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プロローグ - 第2巻:ダンジョンの影 Pt.1
第25章:静かすぎる侵入
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漆黒の闇が部屋全体を包み込んでいた。
まるで一切の光を拒む、重く、息苦しいほどの黒い帳。
輪郭もなければ、奥行きもない。
ただそこにあるのは、視覚さえ押し潰すような沈黙と――圧迫感。
遠くで水が滴る音が反響し、その間を縫うようにして、かすかな囁きが耳の奥をかすめた。
聞こえるか聞こえないかの境界を揺れるその声は、不気味で、どこか生理的な嫌悪を掻き立てる。
「ちびオオカミ、扉を調べてくれる? さっきの入口みたいに」
背後から響いたその声に、ヴェイルはわずかに肩を跳ねさせた。
どこか懐かしいその声は、穏やかでいて、微かに緊張を孕んでいる。
「扉って……この暗さでどうやって探せってんだよ……」
苛立ちを滲ませながら、ヴェイルはぼそりと呟いた。
とはいえ、文句を言いつつも指先を前に伸ばし、手探りで歩き出す。
冷たい石壁がすぐに指に触れた。
濡れている。
まるで壁そのものが、来訪者を拒むかのように――いや、警告するかのように。
「……空気まで敵意を持ってるみたいだ。まともじゃねぇな、ここ」
独り言のように漏らしつつ、ヴェイルは壁伝いにゆっくりと進んだ。
数メートル先、指先が石ではない、異質な素材に触れる。
「……あった」
それは滑らかで、冷たく、金属の感触を持っていた。
ヴェイルは慎重にその表面をなぞる。だが、何も起こらない。
音も、振動も、手応えもなく――沈黙だけが返ってくる。
「動かねぇな……この扉、さっきのとは違う……それとも、別の仕掛けか」
溜息まじりに呟いたその声に、背後から再びアリニアの声が返る。
「……じゃあ、進むしかないわね」
淡々と、しかしどこか決意を含んだ声だった。
ヴェイルは小さく頷いた。どうせ見えていないのだから意味はない。
それでも彼は彼女の背後につき、音だけを頼りに後を追い始める。
足音が石の床に反響し、そのたびに空気が重く、どこか粘つくように感じられた。
まるで、影そのものがこちらの存在を認識し、密かに増殖しているかのように。
――その時だった。
パッ、と。
闇が破れるように、淡い紫の光が灯る。
壁に取り付けられた松明が、一つ、また一つと連鎖するように火を灯し始めた。
その炎は奇妙に揺らぎ、黒煙のような影が煙となって天井へと這い上がる。
「火が……ついた? でも、全然安心できねぇ……」
ヴェイルの呟きは、わずかな安心すら許さないその異様な光景を物語っていた。
明らかになったのは、先へと続く長い廊下。
湿った石の壁が鈍く光り、ところどころに水が染み出している。
足元の石畳は粗く組まれており、隙間にできた溝には水たまりが溜まっていた。
アリニアが、ぴたりと歩みを止めた。
それに気づいたヴェイルも、すぐに足を止める。
彼女の手が、静かに空中へと上がった――注意の合図だった。
空気が、張りつめる。
そして、再び沈黙が、二人を包んだ。
「気を抜かないで……」
アリニアは小さく、しかしはっきりと呟いた。
「何か聞こえるのか?」
ヴェイルが囁くように尋ねると、彼女は振り返らずに首をわずかに傾けた。
白い狼耳がぴんと立ち、あらゆる音を逃さぬように微かに動いている。
「……何も。聞こえるのは水の音だけ。でも、それが逆におかしいの」
静かな口調。だが、その声には張り詰めた警戒が滲んでいた。
「静かすぎる……それが、一番怖い」
