25 / 94
プロローグ - 第1巻:新たな人生
第23章:ひとときの休息
しおりを挟む
いくつもの時が過ぎた。
雪はすでに止み、白銀の世界は静寂の中に凍りついていた。
だが、その冷たさは依然として苛烈で、吐く息も、踏み出す足も容赦なく凍てつかせていた。
完璧に広がるその白い大地の上――
わずかに残る足跡だけが、静寂を乱す唯一の証だった。
アリニアとヴェイルは、変わらず進み続けていた。
そびえ立つ木々が連なる森の中、長く伸びた影がまるで彼らを試すように伸びていた。
まるで森そのものが意志を持ち、彼らを惑わせているかのように、同じ景色が延々と続いていた。
音はなかった。
ただ、雪を踏みしめるたびに生まれる、あのザクッという音だけが、
世界に存在する唯一の律動のように響いていた。
「なあ、アリニア……そろそろ休憩しないか?」
息を切らしながら、ヴェイルが声をかける。
アリニアは、彼の方を振り向くこともなく、無言のまま歩を進めていた。
その白い耳はピンと立ち、わずかな物音も聞き逃さぬよう張り詰めている。
返事のないまま、彼女は前だけを見据えていた。
《ったく……》
ヴェイルは内心で苦々しく唸った。
息は不規則に乱れ、身体にはあの熊との死闘の影響が残っている。
その疲労が、今ではじわじわと脚を重くさせていた。
そんな時だった。
アリニアが、ふいに足を止めた。
「うわっ……!」
油断していたヴェイルは、そのまま彼女にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
「何度もぶつかってきたら――今度はちびオオカミを木に括りつけるわよ」
振り返ったアリニアが、からかうような笑みを浮かべた。
「わ、悪い……ってか、なんで急に止まったんだ?」
困ったように頭をかきながら尋ねるヴェイル。
アリニアはすぐには答えず、周囲を見回す。
視線が止まったのは、ひときわ大きな一本の木。
その根元には、大きな空間が空いており、そこだけ雪がほとんど積もっていなかった。
アリニアはそっと近づき、慎重にその場所を確かめる。
「薪を集めてきて」
淡々とした口調で、彼女はヴェイルに視線を向ける。
「やっと休憩か! よっしゃ、すぐ行ってくる!」
ヴェイルは親指を立て、軽く笑って駆け出した。
彼が木々の奥へ消えていくのを見届けると、
アリニアは腰の小さな袋から、干し肉と香草の入った小袋を取り出した。
動きに無駄はなく、すべてが慣れた手つきだった。
ほどなくしてヴェイルが薪を抱えて戻り、火を起こす。
焚き火の暖かさがじわじわと身体を包み込み、冷えた筋肉を優しく解していく。
ヴェイルは木の幹にもたれかかり、肩を落として深く息を吐いた。
《……ああ、これだよ。やっと人間らしい時間って感じだ》
彼の顔には、安堵の色が浮かんでいた。
その横で、アリニアは小さな鍋を取り出し、そこに水を注ぎ入れる。
火の上に置いた鍋からは、やがて静かな湯気が立ち昇っていった。
焚き火のパチパチとした音と、微かな風の音だけが、この穏やかな時間を満たしていた。
「なあ……そのダンジョンってさ。なんで行くんだ? 目的があるのか?」
沈黙を破り、ヴェイルが尋ねた。
アリニアは、鍋の中に視線を落としたまま、わずかに耳を動かした。
そして、淡々とした声で答える。
「あるものを回収しなきゃいけないの」
その言葉は短く、簡潔だったが――
そこに含まれた意味は、計り知れなかった。
ヴェイルは、曖昧なその答えに困惑しながらも、
それ以上は何も言わなかった。
《……物? 命を懸けてまで探すような物って、一体何なんだ……?》
ヴェイルは炎の揺らぎを見つめながら、心の中でそう呟いた。
パチパチと薪が弾ける音が静かに続いていたが――
二人の間に流れる空気は、言葉にされなかった問いで徐々に重くなっていく。
「その物ってさ……そんなに大事なのか? 命懸けで探すくらいに?」
ためらいがちに、ヴェイルは口を開いた。
アリニアはわずかに顔を上げた。
