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プロローグ - 第1巻:新たな人生
第24章:封じられし扉の前で
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道中は、言葉もなく静かだった。
いや、ただの静けさではない。
まるで大気そのものが緊張し、息を潜めているような――そんな、重苦しい沈黙。
先頭を歩くアリニアは、いつもと変わらず無言だった。
白い耳を立て、慎重に足を進めるその姿は、張り詰めた意識の表れ。
それでも一歩一歩は迷いなく、流れるような動きで森を切り進んでいく。
ヴェイルは、その背を少し離れて追いかけていた。
雪の舞う中、冷気が頬を刺すが――彼の心を占めていたのは、もっと別の感情だった。
《ダンジョン……って、どんな場所なんだ?
どんな魔物がいるんだ?》
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。
頭の中では、想像と不安が渦を巻き、明確なイメージなど一つも湧いてこなかった。
風が顔をなぞり、雪は白い絨毯のように地面を覆っていく。
沈黙のまま、一時間近くが過ぎたころ――
「“もうすぐ”って言葉、アリニアも少しは見習った方がいいな」
思いきって、冗談めいた口調で声をかけてみた。
だが、アリニアは振り向かない。
ただ淡々と前を見据えたまま、言い放つ。
「のろまを待ってなきゃ、もう着いてるわよ」
その言葉に、ヴェイルの顔から笑みが消え、代わりに深いため息が漏れた。
気まずさが滲む中、再び口を閉ざす。
数分後――
それは突然だった。
空気が、変わった。
温度ではない。
明らかに、目に見えない“何か”が、周囲に満ちていく。
《……な、なんだこれ……?》
ぞわりと、背筋を何かが撫でる感覚。
彼は肩をすくめ、辺りを見渡す。
「まるで……森が、息を止めてるみたいだ……」
呟いたその時。
木々の間に、巨大な影が浮かび上がる。
それは幻のように輪郭が曖昧だったが――
歩を進めるごとに、徐々に形がはっきりしていった。
そして、ついに――彼らの目の前に、その正体が姿を現す。
「……嘘だろ……森のど真ん中に、こんな扉が……?」
ヴェイルが息を呑む。
目の前に立つのは、深い灰色の岩でできた、巨大な扉。
雪に囲まれながらも、その表面には一片の雪も積もっていない。
むしろ、降り注ぐ雪は扉に近づく前に――ふっと、消えていく。
アリニアは無言で立ち尽くし、その異様な構造物を睨むように見つめていた。
ヴェイルもゆっくりと隣に並ぶ。
「……こんなの、見たことない……」
アリニアの声はかすかだったが、確かな驚きが混じっていた。
風も、今は静かだった。
その異常な静けさが、かえって不気味に思えるほどに。
ヴェイルが一歩、前に出ようとしたその瞬間――
「――待ってなさい」
アリニアが手を上げ、動きを止めた。
声は落ち着いていたが、拒絶の意志が込められていた。
アリニアはひとり、構造物へと歩を進めた。
その動きには一切の無駄がなく、慎重に計算された一歩一歩が、緊張感を際立たせていた。
段差の手前で足を止め、彼女は巨大な扉の土台を見上げた。
その黒ずんだ岩の質感――何かが、どうしようもなく違和感を与えてくる。
静かに短剣を抜くと、彼女は片足を一段目に乗せた。
全身の筋肉が緊張し、いつでも飛び退けるよう構えている。
だが――何も起こらなかった。
地面に振動はなく、機構の作動音もない。見える範囲に罠もない。
周囲の静けさは、そのままだった。むしろ、異常なほどに……。
《アリニアでさえ、警戒してる……。一体ここは、何なんだ?》
ヴェイルは唾を飲み込みながら、その背中をじっと見つめていた。
アリニアはさらに二段を慎重に上り、ついに頂上まで到達する。
扉の正面に立ち、その細かな装飾をひとつひとつ確認するように視線を走らせた。
そして――ちらりと振り返り、軽く手を上げる。
「大丈夫。来なさい」
声音は平坦だったが、それが却って安心を与えた。