アリニアはそっと壁際の松明へ近づく。
揺らめく紫の炎――それは不自然なほど静かに燃えていた。
「まさか……触れるつもりか?」
ヴェイルの声には、明らかな不安が混じっていた。
だが彼女は首を横に振り、目を細めたまま囁く。
「触れない。……見たいだけ」
伸ばされた指先が、炎のごく近くまで迫る。
数センチの距離。
だが、そこには確かに――何の反応もなかった。
「……熱がない。何も感じない……」
アリニアは眉をひそめ、指をそっと引いた。
「これは……自然のものじゃない。こういう存在には、意味がある」
その言葉には、経験からくる確信が宿っていた。
ヴェイルも松明に近づき、恐る恐る手をかざす。
「本当に……冷たい。っていうか、温度すらない。……これ、火って呼べるのか?」
不思議そうに呟いた彼は、しばしその炎を見つめる。
そこには風も、音もなく、ただ存在するだけの“虚無の火”が燃えていた。
「……お前の言う通りだ。完全におかしい」
アリニアは真剣な眼差しでヴェイルを見つめた後、再び前を向いた。
「後ろにいなさい。この火があるってことは……誰かが、あるいは“何か”が、ここにいるってこと」
彼女の声は、冷静で、だが決して軽くはなかった。
ヴェイルは拳を握りしめ、無言で頷いた。
二人は再び歩き出す。
その影が、紫の炎に照らされてゆらゆらと揺れながら、暗き通路を進んでいく。
空気が、重い。
まるで見えない圧力が背中にのしかかってくるようだった。
そして。
石壁に――奇妙な模様が浮かび始めた。
古びた彫刻。幾何学的な紋様。
入ってきたときに見たものと似ているが、もっと複雑で、密度が高い。
「この模様……見たこともない……誰が、なんのために?」
ヴェイルが眉をひそめながら呟いた。
手でなぞろうとしたが、そこには触れたくないような、直感的な嫌悪感があった。
アリニアは一歩前で立ち止まり、静かに周囲を見渡す。
氷のような視線が、壁の一つひとつを丁寧に探っていた。
罠か、仕掛けか、何かがある――そんな確信を持つように。
「この遺跡……普通じゃない。こんなの、初めて」
低く、そして静かに囁いたその声。
普段の冷静さの奥に、微かな不安が滲んでいた。
その言葉に、ヴェイルは背筋を冷たい何かが走るのを感じた。
「……こんなはずじゃなかったよな。ダンジョンって、もっと……“単純”なんじゃなかったっけ?」
ヴェイルが低く、不安を隠しきれない声で尋ねた。
アリニアは少しだけ首を傾けたが、返答はせず、視線は依然として壁のルーンに注がれていた。
彼女自身、その疑問に答えられなかったのだ。
――確かに、このダンジョンは「危険性が低い」とされていた。
事前の情報も、これまでの感覚も、そう告げていた。
だが、目の前に広がる現実は――そのすべてを裏切っていた。
ヴェイルはふらりと壁に近づき、刻まれた文様に手を伸ばした。
湿った石の感触。
その直後、指先から全身へと奇妙な感覚が走る。
ビリビリとした微細な振動。
それが神経を這い、脳に直接届くような、刺すような違和感へと変わっていく。
「……っ!」
ヴェイルは反射的に手を引き、顔をしかめた。
額を押さえながら、一歩後ろに下がる。
《な、んだこれ……? 頭の奥が……割れそうだ……!》
歯を食いしばる。
痛みを抑え込むように呼吸を整えようとするが――
心の奥で何かがきしむような、抑えきれない圧が渦巻いていた。
……アリニアには、言いたくなかった。
今この状況で、彼女に余計な不安を与えるわけにはいかない。
だが、わずかに乱れた呼吸と、肩に現れた緊張の影。
それは、彼女の鋭い感覚を欺くには不十分だった。
(……何か、異変が起きてる。彼、隠してる。でも――なぜ?)
