テンシを狩る者

小枝 唯

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楽園へのプロローグ

密かな企み

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「よう坊主、乾杯」
「かんぱい!」

 差し出されたグラスに、リーベは反射で自分のをぶつける。どこかで見た事のある顔だと、残った酒を飲み干す忠徳をじっと見つめた。ここに来るよりも前、リーラと出会う前だ。
 「あっ」と小さな声が零れる。記憶が蘇った。大きな剣を持った男。大天使として目覚め、最初に対峙したのが忠徳だと思い出した。おぼろげだった脳裏の景色に浮かぶ彼の顔と、完全に一致した。瞬間、体をあの時の敵意と恐怖が駆け抜ける。
 リーベの人形のような丸い黄色の瞳に、青が滲んだ。両手からグラスが滑り落ち、慌てて忠徳が床に落ちる前に拾う。

「おぅどうした、危ねえぞ?」

 グラスをテーブルに戻しながら、リーベの顔を覗き込む。その瞬間、ほろ酔い状態から一気に醒めた。青色の瞳から大粒の涙が溢れている。

「おいおい、俺そんな怖い顔かっ?」

 たしかに忠徳は強面だが、しかし全く違う勘違いをした。そんな食い違いをするのは、リーベが大天使として対峙した時と今の姿が、大きく違うからだろう。
 忠徳はとにかく泣き止ませようと、視線を泳がせる。何か、怖くない事を示さなければ。悩みに悩んだ、彼は片手をリーベの目の前にかざした。

「リー坊、手を見ろ」
「ひっ……うぇ?」
「そうだ、そのまま。何にも入ってないだろ?」

 ゴツゴツした手は、涙を堪えるリーベの顔を包めそうだ。言葉通り、特別な動きは何もない。左右に振られる手を、涙に滲んだ青い瞳が追いかける。
 次に手はぎゅっと拳を作り、忠徳はふっと強く息を吐く。その瞬間、ポンッとチューリップが咲いた。リーベの瞳が黄色に眩しく輝く。

「花が咲いた!」
「ほれ、大事にしな」
「くれるのかっ? ありがとう!」

 小さなチューリップは造花だ。それでも嬉しそうに受け取る姿に、忠徳は胸を撫で下ろす。もうすっかり悲しみを忘れたのか、目から涙は流れない。涙の跡が残る頬を、大きな手が優しく拭った。
 彼は過去に孫が居た。小さな子供をあやすために習得したマジックが、ここでも役に立ってくれて良かった。

 少し力強くも頭をワシャワシャ撫でられる。あれだけ怖いと思っていた大きな手は、記憶とは別物のように優しい。リーベはじっと忠徳を見つめた。

「わたしに大っきな剣、刺さないのか?」
「んなこたぁしねえよ。だがお前さんがもし虐められそうになったら、俺がその剣で守ってやる。約束だ」

 まずは新しい剣を調達する事から始めないといけないが。そこまで考えて、ふと忠徳は疑問を持つ。どうして剣の大きさをリーベが知っているのかと。
 そう不思議に思って隣を見ると、忽然と姿を消していた。探すと、少し遠くで別の狩人と話している。後ろからとんとんと肩を叩かれた。振り向いた先に居たのは律。重そうな袋を抱えて立っていた。

「おぅどうした律。座れ座れ」
「お話中すみません。ヨアケさんからこれを預かっていて」

 差し出されたのは、両手で抱えるほどの黒い袋。中を見ると、見慣れたコートが丁寧に畳まれていた。歳のせいか、理解するのに数秒の時間を用いた。
 そうだ、治験の本拠地に行った時、ヨアケに投げてそのままだった。この袋はクリーニング店からのだろう。

「悪いなぁ。それにしても、わざわざ丁寧に洗ってくれたのか。幾らかかった」
「お金は貰ってくるなと。あと伝言を」
「ん~?」
「もう二度とあんな事をするな……って。何したんですか?」

 忠徳は少しシワの刻まれた目をキョトンとさせると、可笑しそうに豪快に笑った。あんな事というのは、無茶をしてヨアケだけを生かそうとした事だろう。
 律とヨアケはパートナーでも恋人でもない。知り合ったのも、テンシ狩りになってからだ。それでも、ここ数年で同居するようになった。彼は事情を聞くと呆れたようだ。ヨアケがいつにも増して機嫌が悪かった理由がようやく判明した。