ヴェイルはためらいながらも、足を動かす。
恐怖が残る中で、それ以上に好奇心が彼を突き動かしていた。
冷たい石の階段を一段ずつ踏みしめながら、ようやく彼は彼女の隣へとたどり着いた。
そのとき、彼の目に飛び込んできたのは、扉全体を覆う――見事な彫刻だった。
緻密な文様が、岩の表面に絡みつくように広がっている。
周囲のアーチには、古代のルーン文字が美しく刻まれており、
それらがほのかに光を放っているようにさえ見えた。
「……美しい……これ、まるで神が造ったようだ……」
アリニアの呟きには、明確な畏敬の念が滲んでいた。
「こんなものが……なんで森の中なんかに……?」
ヴェイルも圧倒されるように、声を震わせる。
だが――その直後だった。
激痛が、彼の頭を突き刺した。
「……う、あ……ッ!」
まるで炎が脳を焼くような衝撃。
片膝をつき、息も絶え絶えに呻く。
「……頭が……っ、熱い……ッ」
アリニアはすぐに屈みこみ、驚いたように彼を見つめる。
「……どうしたの!? 何が起きたの、ちびオオカミ!」
その声には、いつになく焦りが混じっていた。
「わ、わかんない……急に、頭が……っ」
ヴェイルは額を押さえ、必死に痛みに耐える。
だが――
その苦しみは、来たときと同じく、突如として消え去った。
「……消えた……もう、大丈夫……っぽい……」
呼吸を整えながら、震える手で額の汗を拭った。
アリニアは、じっと彼を見つめる。
その澄んだ青の瞳には、冷静さと、わずかな不安が同居していた。
「立ちなさい。……ここに長居は禁物よ」
彼女の声は、鋭くもどこか優しさを孕んでいた。
アリニアは再び、扉の前に立った。
ゆっくりと手を伸ばし、その巨大な扉の表面すれすれまで近づける。
そして、わずかに息を吸い込み――両手を、扉に当てる。
「……っ!」
全力で押し込む。
だが、扉は――びくともしなかった。
眉をひそめ、もう一方の扉に力を込めるが、それも同様に反応はない。
彼女は一歩退き、周囲を見回す。
後ろでは、ヴェイルがようやく立ち上がったところだった。
まだ頭の奥に鈍い違和感を残したまま、彼はぼんやりとその様子を見ていた。
「こんなに巨大なのに、仕掛けひとつ見当たらないなんて……どういうこと?」
アリニアの呟きには、苛立ちが滲んでいた。
彼女の視線は、足元の石畳から、扉の縁、そして光を帯びるアーチの装飾へと移っていく。
だが、何度見ても――開けるための“鍵”は見つからない。
「……で、何かわかった?」
ヴェイルが静かに歩み寄りながら訊ねる。
アリニアは答えず、アーチに刻まれたルーン文字に目を凝らす。
そして、苛立ち混じりの声で言い放った。
「ない。仕掛けも、継ぎ目も、鍵穴すらも……何も、ない」
その言葉のあと、彼女はそっと手をルーンの上に置いた。
「……これは一体、どういう意味……? この言語……私には読めない」
呟く声は、自分に向けられたものだった。
そしてそのまま、アリニアは肩を落としながら石段に腰を下ろす。
視線を伏せたその表情には、明確な苛立ちが浮かんでいた。
「こんな扉すら開けられないなんて……何のためにここまで来たのよ。
あんな光を見せて、ここに導いておいて……何も言わずに放り込むなんて……」
その弱々しい呟きに、ヴェイルは口を挟まなかった。
ただ静かに立ち上がり、彼女の横をすり抜けて扉の前へと進む。
アリニアは、その動きに気づかず、うつむいたまま沈黙を保っていた。
ヴェイルは、無言のまま扉に手を伸ばした。
冷たい石の感触が、指先から腕に伝わる。
「……扉があるなら、開ける方法もあるはずだろ……」
小さく息を吐きながら、視線をアーチに刻まれたルーンへと向けた。
かすかに光を放つそれらは――まるで呼吸をするように、淡く脈動していた。
彼は、そっとそのひとつに触れた。
ざらついた感触、そして――一瞬、指先を走る不思議な震え。
それは、まるで石そのものが彼に反応しているかのようだった。
彼はそのまま、指でルーンの形をなぞっていく。
一本一本の線を、丁寧に、慎重に。
すると――
ピカッ――!