ちらりと視線を向けたアリニアは、しかし問いただすことはなかった。
――今は、進むことが優先。
二人の足音が、再び石の床に響く。
水の滴る音と、耳の奥にまとわりつくような囁き。
それらが混ざり合い、異様な静寂を支配していた。
「気をつけて、ちびオオカミ。……この静けさ、逆に危険よ。いつ何が来てもおかしくない」
アリニアの声は、抑えられていたが確かな警戒心を含んでいた。
ヴェイルは無言で頷く。
言葉など必要ない。
心臓が、妙に速く打ち始めていた。
本能が、何かを告げていた。
通路の両壁に刻まれた文様は、歩を進めるごとにその数を増していく。
模様はますます複雑に、鋭く、禍々しさを増していた。
それはまるで、言葉にならない“警告”を叫んでいるかのように。
呼吸が重い。
空気が――確実に変わってきている。
そのとき、アリニアがふっと口元に笑みを浮かべた。
「……これが忠告だっていうなら、閉じ込める前にやってくれればよかったのにね」
淡く、皮肉を滲ませたその声が、圧迫された空気をわずかに揺らした。
ヴェイルは彼女を見たが、言葉を返す余裕はなかった。
頭の痛みは増し、意識が少しずつぼやけていく。
集中できない。
思考が霞んでいく。
――何かが、自分の中で“目覚めようとしている”。
そう確信した瞬間、彼の足はわずかにふらついた。
(……いつもより静か……良くない兆候よ。いったい彼の身に何が起きてるの?)
アリニアは歩きながら、ちらりとヴェイルの様子を伺った。
彼の沈黙は異様で、その様子は明らかに何かを押し隠しているようだった。
長く続く廊下――
終わりが見えず、歩けば歩くほど、何か見えない“真実”へと近づいていくような感覚。
だが、その先にあるものは――きっと、想像以上に暗く、深い。
時間の感覚はとうに失われていた。
このダンジョンでは、すべての常識が意味を失っていた。
どれだけ進んでも、景色が変わらない。
ただ、紫の火が揺らめき、無限のような錯覚を生み出していく。
「本当に……進んでるのか? それとも……このダンジョンが俺たちをからかってるのか……」
ヴェイルが、苛立ちを含んだ声でぽつりと呟いた。
先を歩くアリニアの動きは、変わらず滑らかだった。
だが、その背中には常に張り詰めた警戒が滲んでいる。
その時――
何の前触れもなく、空気が変わった。
壁に刻まれていた無数のルーンが、ひとつ、またひとつと消えていく。
それはまるで、石に染み込んでいた何かが、音もなく溶けていくかのようだった。
松明の炎も、紫から徐々に色を変え始める。
自然とは言い難いが、少なくとも先ほどよりは“現実的”な光。
「何かが変わった……でも、それが“良い兆し”とは限らないわ」
アリニアの声には、静かな緊張があった。
足元の床は、粗雑だった石畳から、滑らかに磨かれた黒い石へと変わる。
壁もまた、濡れた煉瓦ではなく、均一で冷たさを感じさせる暗黒の壁面へと――
その瞬間。
――ギィィィアアアアッ!!