「もう……あんまり無茶しないでください。ヨアケさん、今日だけで一箱もタバコ吸っちゃったんですよ?」
「ははは、今度やってやるか」

 メデューサである彼女は永遠と思える時を生きている。だからこそ、心配性である事を忘れていた。怪我がない事を改めて伝えるためにも、彼女が喜ぶであろうモデルを務めてやるかと、律に笑ってみせた。


 賑わいが絶えない中、一人だけ溶け込めない人物が居た。澄は落ち着きなく視線を泳がせている。たまたま隣になった紾は、その視線がリーラに向けられているのに気付いた。

「リーダーになんか用?」
「えっ? あ、いやその……」
「用あるなら行けばいいよ」
「とんでもない! 新人の自分なんかが」

 紾は肩を縮こませる澄を不思議そうに見る。彼は大学在籍中、リーラにスカウトされてテンシ狩りになった。初めからこの環境に慣れているため、澄の気持ちを理解できない。
 紾は席を立つと、目立つように緩く手を挙げた。

「リーラ、今空いてる?」
「め、紾さんっ?」

 紾はギョッとする澄を他所に、彼女からの返答を待った。さすがと言うべきか、こんな雑踏でも紫の瞳がすぐこちらを向いた。リーラは手を挙げて応える。そのやりとりを他人事のように眺めていた澄を立たせ、彼女を挟む形で座った。

「やあ二人とも、楽しんでいるかね」
「まあまあ」
「も、もちろんです……!」
「澄さんが用あるって」
「いっ?!」
「そうか、なんでも言ってくれ」

 澄はしばらく二人からの視線に口をはくはくさせる。チラリとリーラを見ると、微笑みながら首をかしげ、次の言葉を待っていた。

「……ほ……ホワイトすぎて、不安です」
「? ホワイト?」
「会社の事をブラックとかホワイトとか言うんだ」
「ほう?」
「ブラック企業は……簡単に言うと色々法に触れて、社員を人間として扱わない。ホワイトはその逆」

 テンシ狩りは世界から隠された、陰の職。それを考えると、法に触れている云々は定かではないが、狩人に対しては手厚い職場ではある。
 テンシを一体倒すと、最低10万は振り込まれる。それも相手が強ければ、もっと高額だ。その他、現場で追った怪我やテンシに関連した負傷は全て保証される。

「私が一番驚いたのは……上司である貴女が、我々一社員と同じ立場で現場に行くという事……」
「なにぶん特殊な仕事だ。そもそも、社員という括りじゃないからね。ワタシはただ、マスターから命令を直に受け、皆をまとめるだけさ。それだけで偉いとは思わんよ」

 リーラは基本、飲み会を開く際は奢る事にしている。それは代表だからという気遣いではなく、心からの労いだ。仲間が何をどう思って生活できているか、悩みはないかなど、そういったものを知りたいというのもある。
 他国の代表はどうするか分からないが、少なくとも上に立つ者。普段から皆に信頼される動きをしている事は間違いない。

「それに、死と隣り合わせな仕事。キミらを一番に考えるのは当然だ。時にスミ君……キミの不安は、他にありそうだね?」

 澄はぎくりと肩を跳ねさせる。視線を右往左往させ、観念したようにおずおずと口を開いた。

「…………お、お力になれるか、不安で」
「なんだ、キミは力になれない気でいるのかね?」
「そういうわけではっ!」
「ふふふ、安心したまえ。活躍できる場を用意する……それもワタシの仕事だと思っているよ」

 もちろん、その場にちゃんと立てるかどうかは本人次第。
 澄の淡い紅茶のような瞳が大きくなる。かと思えば、みるみる内に縁に涙が溜まって溢れ出した。涙腺が壊れたかのように、ボロボロと大粒の雨が頬に流れる。

「え、どうしたの」
「Ups! すまない、何か気に障ったかね。それとも日本語を間違えたか」
「ち、ちが、違うんです……っ。ずびばぜん……お、俺、人間扱いされてるぅ……ってぇ」
「えぇ?」
「澄さん、今までどんなとこいたの」