突如として、触れていたルーンが眩い蒼の光を放ち、周囲の闇を裂いた。
「っ……!」
ヴェイルは思わず一歩後退する。
光は彼の触れたルーンから細い筋となって流れ出し、他の文字へと滑るように繋がっていく。
まるで命を宿したかのように――蒼い光が、アーチ全体をゆっくりと這い始めた。
ルーンは、一つ、また一つと光を放っていく。
流れるように――まるで古代の儀式が再現されるかのように。
蒼い光の筋がアーチを這い、複雑な模様を描き出していく。
それは、生きているかのような滑らかさと秩序を持ち、見ているだけで心を奪われるような美しさだった。
やがて、空気が変わった。
低く、深く、地の底から響くような“音”が発生する。
最初はかすかな振動のようだったが、徐々に力を増していき、地面を震わせるほどになっていく。
《……な、なんだこれ……!?》
ヴェイルは目を見開いたまま、その光景に釘付けになっていた。
蒼白い光が雪を照らし、周囲の木々には、影が不気味に揺れていた。
呼吸が重くなる。まるで空気が電気を帯び、身体全体を締め付けてくるようだった。
「アリニア! 見てくれ!」
恐怖混じりの声を上げた瞬間、
アリニアの耳がぴくりと動き、即座に顔を上げる。
そして――ルーンが完全に起動している光景を見て、彼女の目がわずかに見開かれた。
光は、ますます強く。
文様は絡み合い、広がり、そして一つの“物語”を描くように動き続ける。
それは、この扉が持つ記憶――あるいは使命のように。
静寂に包まれていた森に、音が戻ってきた。
扉そのものから響いてくるような、遠く不気味な“反響”。
まるで、何かが目覚めようとしているかのようだった。
そして――
ピタリと、全てが止んだ。
光も、音も、風さえも。
時が止まったような一瞬。
だが、その直後。
ドォン――!
大地が唸り、空気が震える。
石の奥深くから響くような、鈍く低い音。
扉の表面に溜まっていた細かな塵が舞い上がり、
そして――
ギィィィ……ッ――
鈍く、重い、石の軋む音が森中に響き渡る。
巨大な扉が、ゆっくりと動き始めたのだ。
「……!」
ヴェイルは思わず数歩後ずさり、アリニアの隣へと戻る。
二人はただ、音を立てながら開かれていく扉を見つめていた。
まるで、大地そのものが呻き声を上げているような轟音。
そして――
完全に開かれた扉の向こうに、現れたのは“漆黒”。
何も見えない。
そこには、光を拒絶するかのような暗黒が広がっていた。
覗き込んでも、底知れぬ“闇”しか存在しない。
アリニアはすぐに冷静さを取り戻し、ヴェイルへと向き直る。
「……どうやったの?」
その声は、鋭く、真っ直ぐだった。
ヴェイルは、自分の手のひらを見つめる。
そこに、何の答えも刻まれていないことを知りながら。
「わ、わかんない……ただ、ルーンに触っただけなんだ。そしたら……光って……」
「……ありえない。私も触れた。でも、何も起きなかった」
アリニアの言葉には、疑念と驚きが入り混じっていた。
「でも……俺が触れたら、反応したんだ……確かに、それは――」
彼の言葉を途中で、アリニアは片手を上げて制した。
「……話は後。中に入るわよ」
その声には、いつも以上に鋭さと緊張が宿っていた。
「話は後よ。いつまで扉が開いてるか分からない。今は……入るわよ」
アリニアの声には、迷いのない確かな決意が込められていた。
目の前に広がる漆黒の世界――
その奥に何が待ち構えているのかは分からない。
だが、それでも。
「……何が待っていようと。ここで諦めるために来たわけじゃない」
静かに、しかし力強く。
彼女は一歩、また一歩と、闇の中へと足を踏み入れる。
その背を見て、ヴェイルは息を吸い込んだ。
胸の奥が重くなる。
だが――彼もまた、一歩を踏み出す。
迷いを断ち切るように、扉の中へ。
……その瞬間だった。
「アリニア! 扉が――!」
彼の叫びが響いたのと同時に、
背後から、石の重い軋み音が再び迫ってきた。
振り向けば、あの巨大な扉が――勢いよく閉まり始めていた。
今度はゆっくりではない。容赦ない速度で迫ってくる。
ゴォォン……ッ!
