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プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
第52章:刃の延長
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足元が震えていた。
ヴェイルは身を低くし、両腕を広げてバランスを取る。
だが、揺れは次第に強まり、ついには立っているのも難しくなった。
そして――
突然、すべてが静まった。
空間を支配するような、重たい沈黙。
だがヴェイルは知っていた。
この静けさは、“嵐の前”だということを。
次の瞬間、床の裂け目から――
黒い煙が漏れ出した。
最初は、薄く、透き通るような靄。
だがすぐに、濃く、重く、
まるで液体のような黒霧となって、
空間を覆っていった。
「っ……!」
地面が、激しく揺れた。
足元が崩れ、ヴェイルは片膝をつく。
その間にも、黒霧は広がり続け、
視界をすべて飲み込んでいく。
――見えない。
何も。
どこが壁か、どこが敵か、何もわからない。
背中を冷たい汗がつたう。
このまま、止まっているわけにはいかない。
ヴェイルは立ち上がろうとし、
周囲を必死に探ろうとした。
そのとき――
それは現れた。
黒い海から、這い出すように。
――無数の“手”。
地面の亀裂から、影の手が現れた。
ゆっくりと空へと伸び、
まるで水中を漂うように蠢いている。
指先が震え、何かを求めるように蠢動する。
確実に、“こちら”を狙っていた。
「……なんなんだよ、これ……」
言葉が漏れる。思考が回る。
ここに留まっていれば、間違いなく取り込まれる。
――風、だ。
彼は思い出した。
あのときスペクトルを押し返した、冷気を帯びた風。
すぐさま短剣を鞘に収め、両手を構える。
魔力を集中させる。
無駄撃ちはできない。
一発きり。狙いを誤れば、終わりだ。
近づいてくる。
影の手が、空間を這うようにして迫ってくる。
息が白くなる。
温度が――下がってきている。
スペクトルが近い。
この霧の中に、確実にいる。
そのとき。
「っ……!」
身体を走る、寒気。
それが合図だった。
「いけぇぇぇッ!!」
ヴェイルは魔力を一気に解放した。
ドォン!!
爆発するような風が四方へと広がる。
凄まじい風圧が渦を巻き、
周囲の黒霧を切り裂いていく。
砂埃が巻き上がり、
影の手が風に煽られて翻弄される。
一番近かった影が、風に呑まれた。
「……っ!」
凍った。
黒い指先が、ピタリと動きを止めたかと思えば、
それは瞬く間に氷結し――
パリンッ!
砕けた。
氷のように、空中で砕け散った。
次々と凍る。
次々と砕ける。
その瞬間――
「ギィィアアアアアアッ!!」
地の底から響くような悲鳴が上がった。
凍てつく絶叫。
痛みのこもった、獣のような咆哮。
――効いている。
ヴェイルは拳を握りしめた。
確かに、ダメージは通っている。
だが――それも束の間だった。
次の瞬間、裂け目から黒煙が噴き出す。
空間を埋め尽くすように、濃密な闇があふれ出す。
スペクトルが、姿を現した。
その身体は不規則に波打ち、
赤い眼光が二本の細い線となってヴェイルを貫く。
激怒しているのが、明らかだった。
闇が震え、空気が唸る。
「……来るか……!」
ヴェイルは短剣を構えた。
だが――息が荒い。
胸が上下し、喉が焼けるようだった。
身体は回復しても、魔力は――限界に近い。
ここで決めるしかない。
これ以上、引き延ばせば――もたない。
スペクトルは、猶予を与えなかった。
――パンッ! パンッ! パンッ!
三つの鋭い音。
ヴェイルはとっさに横へ飛ぶ。
空を裂くように三本の影の刃が飛来した。
地を転がりながら、そのうちの一つが肩をかすめる。
冷たい風が皮膚をなぞるように通り過ぎ――
振り向いた時には、もう影の姿は消えていた。
「……逃げてばかりかよ……」
低くうなりながら、ヴェイルは短剣を握り直す。
闇が揺れる。流れる。まるで液体のように。
――ドクン。
鈍い鼓動のような振動。
その直後、スペクトルが姿を現す。
だが、ヴェイルは動じなかった。
今度は――読んでいた。
「……今度はこっちの番だ」
影が現れた瞬間、彼は足元に魔力を集中させ――
爆風のように風を解き放つ。
その勢いで身を逸らし、影の刃をかわす。
斬撃は、ほんの一秒前まで彼がいた場所を貫いた。
心臓が激しく脈打つ。
呼吸が荒い。
このまま回避を繰り返していても、いつか限界が来る。
倒すしかない。
先に、こちらから仕掛けるしか。
――どうやって?