耳を裂くような悲鳴が、闇の奥から響き渡った。
アリニアとヴェイルは、反射的に動いた。
アリニアはすでに武器を構え、鋭い視線で周囲を確認している。
ヴェイルもすぐに剣を抜き、背中を預けるようにしてアリニアに続いた。
胸の鼓動が、喉の奥で高鳴る。
「今のは……なんだ……?」
かすれた声で問うヴェイルに、アリニアは低く囁いた。
「分からない。でも……後ろにいて」
鋭い集中。
彼女の瞳はわずかな闇の揺れさえも見逃さない。
だが――
何も現れなかった。
叫び声が嘘のように消え、再び静寂が支配する。
二人は慎重に前進を再開した。
その手には、まだ緊張が残っている。
そして、前方の闇に――
重厚な扉の枠が、ゆっくりと姿を現した。
質素だが、存在感のある構造。
その重みに、ただならぬ気配が宿っている。
アリニアは振り返り、ヴェイルを見つめた。
澄んだ青の瞳が、揺るがぬ意志を告げていた。
「何度も言うけど……気を抜かないで。この異様な静けさ――本来なら、もう何かと遭遇してるはず」
ヴェイルは黙って頷く。
彼もまた、この沈黙が“不自然すぎる”ことに気づいていた。
やがて二人は、扉の前へと立った。
アリニアの足が止まり、手が扉の表面に触れそうなところで止まる。
「もし……開けた瞬間に、何かの仕掛けが動いたら……?」
その声には、迷いと、覚悟と――確かな経験が滲んでいた。
アリニアはヴェイルに視線を送ったが――
それより先に、彼がそっと手を上げ、彼女を制した。
「……俺に任せてくれ」
低く、だがはっきりとした声。
「ちびオオカミ、待って……!」
驚いたように彼女が呼び止めるも――
ヴェイルはそれを遮るように、ゆっくりと扉に手をかけた。
そのまま、慎重に取っ手を回し――静かに引く。
アリニアの前に立ち、もし何かがあったとしても、彼女に被害が及ばないようにと無意識に体を差し出す。
その瞬間、ひやりとした風が廊下に吹き込んだ。
アリニアの銀髪がふわりと揺れ、光に淡くきらめく。
扉の先に現れたのは、らせん状の階段。
底の見えない、さらなる闇の中へと続いていた。
「――ッ!」
アリニアはヴェイルの腕を素早くつかみ、乱暴に引き戻した。
「馬鹿っ……! 罠があったらどうするつもりだったのよ!? それとも……もっと悪い何かがいたら……!」
怒りに満ちた叱責。
その声は、雷のように鋭く空気を裂いた。
ヴェイルはうつむき、肩を落とした。
「……ごめん。でも……君を危険に晒したくなかったんだ」
その声は素直で、どこか不器用で――
まっすぐすぎて、アリニアは言葉を詰まらせた。
(……もう。なんで、そういうことを……)
心の中で苦々しく思いながらも、頬がほんのりと染まってしまうのを止められなかった。
彼女は咄嗟に視線を逸らし、わずかに赤くなった頬を隠す。
「……気持ちは分かるけど。ダンジョンは遊び場じゃないの、ちびオオカミ」
淡々とした口調に戻しながらも、その中には微かな揺らぎがあった。
「一つの判断ミスで、命を落とすこともある。……もう二度と、勝手な真似はしないで」
ヴェイルは深く頷き、重くなった胸にその言葉を刻んだ。
するとアリニアは彼の肩に手を置いた。
それは厳しさと、どこか優しさを含んだ動きだった。
「よく聞きなさい、ちびオオカミ。仕組みが分からないなら、私に従って。
この床一つ、壁一つにだって罠が隠れてる。……“単純”なダンジョンなんて、幻想よ。そう信じた者から死んでいく」
静かで、だが凛としたその声が、闇に響く。
そうして彼女は再び前に出て、階段へと足を踏み入れた。
ヴェイルは、その背を追いかける。
心の奥に残る罪悪感と共に。
階段を下るごとに、空気はさらに重く、冷たくなっていく。
押しつぶすような静寂が、深さと共に増していく。
「……ここからが、本番よ。油断は、命取りになる」
アリニアが、低く呟いた。
――その時。
バァンッ!