轟音とともに、二人の世界は――閉ざされた。
パァン――!
乾いた音が響く。
それは、世界の終わりを告げるかのような静寂を呼び込んだ。
漆黒。
まったくの、暗闇。
時間も、空間も、感覚すらも――飲み込まれていく。
呼吸の音すら、どこか遠く、響かない。
その沈黙を、破ったのはアリニアの声だった。
「……もう、戻れない。ここからは……進むしかない」
その声は、冷静でありながら、どこか重さを帯びていた。
まるで、儀式の一言のように。
森の風の残滓さえ、今ではもう思い出でしかなかった。
背後に広がっていた世界は――消えた。
代わりに彼らを包むのは、底知れぬ闇。
圧し掛かるような、何もかもを呑み込む虚無。
そして――
……かすかに。
ほんの微かに。
聞こえてきたのは、声だった。
誰かの囁き。
遠くで、近くで、耳元で――
判別もできない、不明瞭な“音”。
冷たく、濡れて、影のようなその声は、
まるで彼らの心に忍び込み、揺さぶるように囁き続ける。
「――――――……」
言葉にならない。
意味もない。
だが、その囁きは確かに、“生きて”いた。
彼らは闇に呑まれた。
残されたのは――囁き声だけ。
そして、それは、血の気を奪うような寒さを孕んでいた。
──第一巻・完──
いや、ただの静けさではない。
まるで大気そのものが緊張し、息を潜めているような――そんな、重苦しい沈黙。
先頭を歩くアリニアは、いつもと変わらず無言だった。
白い耳を立て、慎重に足を進めるその姿は、張り詰めた意識の表れ。
それでも一歩一歩は迷いなく、流れるような動きで森を切り進んでいく。
ヴェイルは、その背を少し離れて追いかけていた。
雪の舞う中、冷気が頬を刺すが――彼の心を占めていたのは、もっと別の感情だった。
《ダンジョン……って、どんな場所なんだ?
どんな魔物がいるんだ?》
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。
頭の中では、想像と不安が渦を巻き、明確なイメージなど一つも湧いてこなかった。
風が顔をなぞり、雪は白い絨毯のように地面を覆っていく。
沈黙のまま、一時間近くが過ぎたころ――
「“もうすぐ”って言葉、アリニアも少しは見習った方がいいな」
思いきって、冗談めいた口調で声をかけてみた。
だが、アリニアは振り向かない。
ただ淡々と前を見据えたまま、言い放つ。
「のろまを待ってなきゃ、もう着いてるわよ」
その言葉に、ヴェイルの顔から笑みが消え、代わりに深いため息が漏れた。
気まずさが滲む中、再び口を閉ざす。
数分後――
それは突然だった。
空気が、変わった。
温度ではない。
明らかに、目に見えない“何か”が、周囲に満ちていく。
《……な、なんだこれ……?》
ぞわりと、背筋を何かが撫でる感覚。
彼は肩をすくめ、辺りを見渡す。
「まるで……森が、息を止めてるみたいだ……」
呟いたその時。
木々の間に、巨大な影が浮かび上がる。
それは幻のように輪郭が曖昧だったが――
歩を進めるごとに、徐々に形がはっきりしていった。
そして、ついに――彼らの目の前に、その正体が姿を現す。
「……嘘だろ……森のど真ん中に、こんな扉が……?」
ヴェイルが息を呑む。
目の前に立つのは、深い灰色の岩でできた、巨大な扉。
雪に囲まれながらも、その表面には一片の雪も積もっていない。
むしろ、降り注ぐ雪は扉に近づく前に――ふっと、消えていく。
アリニアは無言で立ち尽くし、その異様な構造物を睨むように見つめていた。
ヴェイルもゆっくりと隣に並ぶ。
「……こんなの、見たことない……」