ヴェイルは視線を上げ、
スペクトルの“顔”ともいえる暗闇を見つめた。
そこに浮かぶ、赤い光。
異様な輝きと圧力を放つ、その目。
なぜかわからない。
だが――そこだ。
〈あそこが……弱点だ〉
直感がそう叫んでいた。
ならば、選択肢は一つ。
逃げない。
かわさない。
――先に、仕留める。
「……もし、魔力を放てるなら……」
短く息を吐きながら、ヴェイルは囁く。
「刃に、纏わせることもできるはずだ……」
未知の領域だった。
だが、もう後がない。
すべてを賭ける時だ。
彼は意図的に、力を抜いた。
肩を落とし、わざと隙を見せる。
意識が散っているかのように振る舞い、油断を誘う。
――来い。
スペクトルが、反応した。
鋭い金属音のような音と共に、影の刃が再び放たれる。
ヴェイルは寸前でそれを回避。
だが今度は、敵の姿が消えなかった。
「っ……何か企んでやがる……」
地面に突き立った影の刃。
それが――沈んでいく。
黒い亀裂の中へと、ゆっくりと。
ヴェイルは理解した。
〈来る……!〉
地面が――爆ぜた。
「……ッ!」
足元から、槍のように鋭い影が突き上がる。
ヴェイルはとっさに魔力を解放。
足元に突風を起こして身体を浮かせる。
ギリギリで影を避ける――
だが、足がふらつく。
魔力の消費が激しすぎる。
息が続かない。
手が震える。
けれど――
(ここで、終わらせる……!)
短剣を構え直す。
狙うは、正面。
奴の“目”。
そこに、全魔力を――
……だが。
スペクトルは読んでいた。
黒い波が広がる。
そして、現れたのは――刃ではなかった。
――手。
三本の幽鬼のような手が、ヴェイルに向かって飛び出してきた。
その狙いは――
捕らえること。
影が、消えた。
そして、次の瞬間――
目の前に現れた。
「――っ!」
ヴェイルの呼吸が止まる。
……来る。
今こそ――
避けてはならない。
スペクトルの紅い瞳が、真っ直ぐに彼を射抜いた。
――パンッ!
鋭い音と共に、刃が振り下ろされる。
だが――
ヴェイルは、動かなかった。
右手に握った短剣へ、全魔力を流し込む。
「……ッ!」
刃の周囲に冷気が走る。
魔力が伸びる。風が巻く。
その力は、刃の先端を越えて、空間へと“延長”された。
時間が――遅くなる。
……だが、痛みは現実だった。
「ぐ、ああああッ!!」
叫びが漏れる。
影の刃が、彼の身体を貫いた。
左腕と、右脚。
肉を裂く冷気の衝撃が、全身を駆け抜ける。
だが、彼は――離さなかった。
痛みも、血も、焼けるような苦痛も。
すべてを押し殺し――
ただ、魔力を――放つ。
風が震える。
空間が揺れる。
「はあああああああッ!!」
刹那、風の閃光が走る。
それは刃から伸びた風の槍。
まっすぐに、スペクトルの右目を――
貫いた。
「ギィイアアアアアアアッ!!」
絶叫。
空間が揺れ、重圧が襲いかかる。
吹き荒れる衝撃が塵を巻き上げ、
空気が震える。
スペクトルのフードの中――
その暗闇が、凍りつき始めた。
「……ふっ、ざまぁ……」
呻きながらも、ヴェイルは踏みとどまる。
影の身体が、もがく。
氷を吐き出そうと必死に揺れる。
だが、遅かった。
黒い霧が――凍り始める。
触れた瞬間、細かな氷片となって崩れていく。
まるで闇そのものが砕けるように――
パリ……パリン……パリンッ!!