階段の上方、今しがた通った扉が、激しい音を立てて閉ざされた。
反射的に振り返る二人。
だが、扉は静かに閉ざされていた。
開く気配は――ない。
「……もう戻れない。ここから先は、後退なし。進むしかないわ」
アリニアの声は、張り詰めた決意を帯びていた。
二人の視線が、再び交わる。
互いに語らずとも、分かっていた。
――この闇の先に、何があろうとも。
今の自分たちに残された道は、ただひとつ。
前へ――進むことだけ。
まるで一切の光を拒む、重く、息苦しいほどの黒い帳。
輪郭もなければ、奥行きもない。
ただそこにあるのは、視覚さえ押し潰すような沈黙と――圧迫感。
遠くで水が滴る音が反響し、その間を縫うようにして、かすかな囁きが耳の奥をかすめた。
聞こえるか聞こえないかの境界を揺れるその声は、不気味で、どこか生理的な嫌悪を掻き立てる。
「ちびオオカミ、扉を調べてくれる? さっきの入口みたいに」
背後から響いたその声に、ヴェイルはわずかに肩を跳ねさせた。
どこか懐かしいその声は、穏やかでいて、微かに緊張を孕んでいる。
「扉って……この暗さでどうやって探せってんだよ……」
苛立ちを滲ませながら、ヴェイルはぼそりと呟いた。
とはいえ、文句を言いつつも指先を前に伸ばし、手探りで歩き出す。
冷たい石壁がすぐに指に触れた。
濡れている。
まるで壁そのものが、来訪者を拒むかのように――いや、警告するかのように。
「……空気まで敵意を持ってるみたいだ。まともじゃねぇな、ここ」
独り言のように漏らしつつ、ヴェイルは壁伝いにゆっくりと進んだ。
数メートル先、指先が石ではない、異質な素材に触れる。
「……あった」
それは滑らかで、冷たく、金属の感触を持っていた。
ヴェイルは慎重にその表面をなぞる。だが、何も起こらない。
音も、振動も、手応えもなく――沈黙だけが返ってくる。
「動かねぇな……この扉、さっきのとは違う……それとも、別の仕掛けか」
溜息まじりに呟いたその声に、背後から再びアリニアの声が返る。
「……じゃあ、進むしかないわね」
淡々と、しかしどこか決意を含んだ声だった。
ヴェイルは小さく頷いた。どうせ見えていないのだから意味はない。
それでも彼は彼女の背後につき、音だけを頼りに後を追い始める。
足音が石の床に反響し、そのたびに空気が重く、どこか粘つくように感じられた。
まるで、影そのものがこちらの存在を認識し、密かに増殖しているかのように。
――その時だった。
パッ、と。
闇が破れるように、淡い紫の光が灯る。
壁に取り付けられた松明が、一つ、また一つと連鎖するように火を灯し始めた。
その炎は奇妙に揺らぎ、黒煙のような影が煙となって天井へと這い上がる。
「火が……ついた? でも、全然安心できねぇ……」
ヴェイルの呟きは、わずかな安心すら許さないその異様な光景を物語っていた。
明らかになったのは、先へと続く長い廊下。
湿った石の壁が鈍く光り、ところどころに水が染み出している。
足元の石畳は粗く組まれており、隙間にできた溝には水たまりが溜まっていた。
アリニアが、ぴたりと歩みを止めた。
それに気づいたヴェイルも、すぐに足を止める。
彼女の手が、静かに空中へと上がった――注意の合図だった。
空気が、張りつめる。
そして、再び沈黙が、二人を包んだ。
「気を抜かないで……」
アリニアは小さく、しかしはっきりと呟いた。
「何か聞こえるのか?」
ヴェイルが囁くように尋ねると、彼女は振り返らずに首をわずかに傾けた。
白い狼耳がぴんと立ち、あらゆる音を逃さぬように微かに動いている。
「……何も。聞こえるのは水の音だけ。でも、それが逆におかしいの」
静かな口調。だが、その声には張り詰めた警戒が滲んでいた。