アリニアの声はかすかだったが、確かな驚きが混じっていた。
風も、今は静かだった。
その異常な静けさが、かえって不気味に思えるほどに。
ヴェイルが一歩、前に出ようとしたその瞬間――
「――待ってなさい」
アリニアが手を上げ、動きを止めた。
声は落ち着いていたが、拒絶の意志が込められていた。
アリニアはひとり、構造物へと歩を進めた。
その動きには一切の無駄がなく、慎重に計算された一歩一歩が、緊張感を際立たせていた。
段差の手前で足を止め、彼女は巨大な扉の土台を見上げた。
その黒ずんだ岩の質感――何かが、どうしようもなく違和感を与えてくる。
静かに短剣を抜くと、彼女は片足を一段目に乗せた。
全身の筋肉が緊張し、いつでも飛び退けるよう構えている。
だが――何も起こらなかった。
地面に振動はなく、機構の作動音もない。見える範囲に罠もない。
周囲の静けさは、そのままだった。むしろ、異常なほどに……。
《アリニアでさえ、警戒してる……。一体ここは、何なんだ?》
ヴェイルは唾を飲み込みながら、その背中をじっと見つめていた。
アリニアはさらに二段を慎重に上り、ついに頂上まで到達する。
扉の正面に立ち、その細かな装飾をひとつひとつ確認するように視線を走らせた。
そして――ちらりと振り返り、軽く手を上げる。
「大丈夫。来なさい」
声音は平坦だったが、それが却って安心を与えた。
ヴェイルはためらいながらも、足を動かす。
恐怖が残る中で、それ以上に好奇心が彼を突き動かしていた。
冷たい石の階段を一段ずつ踏みしめながら、ようやく彼は彼女の隣へとたどり着いた。
そのとき、彼の目に飛び込んできたのは、扉全体を覆う――見事な彫刻だった。
緻密な文様が、岩の表面に絡みつくように広がっている。
周囲のアーチには、古代のルーン文字が美しく刻まれており、
それらがほのかに光を放っているようにさえ見えた。
「……美しい……これ、まるで神が造ったようだ……」
アリニアの呟きには、明確な畏敬の念が滲んでいた。
「こんなものが……なんで森の中なんかに……?」
ヴェイルも圧倒されるように、声を震わせる。
だが――その直後だった。
激痛が、彼の頭を突き刺した。
「……う、あ……ッ!」
まるで炎が脳を焼くような衝撃。
片膝をつき、息も絶え絶えに呻く。
「……頭が……っ、熱い……ッ」
アリニアはすぐに屈みこみ、驚いたように彼を見つめる。
「……どうしたの!? 何が起きたの、ちびオオカミ!」
その声には、いつになく焦りが混じっていた。
「わ、わかんない……急に、頭が……っ」
ヴェイルは額を押さえ、必死に痛みに耐える。
だが――
その苦しみは、来たときと同じく、突如として消え去った。
「……消えた……もう、大丈夫……っぽい……」
呼吸を整えながら、震える手で額の汗を拭った。
アリニアは、じっと彼を見つめる。
その澄んだ青の瞳には、冷静さと、わずかな不安が同居していた。
「立ちなさい。……ここに長居は禁物よ」
彼女の声は、鋭くもどこか優しさを孕んでいた。
アリニアは再び、扉の前に立った。
ゆっくりと手を伸ばし、その巨大な扉の表面すれすれまで近づける。
そして、わずかに息を吸い込み――両手を、扉に当てる。
「……っ!」
全力で押し込む。
だが、扉は――びくともしなかった。
眉をひそめ、もう一方の扉に力を込めるが、それも同様に反応はない。
彼女は一歩退き、周囲を見回す。
後ろでは、ヴェイルがようやく立ち上がったところだった。
まだ頭の奥に鈍い違和感を残したまま、彼はぼんやりとその様子を見ていた。
「こんなに巨大なのに、仕掛けひとつ見当たらないなんて……どういうこと?」
