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プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
第51章:不名誉なる帰還
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闇が、すべてを呑み込んだ。
音も、痛みも、何もかもが消え去った。
まるで、自分という存在そのものが、世界から消滅してしまったかのように。
身体の感覚はなかった。
意識だけが、果てしない虚無を彷徨っている。
動こうとした。
声を出そうとした。
だが、どこにも反応はなかった。
ただ――
息苦しいほどの、完全なる虚無が広がっていた。
それでも、彼は覚えていた。
スペクトル。
身体を貫いた冷たい刃。
全身を蝕むような氷のような痛み。
そして――
動かないまま倒れていたアリニアの姿。
そのとき、不意に音が響いた。
笑い声だった。
低く、深く、虚無の中に反響する不気味な笑み。
ヴェイルは、身体のない自分に震えを感じた。
本能が叫んでいた――
「それを、以前にも聞いたことがある」と。
あの夢で、確かに聞いた声だ。
そして、光が現れた。
鋭く、目が焼かれるほどのまばゆい閃光。
目を閉じようとした……だが、目がないことに気づく。
身体など、どこにもなかった。
ただ、意識だけが漂っていた。
光が徐々に薄れたとき――
そこに浮かんでいたのは、巨大な赤い瞳。
二つ。
こちらをじっと見つめ、
魂の奥深くまで覗き込むような、冷たい視線。
それらからは、耐えがたいほどの威圧感が放たれていた。
その“存在”だけで、ヴェイルは微塵の抵抗すら許されない。
そして、笑いが止む。
次の瞬間、男のような声が響いた。
「……哀れなものだな。弱すぎる。」
嘲るような、乾いた声。
ヴェイルの“本質”を、冷たく貫いてくる。
……この声も、聞いたことがある。
「召喚者がこの程度とはな……がっかりだ。」
――召喚者?
何のことだ?
混乱が頭を覆い尽くす。
恐怖が心を蝕む。
だが、何もできない。
また、あの声が響いた。
今度は刃のように鋭く、容赦がない。
「こんな雑魚のために介入しなければならんとは……屈辱にもほどがある。」
声を出そうとした。
問いかけようとした。
けれど、何も発せられない。
それを察したかのように、“それ”は言葉を重ねる。
「理由か? 簡単なことだ。
この世界には、私に必要な“誰か”がいる。
そして、お前の魂が、それに応じた。」
深く、重たい沈黙が落ちる。
まるで宣告のような、その重さ。
――なぜ、自分なのか。
ヴェイルは必死に思い出そうとする。
だが、浮かぶのは、ただの空白だった。
そして、その存在が告げる。
冷たく、断罪のように。
「もう一度だけ、機会をやろう。
だが、肝に銘じろ。
次にしくじれば――今度こそ、見捨てる。」
重圧が襲いかかる。
存在のすべてが、今にも断ち切られそうな感覚。
「……戦う理由も持たぬ存在など、消えて然るべきだ。」
赤い瞳が、すぅっと閉じられていく。
その視線が消えると同時に――
再び、闇がすべてを覆った。
それは、先ほどよりもさらに深く、息苦しい闇だった。
――現実――
スペクトルは、静かにそこに立っていた。
その身体から広がる霧が、じわじわとヴェイルの体へと伸びていく。
まるで、すべてを包み込み、飲み込もうとするかのように。
その黒い影は、彼を“終わり”へと導くために迫っていた。
だが――
その瞬間。
闇を裂くように、光が弾けた。
最初は弱々しく――
ヴェイルの身体にうっすらと灯った、かすかな緑の輝き。
だがそれは、徐々に強く、鋭く、
まるで神の息吹のように、鮮やかに輝きを増していった。
その光は、スペクトルによって穿たれた傷口からあふれ出していた。
神経一本、筋繊維一筋に至るまで――
破れた肉が、裂かれた皮膚が、
その輝きに包まれて再生していく。
血は消え、心臓は元の位置に戻り、
脈打つ鼓動と共に純粋なエネルギーが全身に巡っていった。
スペクトルが、後ずさる。
赤く濁った瞳が細められ、
口元の笑みが、怒りの呼気にかき消される。
影の手が振り上げられた。
まるで、そのまばゆい光を払おうとするかのように。
だが――届かない。
「グァアアアアッ!!」
凄まじい咆哮と共に、闇が震える。
柱がきしみ、床の埃が舞い上がるほどの衝撃波が走った。
だが、無駄だった。
――ヴェイルは、生き返ったのだ。
光はさらに強さを増し、
スペクトルの闇を、静かに、だが確実に押し返していく。
そして、最後の瞬間――
一閃の閃光が、全てを貫いた。
爆ぜるように輝くその光は、
空間を包む闇を断ち切り、
スペクトルの姿を掻き消していく。
影は後退し、闇は破れ、
そして――彼はその場から、消えた。
……静寂。
……そして、
ドクン――ドクン……
鼓動。
ドクン、ドクン、ドクンッ、ドクンッ!