「静かすぎる……それが、一番怖い」
アリニアはそっと壁際の松明へ近づく。
揺らめく紫の炎――それは不自然なほど静かに燃えていた。
「まさか……触れるつもりか?」
ヴェイルの声には、明らかな不安が混じっていた。
だが彼女は首を横に振り、目を細めたまま囁く。
「触れない。……見たいだけ」
伸ばされた指先が、炎のごく近くまで迫る。
数センチの距離。
だが、そこには確かに――何の反応もなかった。
「……熱がない。何も感じない……」
アリニアは眉をひそめ、指をそっと引いた。
「これは……自然のものじゃない。こういう存在には、意味がある」
その言葉には、経験からくる確信が宿っていた。
ヴェイルも松明に近づき、恐る恐る手をかざす。
「本当に……冷たい。っていうか、温度すらない。……これ、火って呼べるのか?」
不思議そうに呟いた彼は、しばしその炎を見つめる。
そこには風も、音もなく、ただ存在するだけの“虚無の火”が燃えていた。
「……お前の言う通りだ。完全におかしい」
アリニアは真剣な眼差しでヴェイルを見つめた後、再び前を向いた。
「後ろにいなさい。この火があるってことは……誰かが、あるいは“何か”が、ここにいるってこと」
彼女の声は、冷静で、だが決して軽くはなかった。
ヴェイルは拳を握りしめ、無言で頷いた。
二人は再び歩き出す。
その影が、紫の炎に照らされてゆらゆらと揺れながら、暗き通路を進んでいく。
空気が、重い。
まるで見えない圧力が背中にのしかかってくるようだった。
そして。
石壁に――奇妙な模様が浮かび始めた。
古びた彫刻。幾何学的な紋様。
入ってきたときに見たものと似ているが、もっと複雑で、密度が高い。
「この模様……見たこともない……誰が、なんのために?」
ヴェイルが眉をひそめながら呟いた。
手でなぞろうとしたが、そこには触れたくないような、直感的な嫌悪感があった。
アリニアは一歩前で立ち止まり、静かに周囲を見渡す。
氷のような視線が、壁の一つひとつを丁寧に探っていた。
罠か、仕掛けか、何かがある――そんな確信を持つように。
「この遺跡……普通じゃない。こんなの、初めて」
低く、そして静かに囁いたその声。
普段の冷静さの奥に、微かな不安が滲んでいた。
その言葉に、ヴェイルは背筋を冷たい何かが走るのを感じた。
「……こんなはずじゃなかったよな。ダンジョンって、もっと……“単純”なんじゃなかったっけ?」
ヴェイルが低く、不安を隠しきれない声で尋ねた。
アリニアは少しだけ首を傾けたが、返答はせず、視線は依然として壁のルーンに注がれていた。
彼女自身、その疑問に答えられなかったのだ。
――確かに、このダンジョンは「危険性が低い」とされていた。
事前の情報も、これまでの感覚も、そう告げていた。
だが、目の前に広がる現実は――そのすべてを裏切っていた。
ヴェイルはふらりと壁に近づき、刻まれた文様に手を伸ばした。
湿った石の感触。
その直後、指先から全身へと奇妙な感覚が走る。
ビリビリとした微細な振動。
それが神経を這い、脳に直接届くような、刺すような違和感へと変わっていく。
「……っ!」
ヴェイルは反射的に手を引き、顔をしかめた。
額を押さえながら、一歩後ろに下がる。
《な、んだこれ……? 頭の奥が……割れそうだ……!》
歯を食いしばる。
痛みを抑え込むように呼吸を整えようとするが――
心の奥で何かがきしむような、抑えきれない圧が渦巻いていた。
……アリニアには、言いたくなかった。
今この状況で、彼女に余計な不安を与えるわけにはいかない。
だが、わずかに乱れた呼吸と、肩に現れた緊張の影。
それは、彼女の鋭い感覚を欺くには不十分だった。
(……何か、異変が起きてる。彼、隠してる。でも――なぜ?)