アリニアの呟きには、苛立ちが滲んでいた。
彼女の視線は、足元の石畳から、扉の縁、そして光を帯びるアーチの装飾へと移っていく。
だが、何度見ても――開けるための“鍵”は見つからない。
「……で、何かわかった?」
ヴェイルが静かに歩み寄りながら訊ねる。
アリニアは答えず、アーチに刻まれたルーン文字に目を凝らす。
そして、苛立ち混じりの声で言い放った。
「ない。仕掛けも、継ぎ目も、鍵穴すらも……何も、ない」
その言葉のあと、彼女はそっと手をルーンの上に置いた。
「……これは一体、どういう意味……? この言語……私には読めない」
呟く声は、自分に向けられたものだった。
そしてそのまま、アリニアは肩を落としながら石段に腰を下ろす。
視線を伏せたその表情には、明確な苛立ちが浮かんでいた。
「こんな扉すら開けられないなんて……何のためにここまで来たのよ。
あんな光を見せて、ここに導いておいて……何も言わずに放り込むなんて……」
その弱々しい呟きに、ヴェイルは口を挟まなかった。
ただ静かに立ち上がり、彼女の横をすり抜けて扉の前へと進む。
アリニアは、その動きに気づかず、うつむいたまま沈黙を保っていた。
ヴェイルは、無言のまま扉に手を伸ばした。
冷たい石の感触が、指先から腕に伝わる。
「……扉があるなら、開ける方法もあるはずだろ……」
小さく息を吐きながら、視線をアーチに刻まれたルーンへと向けた。
かすかに光を放つそれらは――まるで呼吸をするように、淡く脈動していた。
彼は、そっとそのひとつに触れた。
ざらついた感触、そして――一瞬、指先を走る不思議な震え。
それは、まるで石そのものが彼に反応しているかのようだった。
彼はそのまま、指でルーンの形をなぞっていく。
一本一本の線を、丁寧に、慎重に。
すると――
ピカッ――!
突如として、触れていたルーンが眩い蒼の光を放ち、周囲の闇を裂いた。
「っ……!」
ヴェイルは思わず一歩後退する。
光は彼の触れたルーンから細い筋となって流れ出し、他の文字へと滑るように繋がっていく。
まるで命を宿したかのように――蒼い光が、アーチ全体をゆっくりと這い始めた。
ルーンは、一つ、また一つと光を放っていく。
流れるように――まるで古代の儀式が再現されるかのように。
蒼い光の筋がアーチを這い、複雑な模様を描き出していく。
それは、生きているかのような滑らかさと秩序を持ち、見ているだけで心を奪われるような美しさだった。
やがて、空気が変わった。
低く、深く、地の底から響くような“音”が発生する。
最初はかすかな振動のようだったが、徐々に力を増していき、地面を震わせるほどになっていく。
《……な、なんだこれ……!?》
ヴェイルは目を見開いたまま、その光景に釘付けになっていた。
蒼白い光が雪を照らし、周囲の木々には、影が不気味に揺れていた。
呼吸が重くなる。まるで空気が電気を帯び、身体全体を締め付けてくるようだった。
「アリニア! 見てくれ!」
恐怖混じりの声を上げた瞬間、
アリニアの耳がぴくりと動き、即座に顔を上げる。
そして――ルーンが完全に起動している光景を見て、彼女の目がわずかに見開かれた。
光は、ますます強く。
文様は絡み合い、広がり、そして一つの“物語”を描くように動き続ける。
それは、この扉が持つ記憶――あるいは使命のように。
静寂に包まれていた森に、音が戻ってきた。
扉そのものから響いてくるような、遠く不気味な“反響”。
まるで、何かが目覚めようとしているかのようだった。
そして――
ピタリと、全てが止んだ。
光も、音も、風さえも。
時が止まったような一瞬。
だが、その直後。
ドォン――!