ヴェイルの心臓が、高鳴った。
それは空間全体に響き渡るほどの力強さ。
確かに、彼は“生きていた”。
身体が跳ねた。
まるで水底から浮上するかのように、激しく。
「はぁっ――!」
一気に空気を吸い込む。
まるで長い間息を止めていたかのような、苦しげな呼吸。
まぶたが震え、目が見開かれる。
強すぎる光に焼かれるように、目を細めながら、何度も瞬きを繰り返した。
周囲が、徐々に視界に戻ってくる。
――まだ、あの部屋だ。
彼は、ここにいた。
ふらつきながらも、身体を起こす。
筋肉が奇妙な軽さを持ちながらも、
同時に内からあふれ出すようなエネルギーを宿していた。
深く息を吸い、身体を馴染ませる。
そして――
目を向けた。
アリニア。
床に倒れたまま、微動だにしない。
あのとき見た、まさにその姿。
喉の奥が、きゅっと締まる。
すぐにでも駆け寄りたかった。
だが――
本能が、彼の足を止めさせた。
一歩、下がる。
その瞬間。
地面から、影の手が突き上がった。
ヴェイルの足を掴もうとする、漆黒の腕。
「っ……!」
息が詰まる。
スペクトルは――まだ、いた。
とっさに腰へと手を伸ばす。
――だが、そこにあるはずの短剣はなかった。
そうだ。落としたのだ。
倒れた直後、意識が途切れる前に。
目を走らせる。
武器は――あった。数メートル先。
自分が崩れ落ちたその場所に。
迷わなかった。
ヴェイルは一気に駆け出し、
身を屈めながら地面に手を伸ばす。
そして――短剣を握る。
振り返った瞬間。
そこに、いた。
スペクトル。
再び形成された闇の中、
紫の炎がゆらめく空間に、そいつは立っていた。
……だが、以前と違っていた。
もはや、笑っていなかった。
嘲笑も、余裕もなかった。
赤い目は怒りに染まり、
細く鋭いスリットが、獲物を睨むように震えていた。
霧が脈動する。
吐き出される冷気が、部屋全体を包んでいく。
そして――
――パンッ、パンッ!