 相当労働基準を無視していた職場のようだ。危険な仕事には変わりないが、彼にとってはここが天国のように感じるだろう。
 リーラは未だ流れ続ける涙を優しく拭う。

「喜びの涙ならば良かった。キミにも期待しているよ。ぜひ励んでくれたまえ」
「は……はいっ」

 濡れた頬が赤く染まると、出かけていた涙は引っ込んだ。途端に澄は震える手で酒を一気に煽る。横目で、紾は彼の顔を赤くさせた理由が、酒のせいではないと理解した。


 リーラが澄たちと別れを告げて元の席に戻ったのを見送ると、隣がすぐに埋まった。座ったのは春人。彼は挨拶がわりにグラスを軽くぶつける。

「なあ、リーベちゃんってパートナーなん?」
「ああ」
「テンシやんな? 変わった気配するけど」
「そうだ。オマエも仲良くしてやってくれ」
「ええけど……子犬ちゃん、嫉妬するんやない?」

 子犬というのは、リーラのドイツでのパートナーだ。190近い彼女に負けないガタイをしていても、甘えん坊で子犬と呼ぶに相応しい存在。日本に来る最後まで手を離そうとしなかった姿が、まだ最近のように感じる。

「あの子はワタシが誰を優先するか、ちゃんと分かってる。だから嫉妬なんてせんよ。それに、月に一度は帰ってるんだ」
「罪な女やなぁ」
「そんなに言うなら、ハルが代表になってくれても構わないんだがな?」

 リーラは春人の顎をくすぐるように上げさせる。彼は過去、代表候補の一人だった。自己紹介の時、戦い方を物理という簡単な言葉でまとめたが、ただの物理攻撃ではない。他には無い、特殊であり強力な力を持っている。
 しかし辞退している。それは、テンシ狩り以外に仕事を持っているからだ。テンシ狩りは副業で、本業は演劇。彼は自身の劇団を率いている。それを優先したいため、辞退したのだ。

「それに、強いだけじゃ無理やん。俺には務まらんて」
「どうだかな」

 リーラはカクテルを一口飲み、目だけでリーベの様子を見る。独と喋っているようだが、表情が困惑しているのが分かった。空になったグラスをカウンターへ戻しながら、椅子から腰を上げた。

「ハル、リーベを来させるから、喋ってやってくれ」
「? ええよ?」

 耳は人間よりいい方だと自負している。この騒動の中でも、意識すれば誰が何を喋っているのか分かるほどだ。
 少しずつリーベと独に近寄ると、どうやらリーラを話題にしているらしい。リーベに散々力について尋ねているが、彼にはあまり見せていないためたじろいでいる。すると、妙な勘違いをしたのか、小馬鹿にするように笑う。

「女が代表ってだけで変だと思ったんだ。どうせ上司と寝たんだろうな」
「寝た?」
「女はな、足さえ開けば──」
「生憎だが、ワタシは誰にも抱かれた事は無いんだ」

 リーラは二人の間に入って座る。リーベは驚いていたが、ホッと安堵の息をついた。独はその言葉に疑わしそうに視線を上下させ、彼女の引き締めつつも女性らしい体を舐め回すように見つめる。
 その隙を見て、リーラはリーベを席から立たせると、指で春人が座る隣の椅子を指さした。彼はこちらを不安そうにチラチラ見返りながらも、無事移動する。

「その見た目で未経験だぁ?」
「おや、誰が未経験と言った?」
「は……? 抱かれた事はないって言ったろ」
「ああ。抱かれた事、ね?」

 あえて、同じ言葉を強調して見せる。すると意味を理解したのか、独の顔は不愉快さと羞恥を混ぜたように歪む。

「ドク君、親しいと図々しいを履き違えてはいけないよ?」

 リーラは微笑んで首をかしげて見せる。まるで子供をあやすような仕草。それでいて、全てを見透かしたような言葉。
 独は苛立つように立ち上がる。

「もう帰るのかね。夜道を気をつけたまえ」

 何も気にしていない素振りで手を振られ、彼は舌打ちをすると見せを出て行った。
 店を出た足は、家路以外をたどる。飲み屋街には、もう既に仕上がったサラリーマンでいっぱいだ。しかし独の目的は、不愉快さを払うために別の店を探す事ではない。
 喧騒を通り抜け、一気に夜の静けさが包む。そこに、遊具の無い小さな公園があった。ベンチに、一人座っている。

「来たぞ」

 座っている人物は、声に振り返る。優しい笑みを見せるのは、クリーム色のスーツを着た紳士だった。
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