大地が唸り、空気が震える。
石の奥深くから響くような、鈍く低い音。
扉の表面に溜まっていた細かな塵が舞い上がり、
そして――
ギィィィ……ッ――
鈍く、重い、石の軋む音が森中に響き渡る。
巨大な扉が、ゆっくりと動き始めたのだ。
「……!」
ヴェイルは思わず数歩後ずさり、アリニアの隣へと戻る。
二人はただ、音を立てながら開かれていく扉を見つめていた。
まるで、大地そのものが呻き声を上げているような轟音。
そして――
完全に開かれた扉の向こうに、現れたのは“漆黒”。
何も見えない。
そこには、光を拒絶するかのような暗黒が広がっていた。
覗き込んでも、底知れぬ“闇”しか存在しない。
アリニアはすぐに冷静さを取り戻し、ヴェイルへと向き直る。
「……どうやったの?」
その声は、鋭く、真っ直ぐだった。
ヴェイルは、自分の手のひらを見つめる。
そこに、何の答えも刻まれていないことを知りながら。
「わ、わかんない……ただ、ルーンに触っただけなんだ。そしたら……光って……」
「……ありえない。私も触れた。でも、何も起きなかった」
アリニアの言葉には、疑念と驚きが入り混じっていた。
「でも……俺が触れたら、反応したんだ……確かに、それは――」
彼の言葉を途中で、アリニアは片手を上げて制した。
「……話は後。中に入るわよ」
その声には、いつも以上に鋭さと緊張が宿っていた。
「話は後よ。いつまで扉が開いてるか分からない。今は……入るわよ」
アリニアの声には、迷いのない確かな決意が込められていた。
目の前に広がる漆黒の世界――
その奥に何が待ち構えているのかは分からない。
だが、それでも。
「……何が待っていようと。ここで諦めるために来たわけじゃない」
静かに、しかし力強く。
彼女は一歩、また一歩と、闇の中へと足を踏み入れる。
その背を見て、ヴェイルは息を吸い込んだ。
胸の奥が重くなる。
だが――彼もまた、一歩を踏み出す。
迷いを断ち切るように、扉の中へ。
……その瞬間だった。
「アリニア! 扉が――!」
彼の叫びが響いたのと同時に、
背後から、石の重い軋み音が再び迫ってきた。
振り向けば、あの巨大な扉が――勢いよく閉まり始めていた。
今度はゆっくりではない。容赦ない速度で迫ってくる。
ゴォォン……ッ!
轟音とともに、二人の世界は――閉ざされた。
パァン――!
乾いた音が響く。
それは、世界の終わりを告げるかのような静寂を呼び込んだ。
漆黒。
まったくの、暗闇。
時間も、空間も、感覚すらも――飲み込まれていく。
呼吸の音すら、どこか遠く、響かない。
その沈黙を、破ったのはアリニアの声だった。
「……もう、戻れない。ここからは……進むしかない」
その声は、冷静でありながら、どこか重さを帯びていた。
まるで、儀式の一言のように。
森の風の残滓さえ、今ではもう思い出でしかなかった。
背後に広がっていた世界は――消えた。
代わりに彼らを包むのは、底知れぬ闇。
圧し掛かるような、何もかもを呑み込む虚無。
そして――
……かすかに。
ほんの微かに。
聞こえてきたのは、声だった。
誰かの囁き。
遠くで、近くで、耳元で――
判別もできない、不明瞭な“音”。
冷たく、濡れて、影のようなその声は、
まるで彼らの心に忍び込み、揺さぶるように囁き続ける。
「――――――……」
言葉にならない。
意味もない。
だが、その囁きは確かに、“生きて”いた。
彼らは闇に呑まれた。
残されたのは――囁き声だけ。
そして、それは、血の気を奪うような寒さを孕んでいた。
──第一巻・完──
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