乾いた、鋭い音が二度。
「……来る……!」
ヴェイルは奥歯を噛み締めた。
――この音を、彼は知っていた。
二本の影の刃が、突如として飛び出した。
だが今回は――
それらはヴェイルを襲わなかった。
突き立ったのは、地面だった。
「っ……!」
ヴェイルは眉をひそめる。
すぐに地中からの奇襲を警戒し、身を翻して回避に入った――
だが、次の瞬間。
「……っ!?」
脚に、激痛が走った。
切り裂かれたのは、地面ではなかった。
真上から――襲ってきたのだ。
足元から細く血が流れる。
致命傷ではない。浅い切り傷。
……だが、それだけで充分だった。
彼は悟った。
自分の「読み」が、外れていたことを。
「チッ……!」
悔しげに舌打ちしつつ、ヴェイルは短剣を握り直す。
そして、眼前の闇へ視線を向けた。
そこに浮かぶ、黒い影。
忘れてなどいない。
こいつの“弱点”は、もう知っている。
「……遊びたいってんなら、付き合ってやるよ。」
片口に笑みを浮かべながら、彼は低く構える。
「でもな――
今の俺は、お前の倒し方を知ってる。」
だが、スペクトルは反応しなかった。
その赤い瞳はヴェイルを見つめたまま、微動だにしない。
……違った。
今回は、何かが違う。
影が――広がり始めた。
黒い霧がゆっくりと滲み出し、
それはまるで意志を持っているかのように、
空間全体へと伸びていく。
数秒も経たぬうちに、
部屋全体が、厚く重い闇に包まれた。
スペクトルの姿は、完全にその中へと消える。
「クソッ……」
ヴェイルは唇を噛んだ。
紫の炎はまだ残っていた。
だが、光は弱々しく、
今や闇に呑み込まれそうになっている。
彼は辺りを見渡す。
闇の奥に何かが潜んでいる気配。
だが――見えない。
何も。
彼は手を前に出し、魔力を集中させる。
そして――
「はぁッ!」
掌から解き放たれた魔力が、風となって炸裂する。
竜巻のように渦を巻く風が、
周囲の霧を凍らせていく。
砕けた霧が氷結し、
ぱらぱらと音を立てて床に落ちる。
一瞬、視界が開けた。
だが、その“わずかな光”も――
すぐに霧が飲み込んでいく。
「……遊んでるつもりかよ……」
怒気を滲ませた声が、闇に溶けた。
「そんなに隠れてて、どれだけ持つつもりだ……?」
もちろん、返事などなかった。
それでも――声に出さずにはいられなかった。
そのとき――
「……っ?」
音がした。
硬く、低く、鈍い――
空間を裂くような、重たい音。
……軋むような、割れるような音。
ヴェイルの背筋が、ぞくりと震えた。
「どこだ……?」
音は――一箇所ではなかった。
空間全体に響いていた。
右でも左でもない。
上か下かも、わからない。
ただ、不快な“何かが割れる音”だけが、鳴り響いていた。
彼は数歩後退し、警戒を強める。
音の主を見つけようと、視線を走らせた。
だが――
音が、止まった。
同時に、空気の流れも変わる。
霧が、拡散をやめ――
収束し始めた。
「……吸い込まれてる?」
霧のすべてが、
空間のある一点へと吸い寄せられていく。
ヴェイルの目が、その“動き”をとらえた。
黒い煙が、地面の亀裂へと流れ込んでいく。
床に走った細かい裂け目――
その中に、霧が溶けていくように。
彼はすぐに理解した。
……これは、逃走でも攻撃でもない。
これは――罠だ。
その裂け目は、ヴェイルに向かっていたわけではなかった。
それらは、周囲を包んでいたのだ。
――囲まれている。
その瞬間、霧がすべて消え去る。
かつてのように、部屋の輪郭が見えるようになった。
だが、スペクトルの姿は――どこにもなかった。
ヴェイルは、身構えた。
筋肉を極限まで緊張させながら、
部屋の隅々まで視線を走らせる。
「……どこに隠れた……?」
低く、警戒心を滲ませながら呟いた。
その瞬間だった。
――グラッ。
足元が震える。
小さく、だが確かな振動。
背筋に、冷たいものが走った。
「……!」
スペクトルは、もはや周囲にはいなかった。
今――
「……下だ。」
ヴェイルの囁きは、ほとんど息だった。
スペクトルは、彼の真下にいた。
音も、痛みも、何もかもが消え去った。
まるで、自分という存在そのものが、世界から消滅してしまったかのように。
身体の感覚はなかった。
意識だけが、果てしない虚無を彷徨っている。
動こうとした。