耳がほんの少しだけ揺れたが、目は鍋から離れない。
《こんな雪山を一人でさまよってるくせに、よくもまあ……》
そんな思考が一瞬、彼女の脳裏をよぎる。
だが彼女は、それを口に出さず、乾いた声で答えた。
「もし中身がわかってたら、とっくに苦労してないわよ」
その言い方は、どこか突き放すような、棘のある調子だった。
「えっ……それってつまり……」
ヴェイルは言葉を詰まらせながら、驚きに目を見開く。
「命懸けで行くのに、探す物が何なのかも分かってないってこと?」
混乱と困惑が混じったその問いに、
アリニアは無言のまま、香草の束を鍋に入れた。
その手つきは変わらず丁寧で――だからこそ、かえってその静けさが緊張を生んでいた。
湯気が立ち上り、かすかに香ばしい香りが風に乗る。
その香りとは対照的に、空気には重さが増していく。
「物は、そこにある。それだけは確かよ」
静かに、だが断言するように、アリニアは言った。
「ダンジョンってのはね。中に目的の物が残ってる限り、消えない。
消えずに存在し続けるってことは――まだそこにあるって証拠」
《……それが“確信”? 本当に……?》
納得しきれないまま、ヴェイルは視線を向けた。
だが、アリニアの言葉に迷いは感じられなかった。
「じゃあ、仮にだよ?」
少し強い調子で、ヴェイルは続ける。
「もしその“物”が、まったく価値のないものだったら? 命を懸ける価値もない、ただのガラクタだったら?」
アリニアはゆっくりと彼の方を向いた。
その目――
焚き火の光を受けて淡く光る氷のような蒼が、真っ直ぐにヴェイルを射抜く。
その視線に、ヴェイルは一瞬、言葉を失った。
「――泣き言はやめなさい、ちびオオカミ」
その声は低く、鋭く、冷たい。
「もしその物が商店の棚に並んでる程度の代物なら、
こんな危険な場所に潜る必要なんてない。私たち“回収屋”の出番もないのよ」
彼女は姿勢を正し、焚き火の先――森の奥を指さした。
「怖いなら、戻ればいい。街ならあっち。運が良ければ、二度とケアルゥルに遭わずに済むかもね」
「……ケアルゥル?」
その言葉に、ヴェイルは目を瞬かせる。
聞き慣れない単語が、脳裏に引っかかる。
《ケアルゥル……? それって何だ?》
彼は眉を寄せたまま、小さく問い返す。
「それ……なんだよ? ケアルゥルって」
アリニアはわずかに苛立ったように眉をひそめる。
だが、完全には無視しなかった。
「さっき倒した……あの熊の名前よ」
その答えに、ヴェイルは思わず息を飲んだ。
ヴェイルは目を細め、あの戦いの記憶を思い返していた。
あの化け物に――名前があったということが、なぜか心に引っかかっていた。
その思考を断ち切るように、アリニアが一つの小さなカップを差し出してきた。
淡い緑色に染まった液体からは、ほのかに心を落ち着ける香りが漂っていた。
彼女はそれに加えて、丁寧に焼かれた干し肉を二、三切れ、ヴェイルの前に差し出した。
「ほら。飲んで、食べなさい。今のあんたに必要よ」
アリニアの口調は静かで、どこか優しかった。
「……ありがとな」
ヴェイルは軽くうなずきながら、カップと肉を受け取る。
焚き火のそばで体を少しずらし、火の温もりを全身に感じながら、安堵の吐息をついた。
肉は柔らかく、わずかにスパイスが効いていて、心が落ち着く味だった。
アリニアの用いた香草が、舌の上で優しく広がる。
やがて、また沈黙が二人の間に戻ってきた。
火のはぜる音と、風のささやきだけが、雪に包まれたこの空間に響いていた。
ヴェイルは肉を噛みながら、ゆっくりと飲み込み、そしてふと呟くように口を開いた。
「……アリニア、ごめん。さっきは怒らせるつもりじゃなかったんだ。
こんなに色々してくれてるのに、俺……疑ってるみたいな言い方してさ」
声は弱く、少しばかり後悔がにじんでいた。
「ここに来てから……一歩一歩が、最後になるかもしれないって思うことばっかで。
ダンジョンのことも……何も知らないのに、怖くて……」