ちらりと視線を向けたアリニアは、しかし問いただすことはなかった。
――今は、進むことが優先。
二人の足音が、再び石の床に響く。
水の滴る音と、耳の奥にまとわりつくような囁き。
それらが混ざり合い、異様な静寂を支配していた。
「気をつけて、ちびオオカミ。……この静けさ、逆に危険よ。いつ何が来てもおかしくない」
アリニアの声は、抑えられていたが確かな警戒心を含んでいた。
ヴェイルは無言で頷く。
言葉など必要ない。
心臓が、妙に速く打ち始めていた。
本能が、何かを告げていた。
通路の両壁に刻まれた文様は、歩を進めるごとにその数を増していく。
模様はますます複雑に、鋭く、禍々しさを増していた。
それはまるで、言葉にならない“警告”を叫んでいるかのように。
呼吸が重い。
空気が――確実に変わってきている。
そのとき、アリニアがふっと口元に笑みを浮かべた。
「……これが忠告だっていうなら、閉じ込める前にやってくれればよかったのにね」
淡く、皮肉を滲ませたその声が、圧迫された空気をわずかに揺らした。
ヴェイルは彼女を見たが、言葉を返す余裕はなかった。
頭の痛みは増し、意識が少しずつぼやけていく。
集中できない。
思考が霞んでいく。
――何かが、自分の中で“目覚めようとしている”。
そう確信した瞬間、彼の足はわずかにふらついた。
(……いつもより静か……良くない兆候よ。いったい彼の身に何が起きてるの?)
アリニアは歩きながら、ちらりとヴェイルの様子を伺った。
彼の沈黙は異様で、その様子は明らかに何かを押し隠しているようだった。
長く続く廊下――
終わりが見えず、歩けば歩くほど、何か見えない“真実”へと近づいていくような感覚。
だが、その先にあるものは――きっと、想像以上に暗く、深い。
時間の感覚はとうに失われていた。
このダンジョンでは、すべての常識が意味を失っていた。
どれだけ進んでも、景色が変わらない。
ただ、紫の火が揺らめき、無限のような錯覚を生み出していく。
「本当に……進んでるのか? それとも……このダンジョンが俺たちをからかってるのか……」
ヴェイルが、苛立ちを含んだ声でぽつりと呟いた。
先を歩くアリニアの動きは、変わらず滑らかだった。
だが、その背中には常に張り詰めた警戒が滲んでいる。
その時――
何の前触れもなく、空気が変わった。
壁に刻まれていた無数のルーンが、ひとつ、またひとつと消えていく。
それはまるで、石に染み込んでいた何かが、音もなく溶けていくかのようだった。
松明の炎も、紫から徐々に色を変え始める。
自然とは言い難いが、少なくとも先ほどよりは“現実的”な光。
「何かが変わった……でも、それが“良い兆し”とは限らないわ」
アリニアの声には、静かな緊張があった。
足元の床は、粗雑だった石畳から、滑らかに磨かれた黒い石へと変わる。
壁もまた、濡れた煉瓦ではなく、均一で冷たさを感じさせる暗黒の壁面へと――
その瞬間。
――ギィィィアアアアッ!!