声を出そうとした。
だが、どこにも反応はなかった。
ただ――
息苦しいほどの、完全なる虚無が広がっていた。
それでも、彼は覚えていた。
スペクトル。
身体を貫いた冷たい刃。
全身を蝕むような氷のような痛み。
そして――
動かないまま倒れていたアリニアの姿。
そのとき、不意に音が響いた。
笑い声だった。
低く、深く、虚無の中に反響する不気味な笑み。
ヴェイルは、身体のない自分に震えを感じた。
本能が叫んでいた――
「それを、以前にも聞いたことがある」と。
あの夢で、確かに聞いた声だ。
そして、光が現れた。
鋭く、目が焼かれるほどのまばゆい閃光。
目を閉じようとした……だが、目がないことに気づく。
身体など、どこにもなかった。
ただ、意識だけが漂っていた。
光が徐々に薄れたとき――
そこに浮かんでいたのは、巨大な赤い瞳。
二つ。
こちらをじっと見つめ、
魂の奥深くまで覗き込むような、冷たい視線。
それらからは、耐えがたいほどの威圧感が放たれていた。
その“存在”だけで、ヴェイルは微塵の抵抗すら許されない。
そして、笑いが止む。
次の瞬間、男のような声が響いた。
「……哀れなものだな。弱すぎる。」
嘲るような、乾いた声。
ヴェイルの“本質”を、冷たく貫いてくる。
……この声も、聞いたことがある。
「召喚者がこの程度とはな……がっかりだ。」
――召喚者?
何のことだ?
混乱が頭を覆い尽くす。
恐怖が心を蝕む。
だが、何もできない。
また、あの声が響いた。
今度は刃のように鋭く、容赦がない。
「こんな雑魚のために介入しなければならんとは……屈辱にもほどがある。」
声を出そうとした。
問いかけようとした。
けれど、何も発せられない。
それを察したかのように、“それ”は言葉を重ねる。
「理由か? 簡単なことだ。
この世界には、私に必要な“誰か”がいる。
そして、お前の魂が、それに応じた。」
深く、重たい沈黙が落ちる。
まるで宣告のような、その重さ。
――なぜ、自分なのか。
ヴェイルは必死に思い出そうとする。
だが、浮かぶのは、ただの空白だった。
そして、その存在が告げる。
冷たく、断罪のように。
「もう一度だけ、機会をやろう。
だが、肝に銘じろ。
次にしくじれば――今度こそ、見捨てる。」
重圧が襲いかかる。
存在のすべてが、今にも断ち切られそうな感覚。
「……戦う理由も持たぬ存在など、消えて然るべきだ。」
赤い瞳が、すぅっと閉じられていく。
その視線が消えると同時に――
再び、闇がすべてを覆った。
それは、先ほどよりもさらに深く、息苦しい闇だった。
――現実――
スペクトルは、静かにそこに立っていた。
その身体から広がる霧が、じわじわとヴェイルの体へと伸びていく。
まるで、すべてを包み込み、飲み込もうとするかのように。
その黒い影は、彼を“終わり”へと導くために迫っていた。
だが――
その瞬間。
闇を裂くように、光が弾けた。
最初は弱々しく――
ヴェイルの身体にうっすらと灯った、かすかな緑の輝き。
だがそれは、徐々に強く、鋭く、
まるで神の息吹のように、鮮やかに輝きを増していった。
その光は、スペクトルによって穿たれた傷口からあふれ出していた。
神経一本、筋繊維一筋に至るまで――
破れた肉が、裂かれた皮膚が、
その輝きに包まれて再生していく。
血は消え、心臓は元の位置に戻り、
脈打つ鼓動と共に純粋なエネルギーが全身に巡っていった。
スペクトルが、後ずさる。
赤く濁った瞳が細められ、
口元の笑みが、怒りの呼気にかき消される。
影の手が振り上げられた。
まるで、そのまばゆい光を払おうとするかのように。
だが――届かない。
「グァアアアアッ!!」
凄まじい咆哮と共に、闇が震える。
柱がきしみ、床の埃が舞い上がるほどの衝撃波が走った。
だが、無駄だった。
――ヴェイルは、生き返ったのだ。
光はさらに強さを増し、
スペクトルの闇を、静かに、だが確実に押し返していく。
そして、最後の瞬間――
一閃の閃光が、全てを貫いた。
爆ぜるように輝くその光は、
空間を包む闇を断ち切り、
スペクトルの姿を掻き消していく。
影は後退し、闇は破れ、
そして――彼はその場から、消えた。
……静寂。
……そして、
ドクン――ドクン……
鼓動。
ドクン、ドクン、ドクンッ、ドクンッ!