アリニアは、彼の言葉を聞きながら、
焚き火の明かりに照らされる彼の顔を一瞬だけ見つめた。
そして、ふっと小さく笑みを浮かべる。
「気にしないで。あんたは、あんたなりに頑張ってる。
私の言うことをちゃんと聞いて、ついてくれば大丈夫よ」
その言葉には、さりげないが確かな安心感が宿っていた。
彼女はしばし目を伏せ、手元のカップに目を落とした。
《……それにしても、どうしてあいつは、こんなにも無知なの?》
あの光の柱を目撃してから、ずっと抱えている疑問が喉元までこみ上げた。
だが――彼女はその問いを口に出さなかった。
今は、その時じゃない。
「……ダンジョンは、そんなに恐ろしいものばかりじゃない。もちろん戦いはあるけど、
この辺りみたいに、危険はあっても、それほど強大な魔物はそうそういないわ」
落ち着いた声で、彼女は続けた。
そして自分のカップを口に運び、温かい液体をゆっくりと飲み込む。
体の内側からじんわりと熱が広がっていく。
その小さなひとときに、彼女はわずかな安らぎを感じていた。
ヴェイルはまだどこか遠慮がちな顔をしていた。
そんな彼を見て、アリニアはさらに言葉を重ねる。
「ダンジョンの奥にある“物”……それには意味があるの。
たとえそれが、ぱっと見では価値がなく見えたとしても……信じなさい。ちゃんと、役に立つわ」
その目は静かで、だが確かな確信を宿していた。
ヴェイルは、彼女の目を見つめ返した。
焚き火の揺らぎがアリニアの瞳に反射して、どこか幻想的に光っていた。
「……ダンジョンの奥……なんかさ、嫌な予感しかしないんだけど。
俺……悪いおとぎ話の主人公にでもなった気分だよ……」
力なく、だが正直な気持ちをこぼす。
アリニアはその言葉に、再び笑みを浮かべた。
さっきよりも、少しだけ柔らかい笑顔だった。
「だったら、自分で変えなさいよ。その“物語の結末”を、あんた自身の手で」
焚き火の灯りが、彼女の頬をやわらかく照らしていた。
再び、静寂が空き地を支配した。
だが今度は、それが不思議と心地よく感じられた。
焚き火のぬくもりに包まれながら、二人は最後のひと口をゆっくりと味わい、静かに食事を終えた。
疲れが完全に消えたわけではなかったが、
それでも、ほんの少しの休息が、体の芯に力を取り戻してくれていた。
アリニアは手慣れた動作で、使った道具をひとつずつ丁寧に片づけていく。
何一つ、痕跡を残さないように。
それは彼女の“習慣”であり、“信条”でもあった。
やがて全ての準備が整うと、
彼女は立ち上がり、服の埃を軽く払ってから、ヴェイルに視線を向けた。
「――さあ、ちびオオカミ。あんたはどうしたい?」
その問いは、淡々としながらもまっすぐだった。
ヴェイルは、すぐには答えなかった。
目を伏せ、考えを巡らせる。
この森で彼女なしに生き延びることなど、自分には到底不可能だ。
それは痛いほどわかっている。
……だけど、目の前にある“ダンジョン”という未知の存在は、
まだどうしても恐ろしく思えてならなかった。
けれど――
アリニアが危険を前にしても一歩も引かず、冷静に行動しているその姿に、
なぜか、不思議な強さを感じていた。
ヴェイルはゆっくりと立ち上がり、姿勢を整える。
そして、まっすぐ彼女の目を見て、答えた。
「俺も行くよ。ここまで一緒に来たんだ――なら、最後まで付き合う」
一拍の静寂。
そして彼は、ほんの少しだけ声を落とす。
「……それに……あんたがいなきゃ、俺――この森で生き延びられる気がしないんだ」
その言葉には、見栄も虚勢もなかった。
ただ、素直な“本音”がそこにあった。
アリニアは、わずかに眉を上げた。
だが、すぐには返事をしなかった。
くるりと背を向けると、前方の雪道を見据える。
その唇から、誰にも聞かせるつもりのない声が、そっと漏れる。
「……私もよ。あんたがいなければ、今ごろ……もう……」
風にかき消されるほど小さな声。
頬にわずかな赤みが差し、彼女は深く息を吸って、気持ちを切り替えた。