影の肉体が崩壊していく。
咆哮が、悲鳴に変わる。
怒りと苦痛が混じった、耳を裂く絶叫。
だが、それもすぐに消えていった。
スペクトルは後退した。
逃げようとした。
だが、もうどこにも逃げ場はなかった。
その姿に、亀裂が走る。
闇の装いが崩れ落ち、
影の身体が、瓦解していく。
ヴェイルは、動かなかった。
魔力の流れを止めず、刃を握り続ける。
呼吸は乱れ、身体は限界を訴えていた。
だが、止めなかった。
――あんな奴に。
――アリニアにしたこと。
――自分にしたこと。
……許すはずがない。
苦しめ。
終わりまで――苦しめ。
時が止まったような静寂。
そして――
「……ギッ……ア、ア……」
最後の、かすれた悲鳴。
スペクトルの身体が――砕けた。
黒い霧が、一斉に凍結し、
無数の氷片となって、空から降り注いだ。
――チリ……チリチリ……
紫の炎が、その氷片を照らし、きらめかせる。
スペクトルは――
倒された。
ヴェイルは、刃を下ろさなかった。
まだ、魔力を流し続けていた。
肩で荒く息をし、身体は震え、
血が滴っていた。
だが――
それでも、手を緩めなかった。
もうそこには、敵の影も、気配もなかった。
床には砕けた氷の破片。
吹き溜まりのように渦を巻く霧の名残。
それでも、彼の身体は信じようとしなかった。
戦いが終わったと――
心が、まだ信じていなかった。
魔力は、止まらなかった。
流れは制御を失い、枯渇寸前の身体から無理やり絞り出されていく。
短剣は手の中で震え、
呼吸は途切れ途切れに空気をかすめ、
意識は遠のいていく。
視界が揺れ、霞んだ。
……限界だった。
やがて、空気が静まり返る。
魔力の奔流が収まり、
ようやく、その身体は動きを止めた。
「……っ」
足が、崩れた。
そのまま、膝をつき、身体が崩れ落ちる。
もう、何も残っていなかった。
それでも、ヴェイルの目は――
アリニアだけを見つめていた。
「……アリニア……?」
震える声。
かすれた囁き。
返事は――なかった。
全身が凍りつくような感覚。
脳裏に走る、嫌な予感。
「頼む……起きてくれ……」
ヴェイルは、痛む身体に鞭を打ち、立ち上がろうとする。
脚が震える。
すぐに崩れ落ちそうになる。
それでも、前へ。
「……っ、動け……!」
視界が滲む。
涙か、疲労か。
もはやわからない。
「嘘だろ……そんなの……やめてくれよ……」
何度も繰り返す。
そうじゃないと、心が壊れてしまいそうで――
彼女はそこにいた。
確かに。
手が届く距離に。
なのに、動かない。
「アリニア……!」
震える足で、もつれながら進む。
だが、もう身体は限界を超えていた。
バランスを失い――
ドサッ。
床に崩れ落ちた。
乾いた呻き声が漏れる。
それでも、ヴェイルは――
起き上がった。
柱に手をつき、冷たい石に指を喰い込ませながら、無理やり身体を引き上げる。
「まだだ……終わってない……!」
一歩。
また一歩。
ふらつきながら、転びながら、進む。
ただ一つの答えを求めて――
そして、ようやく。
彼女のもとに、たどり着いた。
膝をつき、手を伸ばす。
「なあ……頼むよ……」
震える声。
かすれた息。
胸の奥からこみ上げる絶望に、喉がつまる。
「……今じゃない……」
頭を、そっと彼女の額に寄せる。
その瞬間――
「……っ」
感じた。
かすかに。
ほんの、わずかに――
呼吸が、あった。
息が止まる。
目を見開いたまま、動けなくなる。
――もう一度。
……あった。
「……生きてる……!」
力が抜けた。
安堵と共に、喉から笑いがこぼれる。
「……よかった……本当に……」
肩が落ちる。
重みが、すべて抜けていく。
だが同時に、自分の身体も崩れ始める。
もう、限界だった。
額を、彼女の肩に預けたまま――
意識が、ゆっくりと落ちていく。
呼吸が浅くなる。
瞼が重くなる。
そして――
胸の奥で、微かに響いた。
――ドクン。
最後の鼓動。
まだそこにある。
生きているという、証。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
それが――
彼の最後の意識だった。
そして、闇がすべてを包む。
