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第一章
しおりを挟む「エレナ・フィオーレ、今この場で君との婚約を破棄する」
王都最大の舞踏会、煌びやかなシャンデリアの下で響いたその声に、二百人を超える貴族たちが一斉に振り返った。
王宮の大広間は、まさに豪華絢爛の極みだった。
天井には三基の巨大なクリスタルシャンデリアが吊るされ、千を超える蝋燭の炎が水晶に反射して、まるで星空のような輝きを放っている。
壁面には金箔で装飾された鏡が並び、光を幾重にも反射させて、広間全体を幻想的な輝きで満たしていた。
床は白と黒の大理石が市松模様に敷き詰められ、貴族たちの靴音を優雅に響かせている。
銀髪を優雅に結い上げた少女は、手にしていたシャンパングラスをそっと近くのテーブルに置いた。
グラスと銀の受け皿が触れ合う微かな音さえ、静まり返った広間に響き渡る。
エレナは紫の瞳を一度だけゆっくりと瞬かせた。
長い睫毛が作る影が、白磁のような頬に儚げな陰影を落とす。
彼女が身に纏っているのは、淡い紫色のドレスだった。過度な装飾を避けた清楚なデザインだが、上質な絹の光沢が、彼女の気品を際立たせている。胸元には亡き母の形見である小さな真珠のブローチが控えめに輝き、細いウエストを強調するリボンは、彼女の銀髪と同じ色合いだった。
エレナは三年前から婚約していた侯爵家嫡男、カルロス・ヴァンドールをゆっくりと見つめた。
彼は白い礼服に身を包み、胸には侯爵家の紋章が誇らしげに輝いている。茶色の髪は最新の流行に従って整えられ、顎を僅かに上げた姿勢は、明らかに優越感に浸っていることを示していた。
彼の隣には、見覚えのある令嬢が寄り添っている。まるで既に彼の所有物であるかのように、カルロスの腕に自分の手を絡ませていた。
「ふふん」
公爵家のセレスティア嬢だ。炎のような赤毛を複雑に編み上げ、頭頂部には大粒のルビーが散りばめられた髪飾りが威圧的に輝いている。
真紅のドレスは胸元が大胆に開き、そこには彼女の豊満な胸元を強調するように、巨大なルビーのネックレスが鎮座していた。
「なんてこと……」
「このような場で言うとは」
周囲の貴族たちは、息を殺して成り行きを見守っていた。
扇子を持つ手が止まり、ワイングラスを口に運ぼうとしていた紳士たちも、その動作を中断している。
まるで時が止まったかのような静寂が、広間を支配していた。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
エレナの声は、朝露のように澄んでいた。
震えも怒りもない、ただ純粋な疑問を投げかけるような口調。
むしろ、その凛とした態度に周囲の貴族たちは息を呑んだ。
「なんて気丈なご令嬢なの」
年配の伯爵夫人が、隣の子爵夫人に向かって扇子で口元を隠しながら囁く。
「俺なら、その場で殴りかかっているところだぞ?」
若い男爵が、友人の耳元で呟く。
カルロスはそれらすべてを鼻で笑った。
大仰な仕草で茶色の髪を掻き上げ、見下すような視線を向ける。
次の瞬間、彼の指にはめられた金の印章指輪が、シャンデリアの光を反射してぎらりと光った。
「理由? 決まっているだろう。君のような平凡な男爵令嬢より、セレスティア嬢の方が私に相応しいからだ」
その言葉が放たれた瞬間、広間の空気が凍りついた。
幾人かの夫人たちが、扇子で顔を覆い、紳士たちは眉をひそめる。
あまりにも無礼な物言いに、王都の社交界でも評判の悪い若い伯爵でさえ、顔をしかめた。
「平凡、ですか」
エレナは小さく呟いた。
その声は感情を押し殺したように平坦だったが、彼女の指先が微かに震えているのを、鋭い観察眼を持つ者なら気づいただろう。
その瞬間、左手の薬指にはめていた婚約指輪が、微かに銀の光を放った。
一瞬のことで、まるで持ち主の感情に呼応したかのような、淡い燐光だった。
煌々と輝くシャンデリア中で、その神秘的な輝きに気づいた者はごく僅かだった。
「そうだ。君には魔力もない。家柄も男爵家では私と釣り合わない」
カルロスは勝ち誇ったように胸を張った。セレスティアが、彼の腕をより強く抱きしめる。
「三年も付き合ってやったことに感謝するべきじゃないか」
会場がさらにざわめいた。