そして、再び振り返る。
目にはもう、いつもの静かな強さが戻っていた。
「出発するわよ。もう、あまり遠くない」
その一言と共に、彼女は足を踏み出した。
木々の間をすり抜ける風が、再び静かに吹き抜けていく。
木の枝を揺らすその音が、まるで道標のように森を導いていた。
空からはまた、小さな雪片が舞い始める。
肩や髪に積もるそれを払いながら、
アリニアは先を行く。白い耳を立て、神経を研ぎ澄ませながら。
ヴェイルは、その背中を見つめてから、一歩、また一歩とその後を追う。
迷いは、もうなかった。
――二人の旅は続く。
その先に、何が待っていようとも。
進むしかない。
未知なる“ダンジョン”へと。
雪はすでに止み、白銀の世界は静寂の中に凍りついていた。
だが、その冷たさは依然として苛烈で、吐く息も、踏み出す足も容赦なく凍てつかせていた。
完璧に広がるその白い大地の上――
わずかに残る足跡だけが、静寂を乱す唯一の証だった。
アリニアとヴェイルは、変わらず進み続けていた。
そびえ立つ木々が連なる森の中、長く伸びた影がまるで彼らを試すように伸びていた。
まるで森そのものが意志を持ち、彼らを惑わせているかのように、同じ景色が延々と続いていた。
音はなかった。
ただ、雪を踏みしめるたびに生まれる、あのザクッという音だけが、
世界に存在する唯一の律動のように響いていた。
「なあ、アリニア……そろそろ休憩しないか?」
息を切らしながら、ヴェイルが声をかける。
アリニアは、彼の方を振り向くこともなく、無言のまま歩を進めていた。
その白い耳はピンと立ち、わずかな物音も聞き逃さぬよう張り詰めている。
返事のないまま、彼女は前だけを見据えていた。
《ったく……》
ヴェイルは内心で苦々しく唸った。
息は不規則に乱れ、身体にはあの熊との死闘の影響が残っている。
その疲労が、今ではじわじわと脚を重くさせていた。
そんな時だった。
アリニアが、ふいに足を止めた。
「うわっ……!」
油断していたヴェイルは、そのまま彼女にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
「何度もぶつかってきたら――今度はちびオオカミを木に括りつけるわよ」
振り返ったアリニアが、からかうような笑みを浮かべた。
「わ、悪い……ってか、なんで急に止まったんだ?」
困ったように頭をかきながら尋ねるヴェイル。
アリニアはすぐには答えず、周囲を見回す。
視線が止まったのは、ひときわ大きな一本の木。
その根元には、大きな空間が空いており、そこだけ雪がほとんど積もっていなかった。
アリニアはそっと近づき、慎重にその場所を確かめる。
「薪を集めてきて」
淡々とした口調で、彼女はヴェイルに視線を向ける。
「やっと休憩か! よっしゃ、すぐ行ってくる!」
ヴェイルは親指を立て、軽く笑って駆け出した。
彼が木々の奥へ消えていくのを見届けると、
アリニアは腰の小さな袋から、干し肉と香草の入った小袋を取り出した。
動きに無駄はなく、すべてが慣れた手つきだった。
ほどなくしてヴェイルが薪を抱えて戻り、火を起こす。
焚き火の暖かさがじわじわと身体を包み込み、冷えた筋肉を優しく解していく。
ヴェイルは木の幹にもたれかかり、肩を落として深く息を吐いた。
《……ああ、これだよ。やっと人間らしい時間って感じだ》
彼の顔には、安堵の色が浮かんでいた。
その横で、アリニアは小さな鍋を取り出し、そこに水を注ぎ入れる。
火の上に置いた鍋からは、やがて静かな湯気が立ち昇っていった。
焚き火のパチパチとした音と、微かな風の音だけが、この穏やかな時間を満たしていた。
「なあ……そのダンジョンってさ。なんで行くんだ? 目的があるのか?」
沈黙を破り、ヴェイルが尋ねた。
アリニアは、鍋の中に視線を落としたまま、わずかに耳を動かした。
そして、淡々とした声で答える。
「あるものを回収しなきゃいけないの」
その言葉は短く、簡潔だったが――