ヴェイルは身を低くし、両腕を広げてバランスを取る。
だが、揺れは次第に強まり、ついには立っているのも難しくなった。
そして――
突然、すべてが静まった。
空間を支配するような、重たい沈黙。
だがヴェイルは知っていた。
この静けさは、“嵐の前”だということを。
次の瞬間、床の裂け目から――
黒い煙が漏れ出した。
最初は、薄く、透き通るような靄。
だがすぐに、濃く、重く、
まるで液体のような黒霧となって、
空間を覆っていった。
「っ……!」
地面が、激しく揺れた。
足元が崩れ、ヴェイルは片膝をつく。
その間にも、黒霧は広がり続け、
視界をすべて飲み込んでいく。
――見えない。
何も。
どこが壁か、どこが敵か、何もわからない。
背中を冷たい汗がつたう。
このまま、止まっているわけにはいかない。
ヴェイルは立ち上がろうとし、
周囲を必死に探ろうとした。
そのとき――
それは現れた。
黒い海から、這い出すように。
――無数の“手”。
地面の亀裂から、影の手が現れた。
ゆっくりと空へと伸び、
まるで水中を漂うように蠢いている。
指先が震え、何かを求めるように蠢動する。
確実に、“こちら”を狙っていた。
「……なんなんだよ、これ……」
言葉が漏れる。思考が回る。
ここに留まっていれば、間違いなく取り込まれる。
――風、だ。
彼は思い出した。
あのときスペクトルを押し返した、冷気を帯びた風。
すぐさま短剣を鞘に収め、両手を構える。
魔力を集中させる。
無駄撃ちはできない。
一発きり。狙いを誤れば、終わりだ。
近づいてくる。
影の手が、空間を這うようにして迫ってくる。
息が白くなる。
温度が――下がってきている。
スペクトルが近い。
この霧の中に、確実にいる。
そのとき。
「っ……!」
身体を走る、寒気。
それが合図だった。
「いけぇぇぇッ!!」
ヴェイルは魔力を一気に解放した。
ドォン!!
爆発するような風が四方へと広がる。
凄まじい風圧が渦を巻き、
周囲の黒霧を切り裂いていく。
砂埃が巻き上がり、
影の手が風に煽られて翻弄される。
一番近かった影が、風に呑まれた。
「……っ!」
凍った。
黒い指先が、ピタリと動きを止めたかと思えば、
それは瞬く間に氷結し――
パリンッ!
砕けた。
氷のように、空中で砕け散った。
次々と凍る。
次々と砕ける。
その瞬間――
「ギィィアアアアアアッ!!」
地の底から響くような悲鳴が上がった。
凍てつく絶叫。
痛みのこもった、獣のような咆哮。
――効いている。
ヴェイルは拳を握りしめた。
確かに、ダメージは通っている。
だが――それも束の間だった。
次の瞬間、裂け目から黒煙が噴き出す。
空間を埋め尽くすように、濃密な闇があふれ出す。
スペクトルが、姿を現した。
その身体は不規則に波打ち、
赤い眼光が二本の細い線となってヴェイルを貫く。
激怒しているのが、明らかだった。
闇が震え、空気が唸る。
「……来るか……!」
ヴェイルは短剣を構えた。
だが――息が荒い。
胸が上下し、喉が焼けるようだった。
身体は回復しても、魔力は――限界に近い。
ここで決めるしかない。
これ以上、引き延ばせば――もたない。
スペクトルは、猶予を与えなかった。
――パンッ! パンッ! パンッ!
三つの鋭い音。
ヴェイルはとっさに横へ飛ぶ。
空を裂くように三本の影の刃が飛来した。
地を転がりながら、そのうちの一つが肩をかすめる。
冷たい風が皮膚をなぞるように通り過ぎ――
振り向いた時には、もう影の姿は消えていた。
「……逃げてばかりかよ……」
低くうなりながら、ヴェイルは短剣を握り直す。
闇が揺れる。流れる。まるで液体のように。
――ドクン。
鈍い鼓動のような振動。
その直後、スペクトルが姿を現す。
だが、ヴェイルは動じなかった。
今度は――読んでいた。
「……今度はこっちの番だ」
影が現れた瞬間、彼は足元に魔力を集中させ――
爆風のように風を解き放つ。
その勢いで身を逸らし、影の刃をかわす。
斬撃は、ほんの一秒前まで彼がいた場所を貫いた。
心臓が激しく脈打つ。
呼吸が荒い。
このまま回避を繰り返していても、いつか限界が来る。
倒すしかない。
先に、こちらから仕掛けるしか。
――どうやって?