貴族たちの間から、抑えきれない非難の声が漏れ始める。
「なんと無礼な」
「侯爵家の品格を疑うわ」
いくら何でも、この物言いは度を越していた。
公衆の面前で、しかも王都最大の舞踏会で、婚約者にこのような侮辱を与えるなど、貴族として最低の行為だった。しかし、カルロスは意に介さない。
むしろ周囲の反応を楽しんでいるかのようだった。
「セレスティア嬢は公爵家の令嬢で、炎の魔法の使い手だ。君とは格が違う」
セレスティアが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
彼女は優雅に右手を上げると、指先から小さな炎を生み出して見せた。オレンジ色の炎が、まるで生き物のように踊り、彼女の魔力を誇示する。赤いドレスと炎の組み合わせが、彼女を火の女王のように見せていた。
「ふふっ、カルロス様。もうこんな茶番は終わりにしましょう。私たちの幸せな未来が待っているのですから」
セレスティアの蜜のように甘い声が響く。
しかし、その声には隠しきれない悪意と優越感が滲んでいた。
エレナは深呼吸をした。
胸元のコルセットが窮屈に感じられたが、彼女は動じなかった。ゆっくりと顔を上げ、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
その所作は、まるで何年も修練を積んだ舞踏家のように優雅だった。そして、驚くほど優雅な動作で、深々と一礼した。スカートが床に美しい円を描く。
「分かりました。その婚約破棄、確かに承りました」
あまりにもあっさりとした返答に、カルロスが拍子抜けしたような顔をした。口を開きかけ、閉じ、また開く。まるで水から上げられた魚のような滑稽な表情だった。
セレスティアも予想外の反応に、眉をひそめる。もっと泣き叫び、みっともなく縋りつくものだと思っていたのだろう。
「泣き喚かないのか?」
カルロスの声には、明らかな困惑が混じっていた。
「なぜ泣く必要があるのでしょう。カルロス様がそうお決めになったのでしたら、私に異存はございません」
エレナはゆっくりと左手を上げ、薬指から指輪を外し始めた。
三年間、一度も外したことのない銀の指輪。
それを外す瞬間、微かな寂しさが胸を過ぎったが、それ以上に、重い鎖から解放されるような安堵感の方が大きかった。
指輪を外すと、それを白い手袋に包まれた掌に乗せ、カルロスに差し出した。
「三年間、ありがとうございました。どうぞお幸せに」
その瞬間、会場の端で見守っていた黒髪の青年が、意味深な笑みを浮かべた。
レオンハルト・アステリア公爵。彼は他の貴族たちとは明らかに一線を画す存在感を放っていた。漆黒の燕尾服に身を包んだ長身の体躯は、鍛え上げられた軍人のそれを思わせる。深い青の瞳は、まるで深海を覗き込むような神秘性を湛え、エレナの一挙一動を見逃さなかった。
彼の周りには、何人かの令嬢たちが集まっていたが、レオンハルトの視線は、ただエレナだけを追っていた。手にしたワイングラスを優雅に傾けながら、その唇に浮かぶ笑みは、まるで長年探していた宝物を見つけたかのような満足感を示していた。
「おい、待て」
カルロスが慌てたように声を上げた。額に汗が浮かび、顔が赤くなっている。明らかに、予想外の展開に動揺していた。
「その態度は何だ。もっと取り乱すべきだろう。俺を恨むべきだろう」
「私はこれで失礼いたします」
エレナは踵を返した。
銀の髪が優雅に翻り、淡い紫のドレスの裾が、まるで花びらのように広がる。
エレナが歩き始めると、貴族たちは自然に道を開けた。それは、敬意からか、同情からか、それとも単なる好奇心からか。いずれにせよ、彼女の堂々とした姿は、敗北者のそれではなかった。
大理石の床に、彼女のヒールが規則的な音を立てる。
その音は、まるで災厄の鐘の音のように、広間に響き渡った。
会場を後にするエレナの背中を、レオンハルトは興味深そうに見送った。
「愚かな男だ。自ら幸運を手放すとは」
彼の呟きは、再び騒がしくなり始めた喧騒の中に消えていった。
しかし、その瞳には、既に次の行動を決めたかのような、確固たる決意が宿っていた。
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