そこに含まれた意味は、計り知れなかった。
ヴェイルは、曖昧なその答えに困惑しながらも、
それ以上は何も言わなかった。
《……物? 命を懸けてまで探すような物って、一体何なんだ……?》
ヴェイルは炎の揺らぎを見つめながら、心の中でそう呟いた。
パチパチと薪が弾ける音が静かに続いていたが――
二人の間に流れる空気は、言葉にされなかった問いで徐々に重くなっていく。
「その物ってさ……そんなに大事なのか? 命懸けで探すくらいに?」
ためらいがちに、ヴェイルは口を開いた。
アリニアはわずかに顔を上げた。
耳がほんの少しだけ揺れたが、目は鍋から離れない。
《こんな雪山を一人でさまよってるくせに、よくもまあ……》
そんな思考が一瞬、彼女の脳裏をよぎる。
だが彼女は、それを口に出さず、乾いた声で答えた。
「もし中身がわかってたら、とっくに苦労してないわよ」
その言い方は、どこか突き放すような、棘のある調子だった。
「えっ……それってつまり……」
ヴェイルは言葉を詰まらせながら、驚きに目を見開く。
「命懸けで行くのに、探す物が何なのかも分かってないってこと?」
混乱と困惑が混じったその問いに、
アリニアは無言のまま、香草の束を鍋に入れた。
その手つきは変わらず丁寧で――だからこそ、かえってその静けさが緊張を生んでいた。
湯気が立ち上り、かすかに香ばしい香りが風に乗る。
その香りとは対照的に、空気には重さが増していく。
「物は、そこにある。それだけは確かよ」
静かに、だが断言するように、アリニアは言った。
「ダンジョンってのはね。中に目的の物が残ってる限り、消えない。
消えずに存在し続けるってことは――まだそこにあるって証拠」
《……それが“確信”? 本当に……?》
納得しきれないまま、ヴェイルは視線を向けた。
だが、アリニアの言葉に迷いは感じられなかった。
「じゃあ、仮にだよ?」
少し強い調子で、ヴェイルは続ける。
「もしその“物”が、まったく価値のないものだったら? 命を懸ける価値もない、ただのガラクタだったら?」
アリニアはゆっくりと彼の方を向いた。
その目――
焚き火の光を受けて淡く光る氷のような蒼が、真っ直ぐにヴェイルを射抜く。
その視線に、ヴェイルは一瞬、言葉を失った。
「――泣き言はやめなさい、ちびオオカミ」
その声は低く、鋭く、冷たい。
「もしその物が商店の棚に並んでる程度の代物なら、
こんな危険な場所に潜る必要なんてない。私たち“回収屋”の出番もないのよ」
彼女は姿勢を正し、焚き火の先――森の奥を指さした。
「怖いなら、戻ればいい。街ならあっち。運が良ければ、二度とケアルゥルに遭わずに済むかもね」
「……ケアルゥル?」
その言葉に、ヴェイルは目を瞬かせる。
聞き慣れない単語が、脳裏に引っかかる。
《ケアルゥル……? それって何だ?》
彼は眉を寄せたまま、小さく問い返す。
「それ……なんだよ? ケアルゥルって」
アリニアはわずかに苛立ったように眉をひそめる。
だが、完全には無視しなかった。
「さっき倒した……あの熊の名前よ」
その答えに、ヴェイルは思わず息を飲んだ。
ヴェイルは目を細め、あの戦いの記憶を思い返していた。
あの化け物に――名前があったということが、なぜか心に引っかかっていた。
その思考を断ち切るように、アリニアが一つの小さなカップを差し出してきた。
淡い緑色に染まった液体からは、ほのかに心を落ち着ける香りが漂っていた。
彼女はそれに加えて、丁寧に焼かれた干し肉を二、三切れ、ヴェイルの前に差し出した。
「ほら。飲んで、食べなさい。今のあんたに必要よ」
アリニアの口調は静かで、どこか優しかった。
「……ありがとな」
ヴェイルは軽くうなずきながら、カップと肉を受け取る。
焚き火のそばで体を少しずらし、火の温もりを全身に感じながら、安堵の吐息をついた。
肉は柔らかく、わずかにスパイスが効いていて、心が落ち着く味だった。
アリニアの用いた香草が、舌の上で優しく広がる。