ヴェイルは視線を上げ、
スペクトルの“顔”ともいえる暗闇を見つめた。
そこに浮かぶ、赤い光。
異様な輝きと圧力を放つ、その目。
なぜかわからない。
だが――そこだ。
〈あそこが……弱点だ〉
直感がそう叫んでいた。
ならば、選択肢は一つ。
逃げない。
かわさない。
――先に、仕留める。
「……もし、魔力を放てるなら……」
短く息を吐きながら、ヴェイルは囁く。
「刃に、纏わせることもできるはずだ……」
未知の領域だった。
だが、もう後がない。
すべてを賭ける時だ。
彼は意図的に、力を抜いた。
肩を落とし、わざと隙を見せる。
意識が散っているかのように振る舞い、油断を誘う。
――来い。
スペクトルが、反応した。
鋭い金属音のような音と共に、影の刃が再び放たれる。
ヴェイルは寸前でそれを回避。
だが今度は、敵の姿が消えなかった。
「っ……何か企んでやがる……」
地面に突き立った影の刃。
それが――沈んでいく。
黒い亀裂の中へと、ゆっくりと。
ヴェイルは理解した。
〈来る……!〉
地面が――爆ぜた。
「……ッ!」
足元から、槍のように鋭い影が突き上がる。
ヴェイルはとっさに魔力を解放。
足元に突風を起こして身体を浮かせる。
ギリギリで影を避ける――
だが、足がふらつく。
魔力の消費が激しすぎる。
息が続かない。
手が震える。
けれど――
(ここで、終わらせる……!)
短剣を構え直す。
狙うは、正面。
奴の“目”。
そこに、全魔力を――
……だが。
スペクトルは読んでいた。
黒い波が広がる。
そして、現れたのは――刃ではなかった。
――手。
三本の幽鬼のような手が、ヴェイルに向かって飛び出してきた。
その狙いは――
捕らえること。
影が、消えた。
そして、次の瞬間――
目の前に現れた。
「――っ!」
ヴェイルの呼吸が止まる。
……来る。
今こそ――
避けてはならない。
スペクトルの紅い瞳が、真っ直ぐに彼を射抜いた。
――パンッ!
鋭い音と共に、刃が振り下ろされる。
だが――
ヴェイルは、動かなかった。
右手に握った短剣へ、全魔力を流し込む。
「……ッ!」
刃の周囲に冷気が走る。
魔力が伸びる。風が巻く。
その力は、刃の先端を越えて、空間へと“延長”された。
時間が――遅くなる。
……だが、痛みは現実だった。
「ぐ、ああああッ!!」
叫びが漏れる。
影の刃が、彼の身体を貫いた。
左腕と、右脚。
肉を裂く冷気の衝撃が、全身を駆け抜ける。
だが、彼は――離さなかった。
痛みも、血も、焼けるような苦痛も。
すべてを押し殺し――
ただ、魔力を――放つ。
風が震える。
空間が揺れる。
「はあああああああッ!!」
刹那、風の閃光が走る。
それは刃から伸びた風の槍。
まっすぐに、スペクトルの右目を――
貫いた。
「ギィイアアアアアアアッ!!」
絶叫。
空間が揺れ、重圧が襲いかかる。
吹き荒れる衝撃が塵を巻き上げ、
空気が震える。
スペクトルのフードの中――
その暗闇が、凍りつき始めた。
「……ふっ、ざまぁ……」
呻きながらも、ヴェイルは踏みとどまる。
影の身体が、もがく。
氷を吐き出そうと必死に揺れる。
だが、遅かった。
黒い霧が――凍り始める。
触れた瞬間、細かな氷片となって崩れていく。
まるで闇そのものが砕けるように――
パリ……パリン……パリンッ!!