耳を裂くような悲鳴が、闇の奥から響き渡った。
アリニアとヴェイルは、反射的に動いた。
アリニアはすでに武器を構え、鋭い視線で周囲を確認している。
ヴェイルもすぐに剣を抜き、背中を預けるようにしてアリニアに続いた。
胸の鼓動が、喉の奥で高鳴る。
「今のは……なんだ……?」
かすれた声で問うヴェイルに、アリニアは低く囁いた。
「分からない。でも……後ろにいて」
鋭い集中。
彼女の瞳はわずかな闇の揺れさえも見逃さない。
だが――
何も現れなかった。
叫び声が嘘のように消え、再び静寂が支配する。
二人は慎重に前進を再開した。
その手には、まだ緊張が残っている。
そして、前方の闇に――
重厚な扉の枠が、ゆっくりと姿を現した。
質素だが、存在感のある構造。
その重みに、ただならぬ気配が宿っている。
アリニアは振り返り、ヴェイルを見つめた。
澄んだ青の瞳が、揺るがぬ意志を告げていた。
「何度も言うけど……気を抜かないで。この異様な静けさ――本来なら、もう何かと遭遇してるはず」
ヴェイルは黙って頷く。
彼もまた、この沈黙が“不自然すぎる”ことに気づいていた。
やがて二人は、扉の前へと立った。
アリニアの足が止まり、手が扉の表面に触れそうなところで止まる。
「もし……開けた瞬間に、何かの仕掛けが動いたら……?」
その声には、迷いと、覚悟と――確かな経験が滲んでいた。
アリニアはヴェイルに視線を送ったが――
それより先に、彼がそっと手を上げ、彼女を制した。
「……俺に任せてくれ」
低く、だがはっきりとした声。
「ちびオオカミ、待って……!」
驚いたように彼女が呼び止めるも――
ヴェイルはそれを遮るように、ゆっくりと扉に手をかけた。
そのまま、慎重に取っ手を回し――静かに引く。
アリニアの前に立ち、もし何かがあったとしても、彼女に被害が及ばないようにと無意識に体を差し出す。
その瞬間、ひやりとした風が廊下に吹き込んだ。
アリニアの銀髪がふわりと揺れ、光に淡くきらめく。
扉の先に現れたのは、らせん状の階段。
底の見えない、さらなる闇の中へと続いていた。
「――ッ!」
アリニアはヴェイルの腕を素早くつかみ、乱暴に引き戻した。
「馬鹿っ……! 罠があったらどうするつもりだったのよ!? それとも……もっと悪い何かがいたら……!」
怒りに満ちた叱責。
その声は、雷のように鋭く空気を裂いた。
ヴェイルはうつむき、肩を落とした。
「……ごめん。でも……君を危険に晒したくなかったんだ」
その声は素直で、どこか不器用で――
まっすぐすぎて、アリニアは言葉を詰まらせた。
(……もう。なんで、そういうことを……)
心の中で苦々しく思いながらも、頬がほんのりと染まってしまうのを止められなかった。
彼女は咄嗟に視線を逸らし、わずかに赤くなった頬を隠す。
「……気持ちは分かるけど。ダンジョンは遊び場じゃないの、ちびオオカミ」
淡々とした口調に戻しながらも、その中には微かな揺らぎがあった。
「一つの判断ミスで、命を落とすこともある。……もう二度と、勝手な真似はしないで」
ヴェイルは深く頷き、重くなった胸にその言葉を刻んだ。
するとアリニアは彼の肩に手を置いた。
それは厳しさと、どこか優しさを含んだ動きだった。
「よく聞きなさい、ちびオオカミ。仕組みが分からないなら、私に従って。
この床一つ、壁一つにだって罠が隠れてる。……“単純”なダンジョンなんて、幻想よ。そう信じた者から死んでいく」
静かで、だが凛としたその声が、闇に響く。
そうして彼女は再び前に出て、階段へと足を踏み入れた。
ヴェイルは、その背を追いかける。
心の奥に残る罪悪感と共に。
階段を下るごとに、空気はさらに重く、冷たくなっていく。
押しつぶすような静寂が、深さと共に増していく。
「……ここからが、本番よ。油断は、命取りになる」
アリニアが、低く呟いた。
――その時。
バァンッ!
階段の上方、今しがた通った扉が、激しい音を立てて閉ざされた。
反射的に振り返る二人。
だが、扉は静かに閉ざされていた。
開く気配は――ない。
「……もう戻れない。ここから先は、後退なし。進むしかないわ」
アリニアの声は、張り詰めた決意を帯びていた。
二人の視線が、再び交わる。
互いに語らずとも、分かっていた。
――この闇の先に、何があろうとも。
今の自分たちに残された道は、ただひとつ。
前へ――進むことだけ。
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