やがて、また沈黙が二人の間に戻ってきた。
火のはぜる音と、風のささやきだけが、雪に包まれたこの空間に響いていた。
ヴェイルは肉を噛みながら、ゆっくりと飲み込み、そしてふと呟くように口を開いた。
「……アリニア、ごめん。さっきは怒らせるつもりじゃなかったんだ。
こんなに色々してくれてるのに、俺……疑ってるみたいな言い方してさ」
声は弱く、少しばかり後悔がにじんでいた。
「ここに来てから……一歩一歩が、最後になるかもしれないって思うことばっかで。
ダンジョンのことも……何も知らないのに、怖くて……」
アリニアは、彼の言葉を聞きながら、
焚き火の明かりに照らされる彼の顔を一瞬だけ見つめた。
そして、ふっと小さく笑みを浮かべる。
「気にしないで。あんたは、あんたなりに頑張ってる。
私の言うことをちゃんと聞いて、ついてくれば大丈夫よ」
その言葉には、さりげないが確かな安心感が宿っていた。
彼女はしばし目を伏せ、手元のカップに目を落とした。
《……それにしても、どうしてあいつは、こんなにも無知なの?》
あの光の柱を目撃してから、ずっと抱えている疑問が喉元までこみ上げた。
だが――彼女はその問いを口に出さなかった。
今は、その時じゃない。
「……ダンジョンは、そんなに恐ろしいものばかりじゃない。もちろん戦いはあるけど、
この辺りみたいに、危険はあっても、それほど強大な魔物はそうそういないわ」
落ち着いた声で、彼女は続けた。
そして自分のカップを口に運び、温かい液体をゆっくりと飲み込む。
体の内側からじんわりと熱が広がっていく。
その小さなひとときに、彼女はわずかな安らぎを感じていた。
ヴェイルはまだどこか遠慮がちな顔をしていた。
そんな彼を見て、アリニアはさらに言葉を重ねる。
「ダンジョンの奥にある“物”……それには意味があるの。
たとえそれが、ぱっと見では価値がなく見えたとしても……信じなさい。ちゃんと、役に立つわ」
その目は静かで、だが確かな確信を宿していた。
ヴェイルは、彼女の目を見つめ返した。
焚き火の揺らぎがアリニアの瞳に反射して、どこか幻想的に光っていた。
「……ダンジョンの奥……なんかさ、嫌な予感しかしないんだけど。
俺……悪いおとぎ話の主人公にでもなった気分だよ……」
力なく、だが正直な気持ちをこぼす。
アリニアはその言葉に、再び笑みを浮かべた。
さっきよりも、少しだけ柔らかい笑顔だった。
「だったら、自分で変えなさいよ。その“物語の結末”を、あんた自身の手で」
焚き火の灯りが、彼女の頬をやわらかく照らしていた。
再び、静寂が空き地を支配した。
だが今度は、それが不思議と心地よく感じられた。
焚き火のぬくもりに包まれながら、二人は最後のひと口をゆっくりと味わい、静かに食事を終えた。
疲れが完全に消えたわけではなかったが、
それでも、ほんの少しの休息が、体の芯に力を取り戻してくれていた。
アリニアは手慣れた動作で、使った道具をひとつずつ丁寧に片づけていく。
何一つ、痕跡を残さないように。
それは彼女の“習慣”であり、“信条”でもあった。
やがて全ての準備が整うと、
彼女は立ち上がり、服の埃を軽く払ってから、ヴェイルに視線を向けた。
「――さあ、ちびオオカミ。あんたはどうしたい?」
その問いは、淡々としながらもまっすぐだった。
ヴェイルは、すぐには答えなかった。
目を伏せ、考えを巡らせる。
この森で彼女なしに生き延びることなど、自分には到底不可能だ。
それは痛いほどわかっている。
……だけど、目の前にある“ダンジョン”という未知の存在は、
まだどうしても恐ろしく思えてならなかった。
けれど――
アリニアが危険を前にしても一歩も引かず、冷静に行動しているその姿に、
なぜか、不思議な強さを感じていた。
ヴェイルはゆっくりと立ち上がり、姿勢を整える。
そして、まっすぐ彼女の目を見て、答えた。
「俺も行くよ。ここまで一緒に来たんだ――なら、最後まで付き合う」
一拍の静寂。