影の肉体が崩壊していく。
咆哮が、悲鳴に変わる。
怒りと苦痛が混じった、耳を裂く絶叫。
だが、それもすぐに消えていった。
スペクトルは後退した。
逃げようとした。
だが、もうどこにも逃げ場はなかった。
その姿に、亀裂が走る。
闇の装いが崩れ落ち、
影の身体が、瓦解していく。
ヴェイルは、動かなかった。
魔力の流れを止めず、刃を握り続ける。
呼吸は乱れ、身体は限界を訴えていた。
だが、止めなかった。
――あんな奴に。
――アリニアにしたこと。
――自分にしたこと。
……許すはずがない。
苦しめ。
終わりまで――苦しめ。
時が止まったような静寂。
そして――
「……ギッ……ア、ア……」
最後の、かすれた悲鳴。
スペクトルの身体が――砕けた。
黒い霧が、一斉に凍結し、
無数の氷片となって、空から降り注いだ。
――チリ……チリチリ……
紫の炎が、その氷片を照らし、きらめかせる。
スペクトルは――
倒された。
ヴェイルは、刃を下ろさなかった。
まだ、魔力を流し続けていた。
肩で荒く息をし、身体は震え、
血が滴っていた。
だが――
それでも、手を緩めなかった。
もうそこには、敵の影も、気配もなかった。
床には砕けた氷の破片。
吹き溜まりのように渦を巻く霧の名残。
それでも、彼の身体は信じようとしなかった。
戦いが終わったと――
心が、まだ信じていなかった。
魔力は、止まらなかった。
流れは制御を失い、枯渇寸前の身体から無理やり絞り出されていく。
短剣は手の中で震え、
呼吸は途切れ途切れに空気をかすめ、
意識は遠のいていく。
視界が揺れ、霞んだ。
……限界だった。
やがて、空気が静まり返る。
魔力の奔流が収まり、
ようやく、その身体は動きを止めた。
「……っ」
足が、崩れた。
そのまま、膝をつき、身体が崩れ落ちる。
もう、何も残っていなかった。
それでも、ヴェイルの目は――
アリニアだけを見つめていた。
「……アリニア……?」
震える声。
かすれた囁き。
返事は――なかった。
全身が凍りつくような感覚。
脳裏に走る、嫌な予感。
「頼む……起きてくれ……」
ヴェイルは、痛む身体に鞭を打ち、立ち上がろうとする。
脚が震える。
すぐに崩れ落ちそうになる。
それでも、前へ。
「……っ、動け……!」
視界が滲む。
涙か、疲労か。
もはやわからない。
「嘘だろ……そんなの……やめてくれよ……」
何度も繰り返す。
そうじゃないと、心が壊れてしまいそうで――
彼女はそこにいた。
確かに。
手が届く距離に。
なのに、動かない。
「アリニア……!」
震える足で、もつれながら進む。
だが、もう身体は限界を超えていた。
バランスを失い――
ドサッ。
床に崩れ落ちた。
乾いた呻き声が漏れる。
それでも、ヴェイルは――
起き上がった。
柱に手をつき、冷たい石に指を喰い込ませながら、無理やり身体を引き上げる。
「まだだ……終わってない……!」
一歩。
また一歩。
ふらつきながら、転びながら、進む。
ただ一つの答えを求めて――
そして、ようやく。
彼女のもとに、たどり着いた。
膝をつき、手を伸ばす。
「なあ……頼むよ……」
震える声。
かすれた息。
胸の奥からこみ上げる絶望に、喉がつまる。
「……今じゃない……」
頭を、そっと彼女の額に寄せる。
その瞬間――
「……っ」
感じた。
かすかに。
ほんの、わずかに――
呼吸が、あった。
息が止まる。
目を見開いたまま、動けなくなる。
――もう一度。
……あった。
「……生きてる……!」
力が抜けた。
安堵と共に、喉から笑いがこぼれる。
「……よかった……本当に……」
肩が落ちる。
重みが、すべて抜けていく。
だが同時に、自分の身体も崩れ始める。
もう、限界だった。
額を、彼女の肩に預けたまま――
意識が、ゆっくりと落ちていく。
呼吸が浅くなる。
瞼が重くなる。
そして――
胸の奥で、微かに響いた。
――ドクン。
最後の鼓動。
まだそこにある。
生きているという、証。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
それが――
彼の最後の意識だった。
そして、闇がすべてを包む。
0
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