ヴェイルの心臓が、高鳴った。
それは空間全体に響き渡るほどの力強さ。
確かに、彼は“生きていた”。
身体が跳ねた。
まるで水底から浮上するかのように、激しく。
「はぁっ――!」
一気に空気を吸い込む。
まるで長い間息を止めていたかのような、苦しげな呼吸。
まぶたが震え、目が見開かれる。
強すぎる光に焼かれるように、目を細めながら、何度も瞬きを繰り返した。
周囲が、徐々に視界に戻ってくる。
――まだ、あの部屋だ。
彼は、ここにいた。
ふらつきながらも、身体を起こす。
筋肉が奇妙な軽さを持ちながらも、
同時に内からあふれ出すようなエネルギーを宿していた。
深く息を吸い、身体を馴染ませる。
そして――
目を向けた。
アリニア。
床に倒れたまま、微動だにしない。
あのとき見た、まさにその姿。
喉の奥が、きゅっと締まる。
すぐにでも駆け寄りたかった。
だが――
本能が、彼の足を止めさせた。
一歩、下がる。
その瞬間。
地面から、影の手が突き上がった。
ヴェイルの足を掴もうとする、漆黒の腕。
「っ……!」
息が詰まる。
スペクトルは――まだ、いた。
とっさに腰へと手を伸ばす。
――だが、そこにあるはずの短剣はなかった。
そうだ。落としたのだ。
倒れた直後、意識が途切れる前に。
目を走らせる。
武器は――あった。数メートル先。
自分が崩れ落ちたその場所に。
迷わなかった。
ヴェイルは一気に駆け出し、
身を屈めながら地面に手を伸ばす。
そして――短剣を握る。
振り返った瞬間。
そこに、いた。
スペクトル。
再び形成された闇の中、
紫の炎がゆらめく空間に、そいつは立っていた。
……だが、以前と違っていた。
もはや、笑っていなかった。
嘲笑も、余裕もなかった。
赤い目は怒りに染まり、
細く鋭いスリットが、獲物を睨むように震えていた。
霧が脈動する。
吐き出される冷気が、部屋全体を包んでいく。
そして――
――パンッ、パンッ!