そして彼は、ほんの少しだけ声を落とす。
「……それに……あんたがいなきゃ、俺――この森で生き延びられる気がしないんだ」
その言葉には、見栄も虚勢もなかった。
ただ、素直な“本音”がそこにあった。
アリニアは、わずかに眉を上げた。
だが、すぐには返事をしなかった。
くるりと背を向けると、前方の雪道を見据える。
その唇から、誰にも聞かせるつもりのない声が、そっと漏れる。
「……私もよ。あんたがいなければ、今ごろ……もう……」
風にかき消されるほど小さな声。
頬にわずかな赤みが差し、彼女は深く息を吸って、気持ちを切り替えた。
そして、再び振り返る。
目にはもう、いつもの静かな強さが戻っていた。
「出発するわよ。もう、あまり遠くない」
その一言と共に、彼女は足を踏み出した。
木々の間をすり抜ける風が、再び静かに吹き抜けていく。
木の枝を揺らすその音が、まるで道標のように森を導いていた。
空からはまた、小さな雪片が舞い始める。
肩や髪に積もるそれを払いながら、
アリニアは先を行く。白い耳を立て、神経を研ぎ澄ませながら。
ヴェイルは、その背中を見つめてから、一歩、また一歩とその後を追う。
迷いは、もうなかった。
――二人の旅は続く。
その先に、何が待っていようとも。
進むしかない。
未知なる“ダンジョン”へと。
0
あなたにおすすめの小説
借金5億で異世界転移、よりによって金本位制の世界だった
夜明け一葉
ファンタジー
32歳の個人トレーダー・佐藤慧は、5年間の雪辱を賭けたトレードで5億円の借金を抱え、意識を失った。目覚めると、そこは剣と魔法が存在する見知らぬ世界だった。常識が通じない異世界で、金貨を見るだけで嘔吐する「金アレルギー」を抱えながら、若き冒険者リナと出会い、生き延びる術を探し始める。諦めることだけができなかった男が、新たな世界で再び立ち上がる異世界サバイバル譚。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
巻き込まれ異世界召喚、なぜか俺だけ竜皇女の推しになった
ノラクラ
ファンタジー
俺、霧島悠斗は筋金入りの陰キャ高校生。
学校が終わったら即帰宅して、ゲームライフを満喫するのが至福の時間――のはずだった。
だがある日の帰り道、玄関前で学園トップスターたちの修羅場に遭遇してしまう。
暴君・赤城獅童、王子様系イケメン・天条院義孝、清楚系美少女・柊奏、その親友・羽里友莉。
よりによって学園の顔ぶれが勢ぞろいして大口論!?
……陰キャ代表の俺に混ざる理由なんて一ミリもない。見なかったことにしてゲームしに帰りたい!
そう願った矢先――空気が変わり、街に巨大な魔法陣が出現。
赤城たちは光に呑まれ、異世界へと召喚されてしまった。
「お~、異世界召喚ね。ラノベあるあるだな」
そう、他人事のように見送った俺だったが……。
直後、俺の足元にも魔法陣が浮かび上がる。
「ちょ、待て待て待て! 俺は陰キャだぞ!? 勇者じゃないんだぞ!?」
――かくして、ゲームライフを愛する陰キャ高校生の異世界行きが始まる。
ステゴロお姫様ギャンブラー─賭博大好きスラムのプリンセスは魔法学園でも暴れ回るようです─
アタラクシア
ファンタジー
あらゆる国から忘れられたスラム『ガラングラム』。そこに人々から『姫』と呼ばれて愛される『シャーロット・アクレミス』という美少女がいた。
類い稀なる美貌。優しき声色。人々はシャーロットだけでも普通にするため、なけなしの金を貯めて最高峰の魔法学園『グリモワール学園』へと入学させる。
しかし──彼女の正体は死線をこよなく愛する救いようのないほどのギャンブル狂い。扱う能力は賭けに勝てば最強、外せば無能という大博打であった。
絶望的な戦況ほど、彼女の拳と心臓は高鳴っていく。期待を背負ったお姫様ギャンブラーによる、計算不能の学園蹂躙劇が幕を開ける!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる