ワタシはアイツらの仲間じゃあない」

 そう言って頭を振る彼女の声は静かだが、確かな嫌悪を感じた。アレらの関係者じゃなければ、一体何者なのか。
 女は改めるように、背筋を伸ばして片足を少し引くと、大胆なフリルを施したドレスシャツが包む豊満な胸元へ手を添える。

「ワタシの名前はリーラ。日本のテンシ狩りで、代表をやらせてもらってるんだ。よろしく」
「……は?」

 なんでもない自己紹介に、男はキョトンとする。しかしその単語は知っていた。テンシ仲間の噂話を、いつの日か小耳に挟んだ事がある。その名の通り、天使とテンシ化した人間を狩る組織。目を付けられる事を仲間は恐れていた。
 男の顔はサッと青ざめる。その時は他人事だった。テンシは何十人も居る。だから、わざわざ自分の目の前になんて現れないと、すっかり油断していた。

「どうして俺なんだ? 他にもたくさん居るだろ! お、俺はただ、アイツに復讐をしたいだけだ!」
「復讐について、どうこう言ってるわけじゃない。悪いとも思わないしね」
「じゃ、じゃあ」
「被害者面は止したまえ。白々しい」

 うわずって震えた言葉を遮った低い声に、男は肩を跳ねさせた。それまでどこか揶揄いを含んでいた紫の瞳が、氷のように冷たい。
 リーラは足元で無造作に捨てられた段ボールに腰を下ろし、呆れるように溜息をつく。そして黒い手袋に包まれた長い指を、八本立てた。

「これは、キミが殺した数だ。だが恨んだ上司は、確か一人だったね? 数が合わないのが不思議だと思わないかい?」

 男は言葉を忘れたかのように、口を開け閉めし、空気を咀嚼する。
 脳裏を駆け抜けるのは、肉を貫き裂く感触。そして、それまで穏やかだった表情が一気に絶望に落ちる、あの瞬間。絶叫、救いを求める声。偶然目の前にあった命が、いとも簡単に自分の手で潰れる感覚。それらは全て、男にとって快楽だった。

「まったく……ただ殺す奴はそこら中に居るが、オマエのは質が悪いんだよ。人の趣味に口を出すつもりはないが、子供でのはどうかと思うがね?」

 リーラは肩をすくめ、馬鹿にするよに、憐れむように鼻で笑う。男は怒りか羞恥、どちらとも言えない熱を溜め、赤くした顔をしかめた。
 彼女の言葉はきっと、世間的には最もだろう。しかしそれを気にして縛られるのは、弱い人間がする事じゃないか。自分はそれから解き放たれる力を手に入れている。
 そこまで考えて、男はふっと肩から力が抜けたのを感じた。今一度、冷静に自分に問いかける。そういえば、どうして彼女に怯えていたのかと。
 たしかに本能的だった。しかし今思えば、全く恐怖が無い。むしろ恐怖する必要はないじゃないか。だって相手は女。いくらテンシ狩りで代表と言っても、所詮は男女の力の差は存在する。
 男の口角が不気味に引き上がるのを、リーラは見逃さなかった。

「八人殺したって知って一人で来るなんて、ずいぶん大胆だな?」
「……キミみたいな奴に、可愛い部下を会わせたくないからね」
「なら俺は強運だ。あんたみたいな女を殺して犯せるんだからな!」

 男は醜い笑みのまま、言葉と共に駆け出した。リーラはそれに対し、ゆっくりとした仕草で立ち上がる。
 暗闇の中、天から降る唯一の光に反射する彼の両手には、十本のナイフ。それはただの刃ではなく、異様に伸びた爪だった。男の奇妙に引き上がった唇から見える牙に、吊り上がった真っ黒な目。少しずつ人の形から変わるその姿は、天使ではなく化け物が相応しい。

(か)

 リーラは溜息とも言えない小さな息を吐く。彼女の首に刃先が触れるその直前、パンッと軽快でいて、鼓膜を強く刺激する音が響いた。
 その一瞬の間だけ、男の視界はスローモーションになった。おかしい。確かに獲物を切り裂こうと向けていた手が、何故か背中へ行っている。そしてリーラの手は、何か虫でも払うようにかざされていた。

(はじ、かれた?)

 全力で襲い掛かった腕が、呆気なく弾かれたのだ。しかも反動であらぬ方向へ行くほど、強い力で。
 数秒と無かった出来事のせいで遅れてやってきた腕の激痛が、理解を促進させる。しかし男は余計に信じられなかった。だって、あの一瞬で腕の骨が折れたのだ。女の──人間の力じゃない。
 男の喉奥から、恐怖によってひゅっと歪な音が鳴った。逃れようと体勢を変えたが、片腕の感覚が無くなったせいか、バランスを崩す。転びそうな体を支えたのは、リーラの手。まだ無事な腕を掴む手は男より華奢なのに、ミシリと音を立てた。

「八人殺したくらいでイキがるなよ、坊や?」

 リーラはクスクス笑うと、男の背中を蹴り飛ばした。彼の体は一秒と掛からず壁に激突し、力無く地面に崩れる。動けない。呼吸ができない。背中に、穴が空いているのが分かった。
 コツリコツリと鳴らしながら近付く足音が、遠退きかけた意識を引き止める。かろうじて、リーラへ視線だけを向けた。

「お、ま、えは……っ」

 何なんだ。その問いは、喉に込み上がる血に溺れて言えなかった。それでもリーラには、男の言いたい事が分かっていた。同じような質問を、これまで何度も言われるからだ。だが、どうやら答える気は無いようで、男の前でしゃがむと、何も言わずに足のレッグポーチから銃を取り出す。
 彼女は見た目の割に、大雑把な面がある。だから、繰り返された質問には、面倒臭さが勝ったのだ。それに彼はもうすぐ眠るのだし、答えても意味が無い。

「地獄の中でおやすみ」

 優しい微笑みの直後、静かな街に銃声が轟いた。
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