乾いた、鋭い音が二度。
「……来る……!」
ヴェイルは奥歯を噛み締めた。
――この音を、彼は知っていた。
二本の影の刃が、突如として飛び出した。
だが今回は――
それらはヴェイルを襲わなかった。
突き立ったのは、地面だった。
「っ……!」
ヴェイルは眉をひそめる。
すぐに地中からの奇襲を警戒し、身を翻して回避に入った――
だが、次の瞬間。
「……っ!?」
脚に、激痛が走った。
切り裂かれたのは、地面ではなかった。
真上から――襲ってきたのだ。
足元から細く血が流れる。
致命傷ではない。浅い切り傷。
……だが、それだけで充分だった。
彼は悟った。
自分の「読み」が、外れていたことを。
「チッ……!」
悔しげに舌打ちしつつ、ヴェイルは短剣を握り直す。
そして、眼前の闇へ視線を向けた。
そこに浮かぶ、黒い影。
忘れてなどいない。
こいつの“弱点”は、もう知っている。
「……遊びたいってんなら、付き合ってやるよ。」
片口に笑みを浮かべながら、彼は低く構える。
「でもな――
今の俺は、お前の倒し方を知ってる。」
だが、スペクトルは反応しなかった。
その赤い瞳はヴェイルを見つめたまま、微動だにしない。
……違った。
今回は、何かが違う。
影が――広がり始めた。
黒い霧がゆっくりと滲み出し、
それはまるで意志を持っているかのように、
空間全体へと伸びていく。
数秒も経たぬうちに、
部屋全体が、厚く重い闇に包まれた。
スペクトルの姿は、完全にその中へと消える。
「クソッ……」
ヴェイルは唇を噛んだ。
紫の炎はまだ残っていた。
だが、光は弱々しく、
今や闇に呑み込まれそうになっている。
彼は辺りを見渡す。
闇の奥に何かが潜んでいる気配。
だが――見えない。
何も。
彼は手を前に出し、魔力を集中させる。
そして――
「はぁッ!」
掌から解き放たれた魔力が、風となって炸裂する。
竜巻のように渦を巻く風が、
周囲の霧を凍らせていく。
砕けた霧が氷結し、
ぱらぱらと音を立てて床に落ちる。
一瞬、視界が開けた。
だが、その“わずかな光”も――
すぐに霧が飲み込んでいく。
「……遊んでるつもりかよ……」
怒気を滲ませた声が、闇に溶けた。
「そんなに隠れてて、どれだけ持つつもりだ……?」
もちろん、返事などなかった。
それでも――声に出さずにはいられなかった。
そのとき――
「……っ?」
音がした。
硬く、低く、鈍い――
空間を裂くような、重たい音。
……軋むような、割れるような音。
ヴェイルの背筋が、ぞくりと震えた。
「どこだ……?」
音は――一箇所ではなかった。
空間全体に響いていた。
右でも左でもない。
上か下かも、わからない。
ただ、不快な“何かが割れる音”だけが、鳴り響いていた。
彼は数歩後退し、警戒を強める。
音の主を見つけようと、視線を走らせた。
だが――
音が、止まった。
同時に、空気の流れも変わる。
霧が、拡散をやめ――
収束し始めた。
「……吸い込まれてる?」
霧のすべてが、
空間のある一点へと吸い寄せられていく。
ヴェイルの目が、その“動き”をとらえた。
黒い煙が、地面の亀裂へと流れ込んでいく。
床に走った細かい裂け目――
その中に、霧が溶けていくように。
彼はすぐに理解した。
……これは、逃走でも攻撃でもない。
これは――罠だ。
その裂け目は、ヴェイルに向かっていたわけではなかった。
それらは、周囲を包んでいたのだ。
――囲まれている。
その瞬間、霧がすべて消え去る。
かつてのように、部屋の輪郭が見えるようになった。
だが、スペクトルの姿は――どこにもなかった。
ヴェイルは、身構えた。
筋肉を極限まで緊張させながら、
部屋の隅々まで視線を走らせる。
「……どこに隠れた……?」
低く、警戒心を滲ませながら呟いた。
その瞬間だった。
――グラッ。
足元が震える。
小さく、だが確かな振動。
背筋に、冷たいものが走った。
「……!」
スペクトルは、もはや周囲にはいなかった。
今――
「……下だ。」
ヴェイルの囁きは、ほとんど息だった。
スペクトルは、彼の真下にいた。
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絶望的な戦況ほど、彼女の拳と心臓は高鳴っていく。期待を背負ったお姫様ギャンブラーによる、計算不能の学園蹂躙劇が幕を開ける!
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